平安時代

【源平合戦】鹿ヶ谷の陰謀

鹿ヶ谷ししがたにの陰謀は、安元三年(1177)6月に京都の鹿ヶ谷(現・京都市左京区鹿ヶ谷)で開かれた、院近親の藤原成親や法勝寺執行の俊寛僧都らによる平氏打倒の謀議である。

鹿ヶ谷は俊寛の所領であり、後ろには三井寺があって堅固な城郭であることから、もし平家と合戦になった場合はここに籠城しようとしていた。

背景

安元二年(1176)7月8日、建春門院が亡くなった。

その後は藤原成親が後白河の寵愛を手に入れた。

平氏の専断

『平家物語』によると、安元三年(1177)その後の叙位除目は平家の思うままに行われた。

平重盛は左大将となり、平宗盛は右大将に叙せられた。

徳大寺実定は、大納言の地位で家柄もよかったにもかかわらず宗盛に先を越されたので、「出家するのではないか」という噂もあったが、しばらくは朝廷を静観しようと大納言を辞任して家に籠もり、世間との関わりを断った。

新しく大納言に叙せられた藤原成親は平宗盛が自分の位を飛び越えて昇進したのが面白くなかった。
これからも平家が好き放題に振る舞うようなら、平家を滅ぼそうと考えていた。
成親は密かに平家追討の計画を進めた。

実際に実定が大納言を辞任したのは永万元年(1165)8月17日で、安元三年(1177)3月5日には大納言に還任している。

経過

『平家物語』によると、鹿ヶ谷にある俊寛僧都の山荘で藤原成親らが平氏打倒の謀議を開いた。
『愚管抄』によると、後白河は法勝寺の前執行である静賢を頼りにしていたので、静賢が住んでいた鹿ヶ谷の山荘へ赴き謀議に参加したこともあったという。
成親・西光・俊寛らとともにさまざまな謀議を行ったという。

謀議が終わった後に酒宴が開かれ、酔っ払った法皇は同行していた静憲法印に平氏打倒の陰謀について喋った。
静憲が狼狽えていると、突然成親が立ち上がり御前の瓶子へいじを狩衣の袖に引っ掛けて倒した。

後白河が「あれはどうしたことだ」と尋ねると、大納言は立ち上がって「平氏が倒れました」と答えた。
後白河はご満悦になり「者ども、猿楽を舞え」と命じたので、平康頼が「ああ、あまりに平氏がたくさんいるので、酔っ払ってしまいました」と申した。
俊寛僧都が「さて、それをどうしましょう」と申すと、西光法師が「首を取ってやりましょう」と言って瓶子の首を取って席についた。

静憲はあまりの浅ましさに物を言うこともできず、まったく恐ろしいできごとだったという。

陰謀の露見

謀議には成親の誘いで源満仲の子孫多田行綱も参加していた。
成親は大将軍に多田行綱を指名し、行綱もこれを承諾した。

ところが、謀議の後で行綱は陰謀は無謀なことだと思い、清盛に密告した。

参考資料

  • 福田 豊彦 (編集)、関 幸彦 (編集)「源平合戦事典」吉川弘文館、2006年

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