天徳五年(961)から寛弘二年(1005)の間に起こった主なできごとを紹介します。安倍晴明は、師の賀茂保憲とともに内裏焼亡で焼損してしまった霊剣の再鋳造に携わります。これ以降、様々な古記録に晴明の名が見られるようになり活躍の機会が増えます。
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参考平安時代の年表―安倍晴明が生きていた時代のできごと:前編
平安時代の年表:天慶九年(946)4月20日-康保四年(967)5月25日の間に起こったできごとについてわかりやすく簡単に説明します。 村上天皇:天慶九年(946)4月20日-康保四年(967)5月2 ...
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年表
天皇 | 和暦(西暦) | 月日 | できごと | 典拠 | リンク |
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天徳四年(960) | 10月4日 | 清水寺に鬼が現れる | 扶桑略記 | ||
応和元年(961) | 新造内裏の柱に虫食いが発見される | 扶桑略記 | |||
康保年間(964~968) | 源満仲の夢に龍女が現れる | ||||
安和二年(969) | 3 | 安和の変 | |||
天延二年(974) | 6 | 祇園御霊会の開始 | |||
貞元元年(976) | 7 | 山城・近江で大地震が起こる | |||
天元二年(979) | 宋が中国を統一する | ||||
天元五年(982) | 2 | 海賊の蜂起 | |||
天元五年(982) | 10 | 慶滋保胤が池亭記を作成する | |||
永観二年(984) | 10 | 花山天皇 即位 | |||
寛和元年(985) | 2 | 円融院による子の日の行幸 | |||
寛和元年(985) | 8月29日 | 円融上皇 出家 | |||
寛和二年(986) | 4 | 慶滋保胤 出家 | |||
寛和二年(986) | 6月23日 | 花山天皇 出家 | 読む | ||
寛和三年(987) | 8月16日 | 源満仲 出家 | |||
永祚元年(989) | 8 | 永祚の風 | |||
正暦元年(990) | 10 | 賀茂光輔が藤原道隆邸に乱入 | |||
正暦四年(993) | 『賀茂保憲女集』執筆開始 | ||||
長徳二年(996) | 1 | 長徳の変 | 読む | ||
長保四年(1002) | 12 | 藤原道長が慶滋保胤の四十九日諷誦を修する |
詳細なできごと
村上天皇:天慶九年(946)4月20日-康保四年(967)5月25日
天徳四年(960)10月2日 源満仲らが平将門の息子を捜索する
天徳四年(960)10月2日戊辰、右大将藤原師尹は「近頃、都の人々が故平将門の息子が入京したと噂している」と奏した。そこで、検非違使及び源満仲らが将門の息子を捜索することになった。(『扶桑略記』)
天徳四年(960)10月4日 清水寺に鬼が現れる
天徳四年(960)10月4日庚午の夜、人々は清水寺において鬼を目撃した。(『扶桑略記』)
応和元年(961) 新造内裏の柱に虫食いが発見される
応和元年(961)、新造した内裏の柱に虫食いが発見された。その虫食いは三十一字の和歌の体をなしており「つくるとも またもやけなん すがはらや むねのいたまの あはぬかぎりは(作るとも またも焼けなむ 菅原や 棟の板間の合はぬかぎりは)」と読めた。その意味は「何度造り直してもまた焼けてしまうだろう、菅原道真の胸の痛みが癒えぬ限りは」だった。(『扶桑略記』)
『大鏡』にも同じ和歌の虫食いが発見された説話があるが、時期は円融天皇の御代(969~984)とされている。
応和元年(961)7月5日 高雄山において霊剣が再鋳造される
応和元年(961)7月5日、高雄山において、前年の火災で焼損した霊剣が再鋳造された。備前国鍛治白根安生が再鋳造を務めた。(『塵袋』)
康保年間(964~968) 源満仲の夢に龍女が現れる
康保年間(964~968)、源満仲の夢に龍女が現れた。摂津国菟原郡に住む龍女には長年の敵がいて、承平年間に藤原秀郷に頼んで討ち取ってもらったが、九頭の大蛇として復活してしまったのだ。そんな時、満仲の武勇を聞きつけた龍女は大蛇を退治してほしいと頼み、龍馬を授ける。こうして、満仲は九頭の大蛇を倒し、霊魂を鎮めるために九頭明神として祀った。(『前太平記』)
康保三年(966)8月15日 月の宴
康保三年(966)8月15日、中秋の名月を鑑賞する宴が開かれた。(『栄花物語』)
冷泉天皇:康保四年(967)5月25日-安和二年(969)8月13日
冷泉天皇は物の怪に悩まされ、一年余りで退位することになった。
円融天皇:安和二年(969)8月13日-永観二年(984)8月27日
天延四年(976)春 妖怪が多数出没し、失踪者が続出する
