篠原の戦いは、寿永二年(1183)6月1日に加賀国篠原で行われた平氏軍と木曽義仲軍の合戦である。
結果は、義仲軍の勝利に終わった。
背景
『平家物語』によると、倶利伽羅峠に向かった大手の平氏軍が敗北したことを聞いた搦手の平氏軍は、退却する途中で安宅湊の橋を引いて渡れないようにして、加賀国の篠原宿に陣を敷いた。
経過
『平家物語』によると、平氏軍は人馬を休息させて加賀国篠原に陣を敷いた。
5月21日辰の刻、義仲の軍勢が篠原を攻めてきた。
畠山重能率いる五百騎の軍勢は樋口兼光の軍勢と互角に戦った。
平氏軍で畠山重能と小山田の別当有重らが三百余騎で進軍した。
今井兼平が三百余騎が迎撃した。
最初は互いに五騎、十騎と出し合って戦い、その後は両軍入り乱れて戦った。
太陽が照りつける中で、汗だくになりながら戦った。
兼平の兵の多くが討ち取られ、重能の兵も討たれてやむなく後退した。
次に、平氏軍から高橋長綱が五百余騎で前進した。義仲軍からは樋口兼光と落合兼行が三百余騎で馳せ向かった。
両軍はしばらく戦っていたが、長綱の軍勢は国々からかき集めてきた駆り武者だったので一騎も
ただ一騎落ち延びていく途中で、越中国の住人入善行重が好敵手と目を付けて馬を並べた。
「お前は何者だ、名乗れ」と言うと
「越中国の住人、入善小太郎行重、生まれて十八歳」と名乗った。
「ああ、何ということだ。昨年旅立った我が息子も今生きていれば十八歳だ。本当ならお前の首をねじ切って捨てるところだが、助けてやろう」と言って許した。
自分も馬から降りて「しばらくは味方の軍勢を待とう」と言って休息をとった。
入善は「私を助けてくれたけれども、素晴らしい敵だ、なんとしても討とう」と思っていると、長綱は心を許して話をしていた。
入善は優れた早業で刀を抜いて飛びかかり、長綱の内甲を二刀刺した。
そうこうしているうちに、入善の郎等三騎が遅れて来た。
長綱は心を強く持ったが、運が尽きてしまったのだろう、数多の軍勢の前に痛手を負い、ついに討ち取られた。
また、平氏軍から武蔵有国が三百騎を率いて進軍した。
義仲軍からは仁科、高橋、山田次郎が五百余騎で馳せ向かった。
しばらく戦ったが、有国の軍勢の多くが討たれた。
有国が敵陣に深く進んで戦っているうちに、矢はみな射つくして馬も射られてしまったので徒歩で進んだ。
刀を抜いて多くの敵を討ち取ったが、七、八本の矢に射られて立ったまま最期を迎えた。
大将がこのようになってしまったので、残りの軍勢はみな逃げていった。
平氏軍の敗北
当初、平氏軍の軍勢は四万騎いたが、合戦が終わって甲冑を身に着けていた武士はわずか四五騎ばかりだった。
そのほか過半数の兵は死傷しており、残りはみな山林で戦ったがすべて討ち取られたという。一方、敵軍はわずか五千騎にも満たなかったそうだ。(『玉葉』同年6月5日条)
斎藤実盛の最期
『平家物語』によると、武蔵国の住人斎藤実盛は味方が敗走するなかただ一騎引き返して防戦した。
実盛は老武者で戦い疲れていたので、信濃国の住人手塚光盛に討ち取られた。
実盛は七十歳を越えているにもかかわらず、髪や髭の色が黒かったという。
実盛と親しかった樋口兼光が言うには、若武者と戦って先駆けするのも大人げないし、老武者として侮られたくないという思いからだった。
義仲が実盛の髪と髭を洗わせると、白髪になった。
合戦の前、実盛は平宗盛の御前に参上して「『故郷には錦を着て帰れ』ということわざになぞらえて、錦の直垂を着させてほしい」と申し出た。
宗盛も、殊勝な申し出だと思って錦の直垂の着用を認めた。
『源平盛衰記』によると、久寿二年(1155)の大蔵合戦で義仲の父源義賢が甥源義平に討たれたとき、実盛は幼い義仲を一時的に預かり、信濃国に送ったという。
影響
能『実盛』
能の『実盛』では、『平家物語』での実盛の最期の場面が語られている。
『満済准后日記』
室町時代の史料『満済准后日記』の応永二十一年(1414)条には、実盛が最期を迎えた加賀国篠原で実盛の亡霊が現れ、害虫の災いが広がったと述べられている。
参考資料
- 上杉 和彦「源平の争乱 (戦争の日本史6) 」吉川弘文館、2007年
- 元木 泰雄「治承・寿永の内乱と平氏 (敗者の日本史) 」吉川弘文館、2013年
- 永井晋「平氏が語る源平争乱 歴史文化ライブラリー」吉川弘文館、2019年