基本情報
安倍晴明物語とは
内容
村上天皇の御代である天徳四年(960)、庚申九月二十日、後涼殿で火災があり、内裏が跡形もなく焼け落ちた。
翌年、めでたく造り立てられて以前のものよりも立派な造りになった。
その頃、安倍の童子は天王寺に参詣して本堂の軒で休んでいた。
すると、東西から二羽の烏が飛んできた。
一羽の鳥が囀った。
「お前は何処から来た烏だ」
「我は都の烏である。お前こそ、何処から来た烏だ」と尋ねた。
「我は関東の駿河国から来た烏である。
富士浅間大菩薩の使いとして熊野に参り、権現に申し上げることがあって出かけるところだ。さて、都ではどのようなことがあるだろうか」
「都では、帝がご病気を患っていて皆が静まり返っている。
典薬頭が心を尽くして補瀉温涼の薬を弁じて君臣薬佐使の薬を調合し、多くの寺の高僧が熱心に加持護念を行って護摩秘法の祈祷をしたが、まったく治る気配がない。
これはもう、物の怪による祟りにちがいない。物の怪を鎮めなければ帝のご病気は治らないだろう」
「畏れ多くも、帝はすべての人の上に立つ御方である。位も尊く、神ですら畏れ敬うのに、物の怪に恨み祟られるとは思えぬ」
「帝は天下国家の父であり、母である。
天下の者はみなそのお恵みを仰いでいる。だが、帝に邪な心があって恨まれることがあれば、その咎めは帝一人に帰し祟りと化すことがある。
それゆえ帝は万事を深く慎み、道理に反することをしない。
下々の民の怒りが天に届き、天上から咎めを受けられるときはどうすることもできないのだ」
「さて、その怒りとは何か」
「去年、内裏の造営があったのだが、夜の御殿の丑寅の方角にある柱の礎の下に蛇と蛙が生き埋めにされた。
蛇は蛙を呑み込もうとし、蛙は蛇に呑まれまいと互いに戦った。
その怒りが天に上り、ついには帝のご病気となったのだ。
これらを取り除くことができれば、帝のご病気は治るだろう」
二羽の烏はそれぞれ北と南に別れて飛び去っていった。
安倍の童子はこれを聞いて、家に帰って占って見ると、その占文が指し示したことは烏たちの言っていたこととまったく同じだった。
やがて、童子は都に上り奏聞した。
「私は和泉国の安倍仲麿の子孫で、安倍の童子治明と申します。
天文・地理・易暦で自然の智を理解し、天下無双の占いをいたす者です。
一刻も早く帝のご病気の原因を占い出して申し上げます」
公卿僉議が開かれ、まずは安倍の童子に占わせてみることになり、唐櫃の中に柑子四十八個を入れて持ってこさせた。
童子はしばらくの間占った。
「櫃の中には生類が入っていて、丸い形をしております。間違いなく、四十八個の鶏卵です」
諸卿は目配せをして、指を差して、童子は大恥をかいたと思った様子だった。
「ならば、蓋を開けてみよう」と言われ、主水司が櫃を開くと、童子が占った通りに鶏卵が入っていた。
最初に入れたのは正しく柑子だったにもかかわらず、なぜ卵に変わっているのだと僉議があったが、命令を取り違えて卵を入れていたことが分かった。
そこまでも占ってしまうとは、実に奇特なことだと、急いで帝のご病気についても占わせた。
童子は烏たちの会話を聞いていたので、占文を誤ることはなかった。
「まず、年月日を時にかけます。
その方角を取ると、丑寅の方角、夜の御殿の柱の礎の下で蛇と蛙が喧嘩をしており、その怒りが炎となって天に遡り、帝の御身に降り掛かっております。
これを掘って捨てれば、ご病気は問題なく治るでしょう」
それならばと、童子の指し示した場所を掘らせてみると、まったくその通りで、帝のご病気も理由なく平癒したので、帝から月卿雲客までこの上なく感嘆した。
やがて、安倍童子は昇殿を許され、位を賜り、陰陽頭に任じられた。
それは三月の清明節のことだったので、童子は「晴明」という名を賜り安倍晴明と呼ばれた。
続いて除目が行われ、易暦博士縫殿頭に任じられ、天下にその名を轟かせた。
それからすぐに、晴明は西の洞院に屋敷を作り、地方に下向させられることもなく宮中に伺候し、安倍野の周囲三百町を賜った。
関連
『泉州信田白狐伝』巻三において、帝の病の原因は蛇と蛙にあること、箱の中身を当てる場面がある(細部は異なる)。