平安時代

【年表】安倍晴明が生きていた時代に起こったできごと:後編

天徳五年(961)~寛弘二年(1005)。

年表

天皇和暦(西暦)できごとリンク
康保年間(964~968)源満仲の夢に龍女が現れる
安和二年(969)3安和の変
天延二年(974)6祇園御霊会の開始
貞元元年(976)7山城・近江で大地震が起こる
天元二年(979)宋が中国を統一する
天元五年(982)2海賊の蜂起
天元五年(982)10慶滋保胤が池亭記を作成する
永観二年(984)10花山天皇 即位
寛和元年(985)2円融院による子の日の行幸
寛和元年(985)829円融上皇 出家
寛和二年(986)4慶滋保胤 出家
寛和二年(986)623花山天皇 出家読む
寛和三年(987)816源満仲 出家
永祚元年(989)8永祚の風
正暦元年(990)10賀茂光輔が藤原道隆邸に乱入
正暦四年(993)『賀茂保憲女集』執筆開始
長徳二年(996)1長徳の変読む
長保四年(1002)12藤原道長が慶滋保胤の四十九日諷誦を修する

詳細なできごと

村上天皇:天慶九年(946)4月20日-康保四年(967)5月25日

天徳四年(960)5月4日 藤原師輔 薨去

天徳四年(960)5月4日、藤原師輔が九条第において薨去した。享年53歳。

天徳四年(960)10月2日 源満仲らが平将門の息子を捜索する

天徳四年(960)10月2日戊辰、右大将藤原師尹は「近頃、都の人々が故平将門の息子が入京したと噂している」と奏した。そこで、検非違使及び源満仲らが将門の息子を捜索することになった。(『扶桑略記』)

康保年間(964~968) 源満仲の夢に龍女が現れる

康保年間(964~968)、源満仲の夢に龍女が現れた。摂津国菟原郡に住む龍女には長年の敵がいて、承平年間に藤原秀郷に頼んで討ち取ってもらったが、九頭の大蛇として復活してしまったのだ。そんな時、満仲の武勇を聞きつけた龍女は大蛇を退治してほしいと頼み、龍馬を授ける。こうして、満仲は九頭の大蛇を倒し、霊魂を鎮めるために九頭明神として祀った。(『前太平記』)

康保三年(966)8月15日 月の宴

康保三年(966)8月15日、中秋の名月を鑑賞する宴が開かれた。(『栄花物語』)

冷泉天皇:康保四年(967)5月25日-安和二年(969)8月13日

冷泉天皇は物の怪に悩まされ、一年余りで退位することになった。

冷泉天皇の奇行

  • 藤原実資曰く、冷泉天皇の御代に藤原兼家が一人で突然参内し、御在所を女房に尋ねた。すると「天皇は清涼殿の寝所にいて、ちょうど神璽(八尺瓊勾玉)の入った箱の紐を解いて開けたところだ」という答えが返ってきた。驚いた兼家が小門を押し開いて参入すると、女房の言っていた通り箱を結んでいた紐が解かれていたので、兼家はこれを奪い取って元通りに結んだ。(『江談抄』第二)

円融天皇:安和二年(969)8月13日-永観二年(984)8月27日

天延四年(976)春 妖怪が多数出没し、失踪者が続出する

天延四年(976)春、さまざまな妖怪が多数現れ、老若男女に多くの失踪者が出た。彼らはかき消えるようにいなくなり、二度と帰ってくることはなかったという。そこで、人々は申の刻(午後4時頃)を過ぎると門を閉ざした。朝廷は比叡山から数多の僧綱を召して、清涼殿において仁王会を修させた。また、源頼光をはじめとした諸国の武士たちが禁門の警固にあたった。
さらに、朝廷は播磨守安倍晴明を召して人々の失踪は神仏の祟りによるものか、あるいは悪霊の仕業か占わせた。晴明は、宇治の橋姫の仕業たと申した。(『前太平記』)

天延四年(976)5月 内裏焼亡

天延元年(976)5月11日丁丑、内裏で火災があった。仁寿殿の西面から出火した。円融天皇は職曹司に遷御した。(『日本紀略』)

天延四年(976)6月 大地震が起こる

天延四年(976)6月3日午の刻から大地震が起こり、空は黒雲に覆われて地面は激しく揺れ、家々が次々に倒壊した。(『前太平記』)

天元五年(982)10月 慶滋保胤が池亭記を作成する

天元五年(982)10月、大内記慶滋保胤が池亭記を作成した。(『扶桑略記』)

