基本情報
安倍晴明物語
内容
一方唐土では、宋の太宗皇帝の御代、太平興国元年(976)11月に荊山の文殊堂が原因不明の火災に見舞われ、ほんのわずかの時間で焼けてなくなってしまった。
伯道上人は大変驚いた。
「これはただ事ではない。まさか、日本にいる晴明の身に何かあったのではないか」
伯道は穀城山に登り、遥か東方を伺うと死気があったので、泰山府君の法を行ったところ壇上に晴明の姿が影のように映し出された。
「さては、何者かに殺められたにちがいない。敵を討ってやろう」
伯道は八字文殊、一字金輪、調伏の大法を行い、
「一度結んだ師弟の契りをどうして捨てられようか」と、一葉の舟に棹をさし日本に渡った。
都に上った伯道は、一条戻橋の上で晴明の住まいを尋ねた。
ところが、ある人いわく、晴明は昨年十一月に弟子の道満との争いに負け、首をはねられたという。
伯道が「やはり」と思い晴明の塚はないか尋ねると、賀茂川の裾、五条河原の西の岸に埋められたという。
伯道が急いでその塚に行ってみると、塚の上に柳が植えられていたので、すぐに柳の根元を掘り、草を捨てて土を掘った。
すると、そこには十二の大骨と三百六十の小骨が皆ばらばらになっており、四十九重の皮、九百分の肉片、十二の血脈が朽ち爛れて流れていた。
伯道はこれらを一か所に集めて生活続命の法を行った。
すると、晴明が夢から覚めたような心地で、元の姿になって蘇った。
晴明は手を合わせて礼拝し、大いに喜んだ。
伯道は言う。
「私は、唐土でお前に三つの戒めを加え、七人の子供も設けても女に心を許してはならないと伝えた。
それなのに、お前は梨花の美しさに溺れて心を許してしまった。
大酒を戒めたにもかかわらず、豊明の節会の夜、殿上で開かれた御遊の宴で我を忘れるほど酔い潰れた。
それから、万事において不公平な争いをするなと言い聞かせていたのに、道満に出し抜かれて一方的な論に負けてしまったではないか。
この三つの戒めを破れば、必ずお前の身に災難が降りかかるだろうと話したのは、こういうことだったのだぞ」
伯道は晴明を連れて家に帰り、晴明を傍らに隠れさせた。
そして、まず伯道が一人で晴明の家を訪れ「晴明に会いたい」と言うと、道満が出てきた。
「晴明は昨年十一月に、ある者と争って負け、首を切られて亡くなりました」
「それは、きっと偽りでしょう。昨日、私はまさしく晴明に会って今晩泊まる宿を借りようと堅く約束したというのに」
道満は笑い声を上げた。
「あなたこそ、偽りを言っております。
すでに昨年死んだ晴明と、どうして昨日お会いできたのでしょうか。
ここから東の方、五条河原の東の岸に塚を築いて晴明の亡骸を埋め、墓標として柳を植えたのです」
「ならば、もし晴明が今もこの世にいて、ここへ帰ってきたらどうする」
「晴明がもし生きていれば、私の首を切っても構いません。ですが、この世にいなければあなたの首を斬らせていただく」
伯道が声を上げて「おい、晴明、早く帰ってこい」と言うと、晴明がにっこりと微笑んで家の中へ入ってきた。
道満は肝を潰して青ざめ、その場を立ち去ろうとした。
そこへ、伯道はすぐに道満を厳重に縛り上げて身動きできないようにし、天井にも地面にも付かないように吊し上げた。
道満が動けなくなっているところへ、晴明は剣を抜いて道満の首を打ち落とした。
妻の梨花は、これを見て帳台に逃げていったが、引き出されて首を切られた。
道満と梨花の亡骸は同じ穴に埋められ、墓標として松を植えられた。
今の世までも、五条河原の東の岸に晴明の塚があったが、後に道満と梨花をその塚に埋めた。
時代が移り変わり、その塚もみな流れ崩れて、高い淵となった。
伯道は「この一件はこれで終わりだ。ますます一生を慎むように」と晴明に別れを告げて、大唐に帰った。
晴明は二十一間の物忌をして宮中に参上した。
人々は「亡くなったと聞いていたのに、まさか幽霊ではないでしょうな」と恐れ怪しんだので、晴明は事のいきさつを細々と奏聞した。
それを聞いて、帝はますます不思議なことだと思った。
こうして、晴明は四位の主計頭と天文博士を元のように再任した。