あらすじ
安倍晴明物語とは
内容
そもそも和州長谷寺の観音は、おそれ多くも文武天皇の希望で法道仙人が建立したものである。
法道仙人とは、天竺の人である。
如来がこの世に現れる以前、霊鷲山の山中に仙人の住む苑があった。
五百人の仙人がここに集まり、如来の説法を聞いて道理を得た。
金剛摩尼の法を修して神通力を現し、あらゆる世界を飛び回り、寿命は無限だった。
人間界にも、天界にも恵みを施した。
法道仙人もその一人だった。
ある時、法道はかの苑を出て、紫雲に乗って日本の播磨国印南郡法華山に降り立った。
その山の峯は八つに分かれて高くそびえていたので、法華山と名付けられた。
法道は千手観音像と仏舎利、宝鉢のみを持ってきた。
多聞天王と牛頭天王が来て、この地を守護していた。
法道は昼夜法華経を読み、宝鉢は空を飛んで各地を巡り、施し物を受け取って帰ってきた。
人々は法道を”空鉢仙人”と呼んだ。
当時は、孝徳天皇の御代だった。
大化元年(645)八月、藤井の駒城という者が年貢運上の米一千石を船に積んで沖を走っていた。
法道は鉢を飛ばして斎料を乞うたが、藤井から「朝廷へ納める米なので、一粒も差し上げることはできない」と断られたので、岸に飛んで帰った。
その時、船に積んであった一千石の米が鉢を追いかけて山中まで飛んできた。
その光景は、例えるならば雁が列をなして飛んでいるかのようだった。
藤井はたいそう驚き、急いで仙人の庵に来てひたすら謝ったので、法道は大いに笑って許した。
米は、元のように船に飛び帰って重なったが、一俵だけ落ちたので、それを斎料とした。
このことから、その場所は米落村と名付けられ、現在に至るまでそう呼ばれている。または、米田ともいう。
藤井は都に上ってこのことを帝に奏聞すると、孝徳天皇は大変奇妙なことだと感嘆した。
同じく大化五年(649)、孝徳天皇は病を患ったが、法道による祈祷のおかげで平癒した。
この功績によって、山に大きな仏殿を造らせて、観音像を安置した。
こうして数十年を経て、法道は観音像をひとつ作ろうと諸方を巡って訪ねた。
近江国高嶋郡三尾崎では昔洪水があり、周辺にあった橋に使われていた大きな楠の木が流れ出た。
この大木が流れて着いたところでは火事が頻繁に起こったり、疫病が流行ったので、人々からこの上なく恐れられた。
そんなとき、和州葛下郡出雲の大満という者はその木を霊木にちがいないと重い、霊木を手に入れて十一面観音を造ろうと決心した。
大満は木のある場所まで行って伐採しようとしたが、大木ゆえに容易くは動かなかった。
そこで、大満が大木に綱を巻き付けて一人で引っ張ると、薄板のように軽々と引けた。
人々はふしぎに思い、道行く人も力を合わせて大木を引き、程なくして和州城下郡当麻郷に着いた。
それからまもなく、出雲の大満は帝に召されて都に仕えることになった。
そうして休む暇もなく朝廷に出仕しているうちに、気がつけば八十年余りが過ぎていた。
その頃、大木のあった村で再び疫病が流行ったので、村中の人々はこの木のせいだと言って長谷の川上に曳き棄てた。
さて、法道はその棄てられた木を見つけて、霊木として十五年間加持を行った後、稽主勲、稽文会という仏の化身ともいえる仏師に頼んで高さ二丈六尺の十一面観音を造らせた。
法道は観音像をどこに安置すべきか考えていると、夢の中に金色の人が現れてこう言った。
「この山の北にある峯の下に大きな岩がある。
その表面は平たく、一辺が八尺の鏡のような瑪瑙石がある。
これを大悲菩薩の宝座として、諸天・善神・竜神・八部衆・梵天・帝釈天までが集まり皆で守護している。
早くこれを掘り出すのだ」
法道は大いに喜んでその場所を掘らせると、夢のお告げに違わず盤石があった。
風輪界に根を差し、金輪際から生え出て、如来の悟りである金剛宝石の根が分かれて出てきたところだった。
石の表面には、巨人が踏んだような足跡があった。
法道が長さを測って観音の足と比べたところ、造り付けたかのようにぴったりだった。
やがて、法道は霊像を据えて帝に奏聞したので、文武天皇は大伽藍を建立して開眼供養をしたそうだ。
このように、衆生を救う慈悲深い菩薩なので、信心深い人には谷の響きがこだまするようにご利益がすぐ現れる。
吉備公は、元々仏を深く敬い信仰していたので、今このように仏からご利益を施されたのだ。