資料室 文学

現代語訳 源平盛衰記より「赤山大明神の事」

あらすじ

赤山せきざん大明神とは、慈覚じかく大師が唐に渡ったとき、清涼山しょうりょうざん引声いんじょうの念仏を伝えられて、この念仏を守護するために大師と芳契を交わし、すぐに異朝の雲を出て、まさに叡山の月に住んでいた。

そうして大師が帰朝のとき、激しい風に見舞われて、乗っていた船が沈みそうになった。
大師が本山の三宝を念じると、不動明王と毘沙門天がともに現れた。
この明神は赤い衣を纏って白羽の矢を背負い、船の上に現れて大師を守った。
大明神は「山王は東の麓を守られよ。私は西の麓にいる。静かな場所が好きなのだ」と言った。
赤山は震旦しんたん(中国)の山の名前である。その山に住む神であるため、赤山大明神という。本地は地蔵菩薩で、太山府君ともいう。

頼豪は戒壇のお許しを得られなかったので、とうとう持仏堂にて餓死してしまった。
そんなことがあったのかと思っていたが、皇子が病気がちだったので、頼豪の怨霊を鎮めようと近江国の野洲やす・栗田の両郡に六十町の田地を実相坊領に寄付した。

智証大師の門徒である一乗寺や室戸などという貴僧に仰せになって休む暇もなく祈禱を続けていたが、とうとう承暦元年(1077)8月6日、4歳で亡くなられた。
敦分親王とはこの皇子のことである。
皇子を失って、帝の悲しみは並々ならぬものであった。

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