平清盛は一刻も早く東国を帰服させるよう遺言を残していた。
その遺言通りに平宗盛は頼朝追討のため家人を東国へ出発させ、平重衡もまた東国へ向かった……。
経過
墨俣川で激突
治承五年(1181)3月10日、源行家・源光家・源行頼・義円・泉重光らが尾張・三河の武士を引き連れて墨俣川周辺に陣を構えた。
平氏は大将軍平重衡をはじめ平維盛・平通盛・平忠度・平知度・平盛綱・盛久らが墨俣川の西岸に陣を張った。
『延慶本平家物語』では平氏軍3万騎、源氏軍6000騎と記されているが、『玉葉』では源氏軍5千余騎とあり、いずれにしても兵力では平氏軍が勝っていた。
行家は平家に夜襲を仕掛けようとしたが、馬を洗いに河俣へ来た重衡の舎人金石丸が源氏軍のようすを見て、急いで戻り重衡に報告した。
行家が出陣する前に重衡の兵が源氏軍を襲い、行家の軍勢は突然の攻撃に狼狽えるばかりだった。
源氏の大敗
兵力で勝る平氏軍への先制攻撃は失敗に終わり、源氏軍の大敗北となってしまった。
義円は平盛綱に討ち取られ、源行頼は平忠度に生け捕られ、泉重光とその弟次郎は盛久に討ち取られた。
ほかの兵たちも、河で溺れ死んだ者や負傷した者もいて、およそ690人余りが命を落とした。
これは、功を焦る行家と義円が先陣を争ったことによって源氏方の軍勢に大きな指揮系統の乱れが生じたことが敗因であり、水沢(低湿地)を背後に戦ったために機敏な退却ができなかったことも要因の一つとして考えられている。
『延慶本平家物語』では墨俣川での敗戦後、行家が相模国に移住し兵糧確保のために一国の支配を任せてくれるよう頼朝に頼んだが、断られたという話がある。
墨俣川での源氏軍敗北により、平氏は三河・遠江方面への進撃が可能になったが、不作による兵粮米の調達への不安と頼朝本隊が援軍として来ることへの警戒があったため、進撃はせず都に戻った。
花絮
範頼が頼朝に怒られる
源範頼は先陣を争って御家人たちと乱闘になったことを頼朝に知られ、「朝敵を追討する前に私的な戦いを起こしてはならない」と諌められた。(『吾妻鏡』寿永三年〈1184〉2月1日条)
参考資料
- 上杉 和彦「源平の争乱 (戦争の日本史6) 」吉川弘文館、2007年