鎌倉時代

静御前の舞

治承・寿永の乱では華々しい活躍を見せ平家を滅ぼした源義経だったが、無断任官や梶原景時の讒言もあり、兄である源頼朝から追われる身となった。
義経の愛妾・静御前も武蔵坊弁慶らとともに義経に付き添ったが、途中で離れ離れになり、鎌倉に護送された。

背景

経過

義経とはぐれる

源義経は船で移動しようとしていたが、暴風と逆浪のため渡海を中止した。
義経に付き従っていたのは源有綱・堀景光・武蔵坊弁慶・静という名前の妾のわずか4人だけだった。(『吾妻鏡』〈1185〉11月6日条)

文治元年(1185)11月17日亥の刻、静御前は吉野山の藤尾坂を降りて蔵王堂まで来たが、その様子を不審に思った衆徒たちに事情を尋ねられた。
静は答えた。(『吾妻鏡』同日条)

私は源義経の妾です。
5日間この山に留まっていましたが、衆徒が追ってきたという噂があったので、義経は山伏の姿を装って逃げました。
その時、義経は多くの金銀を私に与え、雑色の男らを付けて都に送ろうとしました。
ですが、雑色の男どもは私から財宝を奪い取り、深い雪山に置き去りにしたので、このように道に迷っていたのです。

結局、静が「義経は吉野山にいた」と言ったので、吉野山の大衆たちは再び義経を捜しに行った。
しかし、執行は静をかわいそうに思って、彼女の身柄については休養させた後で鎌倉へ護送することにした。(『吾妻鏡』同年11月18日条)

鎌倉へ護送される

同年12月8日、吉野山の執行は静の身柄を京都にいる北条時政の館に送った。(『吾妻鏡』同日条)

12月15日、時政は鎌倉に飛脚を派遣し、静の身柄をどうすべきか相談した。(『吾妻鏡』同日条)

12月16日、頼朝は時政へ静の身柄は鎌倉へ召し下すよう返事の手紙を送った。(『吾妻鏡』同日条)

文治二年(1186)1月29日、頼朝は未だに義経の居場所がつかめずにいたので、時政へ静の身柄を鎌倉に渡すよう命じた。(『吾妻鏡』同日条)

同年2月13日、時政から、静の身柄を鎌倉に送る予定との返事が届いた。(『吾妻鏡』同日条)

3月1日、時政の手配により、静が母の磯禅師を伴って鎌倉に到着した。安達清経の家に入ることになった。(『吾妻鏡』同日条)

義経の行方について尋問を受ける

3月6日、頼朝は静を召して義経の居場所についての尋問を行った。
吉野山の僧坊の主の名前を尋ねたが、静は覚えていないという。
証言の内容が京都での尋問と相違点がありすぎるということで、頼朝はなんとしても義経の居場所を聞き出すよう命じた。

京都での証言内容:
義経とともに西海に赴こうとして大物浜まで来たが、船が難破したので海を渡れなかった。
自分とともに義経に付き従っていた人々ともはぐれてしまい、その夜は天王寺に泊まった。
義経は自分に「迎えを遣わすから、もう一両日ここで待つように。ただし、約束の日を過ぎても迎えが来なければ、速やかに逃げるように」と約束した。
義経に言われたとおり待機していると、馬が送られてきたので乗った。三日後に吉野山にたどり着き、五日間逗留した後別れた。
その後、義経がどこへ向かったのかはまったくわからない。
自分は深い雪山を歩いて、やっと蔵王堂に着いたと思ったら、執行に捕えられた。

鎌倉での証言内容:
吉野山ではなく、吉野の僧坊に逗留していた。
大衆が追ってきたと聞いたので、義経は山伏に変装して大峰に入ると言って山中へ入って行った。
自分は僧坊の主に送られ、義経の後を追って大峰に入ろうとしたが、僧坊に止められたのでやむなく都へ向かった。
しかし、その途中でお供の雑色が財宝を奪い逃げてしまったので、道に迷いながら蔵王堂にたどり着いた。

3月22日、頼朝は再び静を尋問したが、義経の居場所は聞き出せなかった。
静は義経の子を身ごもっていたので、出産後に京都へ返すよう命じた。(『吾妻鏡』同日条)

鶴岡八幡宮で舞を披露

4月8日、頼朝と北条政子が鶴岡八幡宮に参詣した。
その際、政子が「せっかく天下の舞の名手である静御前が鎌倉に来ているのだから、京都に帰る前にその舞を見てみたい」と言ったので、頼朝は静に舞を披露するよう命じた。
静も、これまで舞を命じられたときは「義経の妾として大衆の前に姿を見せるのは屈辱的だ」と思っていたので、何かと理由を付けて拒んできた。
この場においても「最近は別れを悲しむばかりで、舞を披露できるような状態ではない」と固辞したが、頼朝の再三の命令によってやむなく舞うことになった。

鼓を工藤祐経が、銅拍子を畠山重忠が務めた。
静が歌い出した。

よし野山 みねのしら雪 ふみ分けて いりにし人の あとぞこひしき

次に別の曲を歌った後、再び和歌を歌った。

しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな

その場にいた者はみな感動したが、頼朝は「八幡宮の神前で芸を披露するときは、鎌倉の平和を祝うべきなのに反逆者の義経を慕った曲を歌うとはけしからん」と憤った。
しかし、政子になだめられ、褒美として卯花重の衣を与えたという。(『吾妻鏡』同日条)

5月14日、工藤祐経らが静の宿所で酒宴を開いた。静の母磯禅師も芸を披露した。
酩酊した梶原景茂が静を口説き始めた。
このとき、静は「私は鎌倉殿のご兄弟の妾なのですから、義経が落ちぶれていなければ御家人のあなたとこうして顔を合わせるなどありえないことです。
まして今のようなことはなおさらです」と言って号泣したという。(『吾妻鏡』同日条)

5月27日夜、静は大姫の命令により、勝長寿院で舞を披露し、褒美を賜った。(『吾妻鏡』)

男子を出産するも、海に捨てられる

閏7月29日、静が義経の子を出産した。
事前に、産まれた子が女子であれば母に返すが、男子であれば将来叛逆を起こす可能性を考慮して命を断つと決められていた。
しかし、産まれた子は男子だったので、頼朝は安達清経に命じて赤子を由比ヶ浜に捨てさせた。
清経が静から赤子を引き取ろうとするも、静は渡そうとせず赤子をぎゅっと抱きしめて数分間泣き叫び続けた。
磯禅師が赤子を奪い取り使者に渡した。
政子は頼朝を宥めたが、どうにもならなかった。(『吾妻鏡』同日条)

9月16日、静は磯禅師とともに暇を賜って帰洛した。
政子と大姫がこの母子を憐れんでたくさんの宝物を与えたという。(『吾妻鏡』同日条)

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