永観二年(984)6月29日 菅原道真の託宣

永観二年(984)6月29日戊申の辰の刻、筑前国安楽寺において禰宜藤原長子に託宣があった。

花山天皇:永観二年(984)8月27日-寛和二年(986)6月23日

永観二年(984)11月 『往生要集』の執筆が始まる

永観二年(984)11月、源信の書『往生要集』の執筆が始まった。(『往生要集』)

寛和元年(985)2月 円融院による子の日の行幸

寛和元年(985)2月13日、円融院の子の日の行幸が行われた。巳の刻(午前十時頃)に出発し、紫野に向かった。

参加者:左右大臣(源雅信・藤原兼家)、大納言(藤原為光)、権大納言(左大将:藤原朝光・右大将:藤原済時)、中納言(藤原文範・藤原顕光・源重光・源保光)、右中将(藤原義懐)、右兵衛督(源忠清)、参議(藤原公季)、右中将(藤原道隆)など。

円融院が御在所に着き、御膳の準備が行われる。次に歌人たちが御前に召される。
この時、曽禰好忠・中原重節も召されたが、公卿らが「曽禰・中原は召集されていない」と言って追い立てた。(『小右記』『古事談』)

寛和元年(985)4月 往生要集が完成する

寛和元年(985)4月、源信の書『往生要集』が完成した。(『往生要集』)

寛和二年(986)4月 慶滋保胤が出家

寛和二年(986)4月22日庚申、大内記従五位下慶滋保胤が出家した。(『日本紀略』)

一条天皇:寛和二年(986)6月23日-寛弘八年(1011)6月13日

寛和二年(986)6月23日 一条天皇即位の儀

寛和二年(986)6月23日、一条天皇即位の儀が行われる大極殿の飾り付けをするために人々が集まったところ、御殿の高御座の中に血がべっとりと付いているのが発見された。しかし、特に不吉なことはなかった。(『大鏡』)

永延三年(989)6月下旬 彗星が出現

東西の空に彗星が現れたので、改元が行われた。(『愚管抄』)

永祚元年(989)8月13日 永祚の風

永祚元年(989)8月13日辛酉、酉の刻頃から子の終刻まで暴風雨があった。(『小右記』)激しい風によって普門寺が焼亡し、右馬寮が倒れた際に馬が下敷きになってしまった。小野宮の厩舎も倒れたので、再築が行われた。他にも、奇異なことが多かったという。(『小右記』同年8月14日条)この時の風は「永祚の風」と呼ばれた。(『愚管抄』巻四)

正暦元年(990)10月15日 賀茂光輔が藤原道隆邸に乱入

正暦元年(990)10月15日丁巳の朝、賀茂光輔(賀茂光栄の弟)が裸で抜刀し、藤原道隆邸に乱入した。(『小右記』)

正暦四年(993) 『賀茂保憲女集』の執筆が始まる

正暦四年(993)、『賀茂保憲女集』の執筆が始まった。

正暦四年(993)6月26日 菅原道真に左大臣正一位が贈られる

正暦四年(993)6月26日癸未、菅原道真に左大臣正一位の贈位・贈官が行われた。(『小右記』同年7月5日条)

正暦四年(993)閏10月14日 勧修の前に藤原師輔の亡霊が出現する

正暦四年(993)閏10月14日戊戌、藤原妍子懐妊によって勧修が修法を行っていると、突然藤原師輔の亡霊が現れた。亡霊は「生前、私は仏事や外術に子孫繁盛の願いを託し、その願いは成就した。特に、藤原実頼の子族が滅ぶようにとの願いは極めて深いものであり、陰陽の術を施して彼の子孫を断とうとした。実頼の子孫が生まれる時、私は必ずそこへ向かって誕生を妨げる。期したところは、まず六十年である。あの時の外術の効力はあと二年ほどである。その後は、妨害することは難しくなるだろう。この更衣(妍子)は懐妊の気配があったので、他の同胤を断とうと煩わせに来た」と言った。この話を聞いた藤原実資は「骨肉であっても用心しなければならないのか」と感じたという。(『小右記』)

正暦四年(993)閏10月20日 菅原道真に太政大臣の位が贈られる

正暦四年(993)閏10月20日甲辰、菅原道真に太政大臣の位が贈られた。(『小右記』)

長保四年(1002)12月9日 藤原道長が慶滋保胤の四十九日諷誦を修する

長保四年(1002)12月9日、左大臣藤原道長は慶滋保胤の四十九日諷誦を修した。(『本朝文粋』)

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