『安倍晴明物語(安倍晴明記)』巻二に収録。
遁世
俗世の煩わしさから遁れて、仏門に入ること。
基本情報
安倍晴明物語とは
内容
花山天皇は冷泉天皇の第一皇子として即位し、藤原頼忠の娘を女御として迎えた。
彼女は弘徽殿に住まわれていたことから、”弘徽殿の女御”と呼ばれていたが、程なくして亡くなり、帝はこの上なく悲嘆に暮れた。
愛する妻を亡くしてから、帝は何事においても心寂しくあれこれと思い悩んでいたが、粟田の関白(藤原道兼)が手に持っていた扇子に「妻子珍宝及王位臨命終時不随者」という心地観経の文が書かれていたのを見て、俗世を離れて仏門に入る決心をした。
そして、寛和二年(986)六月二十一日、花山天皇は厳久法師と藤原道兼の二人だけを召し連れて、貞観殿の萩戸から忍び出た。
帝は十九歳で花山寺にて髪を下ろし、法号を入覚といった。
五畿内の霊仏霊地を巡礼し、紀州の那智で三年間修行をして、奇瑞を得て都に帰り、花山寺に入って真言灌頂を受けた。
寛弘五年(1008)二月八日、四十一歳で崩御された。
天皇の位についていたのは、わずか二年間だった。
出家される夜、帝は晴明の邸宅の前を通った。
ちょうどその時、晴明は縁側の近くで涼んでいて、帝座の星が急に移動したのを目にした。
晴明が驚いて「これは、天子が退位されるしるしだ。いったい、どういうことだ」と言う声を帝は物越しに聞き、足早に通り過ぎた。
その後、晴明は大急ぎで参内してこのことを報告した。
人々は驚いて帝を捜しまわったが、もはや行方は分からなかった。
この話の通り、晴明は天文の理に通じていた。
その昔、唐の太宗皇帝が天下を治めて太平の世と為した。
太宗がかつて平民だったとき、厳子陵という名の友人が隠れ住んでいた。
太宗は帝位に就いた後、厳子陵を呼び出し、寝床をともにして夜通し語り明かしていた。
厳子陵は足を太宗の腹の上にもたせ掛けて寝ていた。
その時、司天台から「客星が帝座を犯しております」という奏聞があった。
しかし、太宗は気にとめることもなく笑っていた。
このようなことは、その道に深く通じている者だからこそ分かることなのだ。
補足
妻子珍宝及王位臨命終時不随者
「妻子・珍宝及び王位、命終の時に臨んで随わず」。
妻子も珍しい宝も、王位も、生を終えるときには何もついてこないという意味。
司天台
陰陽寮の唐名。