『簠簋抄』や『安倍晴明物語』に収録されている。
基本情報
内容
安倍童子(後の晴明)が住吉大社に参詣した際、子どもたちが小さな蛇を捕まえて殺そうとしていた。
蛇をかわいそうに思った童子は小蛇を買い取り、草むらに放った。
「そなたがむやみに物陰から出てきて遊んでいたから、子どもたちに見つかってひどい目にあったのだ。
絶対に人の多いところに出てはいけないよ」
そう言って童子が安倍野の方へ帰ると、一人の美しい女性が出迎えた。
「私は竜宮城の乙姫といいます。
先程は今にも殺されそうとしていたところを、あなた様のご慈悲によって命拾いしました。
どうか、私の家に来てくださいませ。父上も母上も喜んで恩を返しなさいと言っております」
童子は乙姫に連れられて一町(約110メートル)ほど歩いたかと思うと、一つの大きな門の前に着いた。
乙姫が童子を門の内側に案内して奥へ進むと、幾重にも軒を並べ、甍を飾り立てた宮殿が虚空にそびえ立っていた。
庭には金銀の砂を敷き、垣根には瑇瑁(亀の甲羅で作った装飾品)が飾られていた。
奥の方へ進むと宮殿楼閣の四方が見え、それぞれの方角には四季の景色が広がっていた。
東には春の空で、辺り一帯の景色ものどかで霞の衣が立ち込め、谷のうぐいすが軒近くの梅の小枝に止まって鳴いていたが、まだ人里に慣れていないようだ。
池の氷柱も溶けて、岸に咲き乱れる青柳の糸は春をつなぎ留めようとしているかのようだ。
春の名残を知らせる藤の花が松に掛かっているようすも、風流なものだ。
南には夏の生い茂った木立があった。
梢の遅桜が生い茂り、所々に散り残って春に遅れた人を待っているかのようだ。
立石や遣水は澄み切った水底で、池のほとりの杜若は江戸紫に咲き出ており、井手の山吹はほころび、夕暮れに黄金花が咲いているようだ。
垣根には白い卯の花が咲き、宮殿の階段に咲いている薔薇までもが季節を知っているかのように花開いている。
大空に自らの名を名乗るように鳴くほととぎすは、花橘のにおいを留め、昔の人を偲んでいるのだろうか。
沼の石垣は水を湛え、降り注ぐ五月雨のなかにあやめが咲き乱れ、蛍火が沢辺に身を焦がすようだ。
梢の風に吹かれながら蝉が涼しげに鳴いているのは、殻になる時を思っているのだろうか。
西には秋風が吹き付ける野辺に、女郎花がその名の通り身をくねらせて立っていた。
萩は置き場がないほどたくさんの露で溢れていて、浅茅原は下葉が色づいている。
群がって張り合うように鳴いている虫の音も、荻の上風に見えを張っているようだ。
庭の白菊は色あせて時雨に染まる紅葉色になり、枝はまばらに薄く濃く、遠く近くで鹿が鳴いていて、まるで求婚しに行く夜のように趣深い。
北には嵐が吹き、梢には雪の花が咲いている。
焼け野のススキは霜にあって枯れていて、筧の水も凍りつき、池の水際ではおしどりが寄り添っている。
寒さはいっそう辛いだろう。
山より遠くに立つ煙や雲路にのぼる炭竃の静かなようすは、物哀しい。
などと、あちらこちらを見て思いを巡らすのも、言葉では言い表せないほど風流なことこの上ない。
また、宮殿と楼閣は七宝で厳かに飾られていて、計り知れないほど綺麗だった。
乙姫に案内されて玉造りの階段を上り、中に入って辺りを見渡すと、錦の敷物が飾られている。
奥の方から玉の冠を被った、立派な着物を着た人が絹傘を差した二人の童子を従えて出てきた。
その次には、玉の簪を挿した女性がゆったりと出てきた。
美しい官女二人も、同じように絹傘をかけている。
そうして彼女たちは敷物に座り、安倍童子を招き寄せた。
「私の娘を助けていただいたので、その恩返しをしたいと思います。さあさあ」
すると、二、三十人ほどの二十歳ぐらいの美女が手に何かを携えてやってきた。
見ると、縫雪(死者をも蘇らせる秘伝の仙薬)と玄霜(太清神丹の一種)の薬が入った壺、瑤池(崑崙山にある、神仙が住むといわれる池)の桃、閬風(崑崙山の山頂)の棗、翠原の杏、玄圃の梨だった。
その次には、竜宮城の主がもてなしの品として北溟(北方の海)の人魚、南海の蛤、丹穴(伝説の山・丹穴に棲む鳳凰)の卵、青山の芝を引き出してきた。
その味は並々ならぬものだった。
猿の木取り、熊の掌、羊の胎、豹の脳、青門の翠瓜、東陵の金瓜、葛洪仙の茘枝、揚遂郎の葡萄、これらは人間の珍味の中では最上級のものだが、この宮殿においては敢えて取り上げるほどのものではない。
やがてお酒を一献勧められたが、その味は中国の伝説で天子が善政を敷いたときに天が降らせたという甘い露のようだった。
天上の須陀弥の酒や胡中の摩睺羅の酒といえども、どうして同じ日に語ることができようか。
心は爽やかに、身も涼しくなり、飛び立つような味だ。
宴が終わると、竜王は自ら四寸四方の金の箱を取り出して、
「これは竜王の秘符である。これを用いると、天地・日月・人間界のあらゆることが分かる。大いに名を広めて、人を助けよ」
と童子に渡し、次に七宝の箱から一つの青丸を取り出して童子の耳と目に入れた。
童子は別れの挨拶をして、竜宮城を後にした。
乙姫が童子を送り出して、門から外へ一町ほど歩いていくと、安部野の辺りに出た。
童子がゆっくりと家に帰って人の顔を見ると、その人の過去・現在・未来のできごとが鏡に映したように心に浮かび、鳥獣の鳴き声を聞くと彼らが話している内容が手にとるように理解できた。
これはいったいぜんたい、どうしてだろうかと考えてみると、竜宮城で目と耳に薬を差されたからだと思い当たったが、それでもますます不思議に思われた。
それから童子は家に籠もり、昔祖先が吉備公から譲り受けたままだった簠簋内伝を取り出し、昼夜を問わず三年間学んだ。
そして、竜宮城から持ち帰った秘符をすべての修行に用いたので、童子の才智はいっそう増して、ついに師匠の教えを受けずして自ずと悟りを開き、万物のうち知らないものはない、という程にまでなった。
その昔、天竺の耆婆は薬王樹の枝を買い求めてから人の五臓六腑を残す所なく外から見通せるようになった。
また、唐の公冶長は仙人に会って薬を耳に入れてから、鳥の声を聞き分け、その言葉がわかるようになったという。
だが、此度の安倍童子が竜宮城の薬によって目と耳の両方に神通力を備えたのは、とてもめずらしいことだった。
補足
住吉大社
住吉大社(現・大阪府大阪市住吉区住吉)は、海上交通の守護神とする信仰がある。