「卜兆根元の事(占いの起源)」は、安倍晴明物語巻一に収録されている。
基本情報
安倍晴明物語とは
『安倍晴明物語』(『安倍晴明記』)は、寛文二年(1662)に刊行された仮名草子である。
内容
占術の起源は、大体このようなものだったという。
遥か昔の天竺では、仏陀が生きていた時代から五千年余り前に、中天竺(インド中部)の菴没羅林の中に金色で見目麗しい大外道がいた。
その名を、迦毘羅仙という。
彼は天地のことについて熱心に研究し、大梵天王に出逢ってその真理を悟った。
こうして四つの韋陀が始まり、日・月・星・海・山・草・木・鳥・獣・雨・風・雷・霜に至るまで、あらゆるものが占いに用いられるようになった。
阿私多仙人は占いを広め、まだ皇太子だった釈尊が七歳のとき「この子は後に出家するだろう」と占いの結果が出て、それを伝えたのも間違いではなかった。
けれども、それは仙人だけが知っていることで、世間の人々は誰も知らなかった。
釈尊は悟りを開いた後に大乗仏教を説いて天地の理を示し教え、これを文殊菩薩に伝えた。
唐土では伏義氏という皇帝の御代に、空を仰いでは天文のことを考え、地に伏しては地理を観察して天地の理を悟ろうとしているところに、一匹の亀が河図洛書を背負って現れた。
これを手にしたことによって、初めて八卦を作り天地四方のあらゆる理を占い知ることができるようになった。
周の文王の御代には、八卦をそれぞれ八つに分けて六十四卦を立てることでさらに詳しい理を理解できるようになり、些細なことについて占っても少しも誤ることがなかった。
周公旦は金縢の書を書いて天に祈り、人の命を祭り代える理を示した。
それから占いは世に広まったが、その深い理を理解するのは難しかった。
そんなとき、孔子は易を作って丁寧に示したが、それでも世の人々が理解することはできなかった。
日本では、神代の昔、天岩戸に籠もった天照大神を外に出すために思兼命があれこれと考えて天香久山で小さな牡鹿を捕まえ、肩の骨を抜いて灼きながら占いをしたのが、占いのはじまりとされている。
春日明神から中臣鎌足に伝わり、吉備大臣にも伝えられたが、それでもなお深い理は現れなかった。
天竺・唐土・日本の三国ともに昔から存在していた国でも、世の中に広く伝わりしっかりと理解できる占いを明らかにすることは難しく、ただ聖賢の心にのみ残り隠れていた。
しかし、安倍晴明は三国の占いにおける真理をまとめて理解し、占いにおいても、祈祷においても、少しも間違えることはなかったという。
補足
菴没羅
マンゴーのこと。仏教ではおいしい果物と考えられていた。
迦毘羅仙
紀元前300年頃の思想家で、六派哲学の一つとされるサーンキヤ学派の開祖。『サーンキヤスートラ』の著者といわれているが、実際にこの本が記されたのは14~15世紀である。
河図
易の八卦の元になった図で、洛書は洪範九疇(政治・道徳の九原則)の元になった文様。