あらすじ
第六十二代村上天皇の時代、安倍安名という人が農業を生業として暮らしていた。
ある日、どこからか若くて見目麗しい女性がひとりで安名の前に現れた。
「私がこの家を訪れたのは、あなたと夫婦の契りを結んで共に暮らそうと思ったからです」
安名は大いに喜び、やがて女性を家の中に呼び入れて夫婦の語らいをなした。
ほどなくして、男の子が生まれた。
その子は生まれてからむやみに泣かず、並々ならぬ顔立ちをしていたので、父は大いに喜んだ。
妻は昼も夜も夫の耕作を手伝った。
春のはじめの荒れた田を耕し、五月の早苗を植えて草を取り、水をせき止めた。
秋になると田の表面の穂並が傾いて、刈り取った穂をきめ細かくするまで仕事を怠らなかったので、よその田で水害・干害・台風・蝗の害があっても、安名の田は年々実って比べようがないほど豊作になった。
こうして、ようやく家も繁栄してめでたく賑わい、召使いや出入りする人々も尊敬してもてはやし、やっかむ人もいなかった。
安名の子は一人だけで他に生まれなかったので、ますます可愛がって先祖の名字から「安倍」の字を取って安倍の童子と名付けた。
童子が三歳になった夏のころ、母は一首の歌を障子に書きつけた。
恋しくば 訪ね来て見よ 和泉なる 篠田の森の しのびしのびに
(私を恋しく思ったら、和泉にある篠田の森にこっそり会いに来てください)
それから、母の行方はわからなくなった。
安名はとても悲しんで泣く泣くあちこちを探し回ったが、行方を知る人はいなかった。
その夏の田の表面は草が大いに茂って、早苗が見えないぐらい成長していた。
ところが、誰かわからない人が二十人ほどの声で夜通し草を刈って歌っていた。
恋しさに 夜は通えど 明け行けば 昼は篠田の 森に棲む やもめからすの 音にぞ泣く
(恋しくて夜は通うけれど、夜が明ければ昼は篠田の森に棲むやもめからすの鳴き声で泣いてしまう)
そう歌いながら、彼らは草をすべて刈り取って行った。
水を入れて畦に湛え、水が余ったときは水を切って流し、安名が手を加えずに耕作をするのは悲しいことだ。
これは篠田の狐が私の妻となり、家を出て森に帰った後も我が子を恋しく思うあまりにこんなことをしているのだろう。
そうであっても、昼は人目を忍ぶ篠田の森の草むらで露を落とすように泣き萎れて隠れ住んでいたとしても、せめて夜は私のところに来てほしい。
名残惜しい別れをして、私の涙も落ちてしまう。
安名はひどく悲しんだ。
せめて夜は 通ひて見えよ 子をいかに 昼は篠田の 森に棲むとも
(昼は信太の森で暮らしていたとしても、せめて夜は私のもとへ通ってほしい。子をどうするのか)
しかし、妻が再び現れることはなかった。
安名はますます恋しくなって、昼は他のことで気を紛らわせようと自分に言い聞かせたが、日が暮れると安倍の童子を膝に乗せて髪をかき撫でて涙を流した。
幼い身で母と離れ離れになって不甲斐ない父を頼らなければならないとは、かわいそうなことだと思って泣いてばかりいた。
童子は抱かれながら父の顔を見上げ、何を言うわけでもなく泣きながら、幼い心にもなにか思うことがあるようで、普通の童子のように戯れ遊ぶことはなかった。
こうして、七歳のときにはじめて本を読み、一を聞いて十を知るかのような才智があるようで、一度聞いたものを二度忘れることはなかった。
人々はなんてすごい童子なんだと思い、父も並の子ではないと思ってこの上なく喜んだ。