あらすじ
玄宗は再び評議を行い「吉備は梁の昭明太子が作った文選を知らないだろう。これを与えて読ませ、もし読めなければ殺せ」と命じた。
その夜、赤鬼が再び吉備公の前に現れた。
「明日、お前は必ず文選を読まされることになる。
文選には賦・箴・詩・讃・碩・記・書・誄・啓・檄・章などのさまざまな文体がある。
文字の響きが普通とは異なり、特別な読み方でなければならず、簡単には読めない。
天子は毎晩これをお読みになる。
我がお前を背負って行くから、しばらく聞いていろ」
赤鬼は吉備公を背負って帝の側まで連れていき、帝が文選を読んでいるところを直接聞かせた。
吉備公は文選を最後までしっかりと聞き、人に見つからないように宿所に帰って眠りについた。
夜が明けると帝は吉備公を召して文選を読むように命じたが、吉備は言いよどむことなく文選を読むことができた。
「流れる水は早く落ち、飛ぶ鳥は速やかに去る、このように」などの句をはっきりと読み上げ、途中で言い淀むことはなかった。
帝をはじめ、公卿臣下も大いに感心した。
「日本はまことに小国だが、このように類まれなる才智をもつ人がいたのだなあ」と、褒めない者はいなかった。
しかし、帝は吉備の才智に滞りがないことを悔しく思い、再び勅令を出した。
「吉備がどれほど才智聡敏な者といえども、宝誌和尚が生み出した扶桑の讖文という未来を記した野馬台の詩を読むことはできないだろう。
天子でさえいまだに読めない。
これは天下においてただ一人が読むことのできる、代々秘伝のものなのだ。
その文は五言十二韻百二十字で一枚の紙にも満たないほどの短いものだが、文法が乱れていて同じものがなくひどくねじれているので、簡単に読めるものではない。
吉備にこれを読ませて、もし読めなければ殺してしまえ」
帝がそう命じたので、臣下たちはそれぞれ集まって評議を行い、夜が明けるのを待った。
そしてまた、赤鬼が吉備公の前に現れた。
「夜が明けたら、帝はまたお前を宮中に召して、宝誌和尚が未来に起こる出来事を記した讖文で野馬台の詩というものを読ませるよう評議が行われた。
これは極めて難しいもので、この国でさえ読める者はいないのだから、お前にも読めないだろう。
だが、もしこれすらも読むことができたなら、お前は赦しを得て故郷に帰れるだろう。
我もどうにかして読めるようにしてやりたかったが、これは我の力も及ばない。
神仏に祈るのみだ」
そう言って赤鬼は姿を消した。
吉備公は大いに驚いたが、赤鬼にも見捨てられてどうすることもできなかった。
力が抜けてただ呆然と座っていたが「まことに、我が国は神と仏が光を合わせてすべての人々をお守りくださっている。太陽と月は未だ沈んでいない。
心を込めてお祈り申し上げるのだから、きっと力を貸してくれるだろう」と思い、故郷のある東の方を向いた。
吉備公は幼い頃から大和国長谷寺の観音をずっと信奉していたので、手のひらを合わせて一心に祈りを捧げた。
「南無大慈大悲の観世音菩薩、私はこの度生まれ育った国ではないところで命を落とし、故郷に帰れず流浪の鬼になろうとしています。
叶うならば、御力を添えて我が命を助け、もう一度故郷にお帰しください」
吉備公は心を込めて祈り、しばらく微睡んでいた。
そこへ、紅染の袈裟を掛け、水晶の数珠を指先で繰り鳩の杖に寄りかかっている八十歳程の老僧が枕元に現れた。
「私は、大和国長谷寺の観音である。
そなたは遣唐使に任ぜられて唐に渡り、さまざまな方法で才智を試された。
そして今もまた、野馬台の讖文を読まされようとしている。
これはとても難しいもので、読める人もほとんどいない。
そなたにも読めぬだろう。
だが読めなければ、そなたは間違いなく殺されてしまう。
それゆえ、仲麿の霊鬼が来てそなたにこのことを教えたのだ。
大いに嘆いたそなたは私に祈った。
私は、そなたが長年に渡り余念なく祈りを捧げてきてくれたことを覚えている。
そなたを憐れに思うがゆえに、こうして夢に現れたのだ。安心せよ。
明日宮中に召されてかの讖文を読まされる時、私が蜘蛛の姿をとって現れ、読み始めの文字の上に降りる。
そこから糸を引いて巡るから、その糸をたどって読みなさい」
新たなお告げを聞いたところで、夢から醒めた。
目が覚めた吉備公は歓喜の涙を抑えられず、以前にも増して観音を信奉した。
補足
昭明太子
昭明太子は、中国の六朝時代の梁の皇太子。文学を愛し、中国最初の詩文集『文選』を編纂した。
文選
文体 | 意味 |
賦(ふ) |
対句で構成されていることが多く、句末で韻を踏む。 |
箴(しん) | 戒めの言葉。四言が最も多く、三言・五言・七言もある。隔句に韻を踏む。 |
詩 | 中国の伝統的な詩。 |
讃 | 人あるいは物事を褒め讃える。四字句で構成され、偶数句で脚韻を踏む。 |
碩 | ??? |
記 | 個人的な事柄についての記述。中唐以降盛んになった。 |
書 | ??? |
誄(るい) | ??? |
啓 | ??? |
檄(げき) | 戦いの際に用いられる。味方を激励したり、激しい表現を使うことも。 |