文学 資料室

【現代語訳】北条九代記より「太輔房源性、異僧に遇う~算術の奇特~安倍晴明の奇特」

『北条九代記』は鎌倉時代に成立した年代記で、北条氏の得宗九代の間に起こったできごとを編年体で記したものである。全十二巻。
巻第二に収録。

内容

鎌倉幕府の二代目将軍・源頼家卿の振る舞いはわがままで、政治にはまったく興味を持たなかった。
朝から晩まで側仕えの者五、六人を友として色に耽り、酒に溺れ、ふらふらと歩き回っては釣りや狩りに興じる日々を送り、あるいは歌って踊り夜を明かした。

御上が好んでいたものを下々の民も真似して、伎芸や芸術の道に通じた者が全国各地から集い鎌倉に留まり世間で起こっているできごとを語らった。

ここに太輔房源性たいふぼうげんしょうという者がいて、京師の間に住まい、仙洞に伺候して進士左衛門尉源整子と名乗った。
儒教を学び、書道や詩を綴り高野大師五筆の秘奥を伝授していた。

垂露すいろ偃波えんはの書き方、回鸞・扁鵲の書き方、蝌蚪かと・龍書・慶雲・鳳書をみな作法を得たと傍若無人に言いふらし、「祭邑は飛んで白からず、王羲之は白くして飛ばず」などと冗談を言っていた。

後に出家して太輔房源性と名付け鎌倉へ下り、将軍家に召し出されて側仕えとなり、たいそうもてはやされた。
それだけではない。
頼家卿は蹴鞠を好まれたが、源性もまたこの道に通じていたので、蹴鞠の度に詰めに馳せ参じた。
機転が利き才能があったからだろうか、算術に関しては当時並び立つ者がいないほどで、田畑の里坪の計算や高低・長短、段歩や畦の境目などその眼力の及ぶところは寸分違わず行った。
世間の人々は彼の才能をもてはやした。
「漢の洛下閎らくかこうや唐の一行、我が国で暦算に長じている安倍晴明でさえ、この源性には敵わないだろう」と言って得意になっていた。

安倍晴明物語

庚申の夜、殿上の人々をわらわせし事

九月の庚申の夜、殿上に伺候すると、天皇をはじめ若い殿上人の多くが眠気を覚えて長い夜を持て余していた。
何か眠気を覚ます方法がないかと思い、天皇は晴明を呼んで「何とかして皆の眠気を覚ましてくれ」と命じた。

晴明は慎んで命令を受け、しばらくの間祈祷を行った。
すると、天皇の御前にあったきり灯台をはじめ、ありとあらゆる物が一箇所に集まって踊り跳ね出した。
ものすごく激しい動きだったので、天皇は「皆が怖がらないことをしてくれ」と言った。

「それならば、皆様を笑わせてご覧に入れましょう」
申楽さるがくなどであれば笑うかもしれないが、そなたなら何か面白いことができるだろう」

申楽は曲芸、滑稽な芸、物まねなどの事。

晴明は目をぱちぱちさせながら、
「申楽でもなく、面白い話をするのでもなく、ただ笑わせて差し上げましょう」と言って、火の明るいところへ算木を持ち出してさらさらと置き広げた。

殿上人たちは「これが面白いことか。さあ笑おう」などと嘲笑したが、晴明は返事もせずに算木を置き終わった。
その中から算木を一本手に持って、「各方、笑い合いなされ」と言ってそれを置き加えた。

すると、その場にいた人々はみな何となくおかしくなって笑い出した。
天皇も笑い転げて、部屋の奥に入っていった。

その場に残っている人々も大笑いして、その笑い声が響き渡った。
何も見えていないのにただひたすらおかしくて、笑うのをやめようとしてもやめられなかった。

腹筋がちぎれるような心地がして、両手で腹を抱えて涙をこぼし物も言えず、晴明に向かって手を擦りながら笑った。

晴明が「だから言ったでしょう。もう笑い飽きましたか」と言うと、人々は何とかうなずいて転げ回り、わらわらと手をすり合わせた。

晴明が算木を押し崩すと、人々は何事もなかったかのように笑いから醒めた。

『宇治拾遺物語』巻十四―十一「高階俊平の弟の入道、算術の事」

これも今となっては昔のことだが、丹後前司高階俊平という者がいた。
後に出家して丹後の入道と呼ばれた。

彼には、まだ何の役職にも就いていない弟がいた。
その人が主人にお供して筑紫へ下ったとき、最近渡ってきて算術を得意とする唐の人がいた。
俊平の弟は唐の人に会って「算術を教えてくれませんか」と頼んだが、最初は見向きもされず教えてもらえなかった。
唐の人は算木を少し置かせてみて、
「よくできているではないか。だが、日本にいてもどうしようもない。日本には算術を学ぶのによいところはないのだ。
私とともに唐に渡ってくれたら、教えよう」と言った。

「あなたが算術をよく教えてくれて、私がその道を究められるのならば従いましょう。
唐に渡っても私が重用されたならば、あなたとともに唐へ参りましょう」と熱心に言ったので、唐の人も心を打たれて真剣に教えた。

弟は教えに従って一を聞いては十を知るほど上達したので、唐の人もたいそう褒めた。
「我が国にも算木を置く者はたくさんいるが、君ほどこの道を心得ている者はいない。きっと私とともに唐土へ渡ってくれ」
「わかりました。一緒に唐へ行きましょう」
「この算術の道には病を治療する術もあり、また病にはせずとも憎い、妬ましいと思う者を呪い殺す術などもあるが、それらも惜しみ隠さず君に教えよう。
間違いなく私に付いて唐に渡ると誓ってくれ」

俊平の弟は心から誓うことはしなかったが、少しだけ誓いの言葉を述べた。
唐人は「やはり人を殺める術は、唐へ渡る船の中で伝えよう」と言って、他のことはよく教えたが、その術だけは教えなかった。

こうしているうちに、俊平の弟は算術をよく習って伝えた。
ところが、主人が急な用事で都に上ったので、弟もお供して上った。
それを聞いた唐人は俊平の弟を引き止めたが、
「年頃の主人にこのようなことがあって急に都に上るのですから、私がお供しないわけには参りません。
どうかご理解ください。約束は必ず守ります」と言うと、唐人は本当かと思って、
「それなら、必ず戻ってきてくれ。今日明日にでも唐へ帰ろうと思うから、君が来るのを待って渡ろう」と言った。
俊平の弟は固く約束して都に上った。

世の中がおもしろくない時は、こっそり唐へ渡ろうと思っていたが、都に上ると親しい人々に引き止められて、俊平入道もこれを聞いて引き止めたので、唐人のもとへ戻れなくなってしまった。

唐人はしばらく待っていたが音沙汰もなかったので、わざと使者を遣わして手紙に恨み言を書いたが、
「年老いた親が今日明日どうなるかもわからないので、様子を最後まで見届けてから共に行きたいのです」と返事をして行かなくなった。
唐人はしばらく待っていたが、どうにもならないと思って唐へ帰った。
そして、俊平の弟を呪った。

俊平の弟は、はじめのうちは覚えが早かったが、唐人に呪われてからはひどく呆けて、物も覚えられなくなってしまった。
どうしようもなくなって出家した。
入道の君といっても、ぼけぼけしていてできることもなかったので、俊平入道のところと山寺に通うばかりであった。

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