志度合戦は、元暦二年(1185)2月21日に讃岐国志度道場に立てこもった平氏軍と源義経軍の戦い。
背景
屋島の戦いで平氏が敗走
元暦二年(1185)2月19日、源義経率いる追討軍と平氏軍が屋島で合戦となり、平氏軍が敗北した。
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屋島の戦い
4月29日、源頼朝は使節として中原親能を上洛させ、土肥実平・梶原景時へは兵船を整えて、6月海上の天候が穏やかな時期に合戦を行うよう命じた。 平氏の拠点となっていた屋島の陥落により、平氏は制海権を失い最 ...
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経過
志度道場に籠もった平氏を義経が追撃
元暦二年(1185)2月21日、敗れた平氏軍は讃岐国の志度道場(志度寺)に引きこもった。
義経は80騎を率いて道場を攻めた。
『平家物語』によると、義経は300余騎の中から厳選した80騎を率いて追撃した。
対する平家は1000余騎を率いて迎撃したという。
『平家物語』によると、屋島に留まっていた200余騎の武士たちが遅れて来て加勢したので、平氏軍は再び船に乗って逃げていった。
平氏の家人田内左衛門尉が降伏した。
河野通信も30艘の兵船とともに味方についた。(『吾妻鏡』同日条)
伊勢義盛の巧みな話術
『平家物語』によると、田内左衛門尉は河野通信を攻めようと3000余騎を率いて伊予国へ赴いたが、通信を討つことはできず郎等50人の首を屋島の内裏に献上したという。
義経は伊勢義盛に田内左衛門尉を連れてくるよう命じた。
義盛は田内左衛門の父阿波民部が「自分が降伏したにもかかわらず、息子の田内左衛門が何も知らずに合戦で討たれるのはつらい」と嘆いていたと伝えた。
これを聞いた田内左衛門は甲を脱いで降伏した。
兵士たちも続いて降伏した。
義経は義盛を讃えたという。
義経渡海の噂が届く
義経は安房国へ赴き、熊野別当湛増も源氏に味方するために渡海するという噂が京都に届いた。