天延四年(976)春、さまざまな妖怪が多数現れ、老若男女に多くの失踪者が出た。彼らはかき消えるようにいなくなり、二度と帰ってくることはなかったという。そこで、人々は申の刻(午後4時頃)を過ぎると門を閉ざした。朝廷は比叡山から数多の僧綱を召して、清涼殿において仁王会を修させた。また、源頼光をはじめとした諸国の武士たちが禁門の警固にあたった。
さらに、朝廷は播磨守安倍晴明を召して人々の失踪は神仏の祟りによるものか、あるいは悪霊の仕業か占わせた。晴明は、宇治の橋姫の仕業たと申した。(『前太平記』)
天延四年(976)5月 内裏焼亡
天延元年(976)5月11日丁丑、内裏で火災があった。仁寿殿の西面から出火した。円融天皇は職曹司に遷御した。(『日本紀略』)
このとき、円融天皇は三種の神器を持って内裏から脱出した。激しい魔風が吹き、炎をが辺り一面に飛び散った。(『前太平記』)
天延四年(976)6月 大地震が起こる
天延四年(976)6月3日午の刻から大地震が起こり、空は黒雲に覆われて地面は激しく揺れ、家々が次々に倒壊した。未曾有の災難が続き、人々は世界が滅びると泣き叫んだ。4日の明け方にようやく鎮まった。(『前太平記』)
貞元元年(976)秋 源頼光の土蜘蛛退治
天元二年(979)5月26日 『占事略決』の執筆
天元二年(979)5月26日、『占事略決』が完成した。
天元五年(982)10月 慶滋保胤が池亭記を作成する
天元五年(982)10月、大内記慶滋保胤が池亭記を作成した。(『扶桑略記』)
永観二年(984)6月29日 菅原道真の託宣
永観二年(984)6月29日戊申の辰の刻、筑前国安楽寺において禰宜藤原長子に託宣があった。
花山天皇:永観二年(984)8月27日-寛和二年(986)6月23日
永観二年(984)11月 『往生要集』の執筆が始まる
永観二年(984)11月、源信の書『往生要集』の執筆が始まった。(『往生要集』)
寛和元年(985)2月 円融院による子の日の行幸
寛和元年(985)2月13日、円融院の子の日の行幸が行われた。巳の刻(午前十時頃)に出発し、紫野に向かった。
参加者:左右大臣(源雅信・藤原兼家)、大納言(藤原為光)、権大納言(左大将:藤原朝光・右大将:藤原済時)、中納言(藤原文範・藤原顕光・源重光・源保光)、右中将(藤原義懐)、右兵衛督(源忠清)、参議(藤原公季)、右中将(藤原道隆)など。
円融院が御在所に着き、御膳の準備が行われる。次に歌人たちが御前に召される。
この時、曽禰好忠・中原重節も召されたが、公卿らが「曽禰・中原は召集されていない」と言って追い立てた。(『小右記』『古事談』)
寛和元年(985)4月 往生要集が完成する
寛和元年(985)4月、源信の書『往生要集』が完成した。(『往生要集』)
寛和二年(986)4月 慶滋保胤が出家
寛和二年(986)4月22日庚申、大内記従五位下慶滋保胤が出家した。(『日本紀略』)
一条天皇:寛和二年(986)6月23日-寛弘八年(1011)6月13日
寛和二年(986)6月23日 一条天皇即位の儀
寛和二年(986)6月23日、一条天皇即位の儀が行われる大極殿の飾り付けをするために人々が集まったところ、御殿の高御座の中に血がべっとりと付いているのが発見された。しかし、特に不吉なことはなかった。(『大鏡』)
永延二年(988)10月 源頼光が枡花女の夢を見る
永延二年(988)10月、源頼光は夢の中で枡花女から水破・兵破・雷上動ならびに直垂を受け取った。夢から醒めると、現実に枡花女から賜ったものが傍らにあった。頼光はこの直垂を業早黄色と名付け、常に着ていた。(『前太平記』)
永延三年(989)6月下旬 彗星が出現
東西の空に彗星が現れたので、改元が行われた。(『愚管抄』)
永祚元年(989)8月13日 永祚の風
永祚元年(989)8月13日辛酉、酉の刻頃から子の終刻まで暴風雨があった。(『小右記』)激しい風によって普門寺が焼亡し、右馬寮が倒れた際に馬が下敷きになってしまった。小野宮の厩舎も倒れたので、再築が行われた。他にも、奇異なことが多かったという。(『小右記』同年8月14日条)この時の風は「永祚の風」と呼ばれた。(『愚管抄』巻四)
神職の者たちは日吉山王権現の託宣と言って連署を捧げて奏上した。
「暴風によって神殿が破損した。神の怒りを鎮めようと神楽を奏したところ、神霊の乙女が託宣して曰く『此度の災いは、龍神や妖怪の祟りではない。西の山に鬼がいて、幻術を得意としている。暴風はこの鬼の仕業である。次に、源頼光を鎮守府将軍に任命するのは延期すべきである。頼光が辺境に赴けば鬼はいよいよ暇を得て、必ず朝廷に災いを呼ぶ』と申すとうつ伏せに倒れました。あまりに神託あらたかと思い、奏聞しました」
その場にいた諸卿は奇異なことだと思い、摂政藤原兼家は手を打って「頼光を奥州に行かせることはすでに考えていて、しかし未だに口に出していなかったところに、こうしてお告げがあったのは神託にちがいない」と大いに驚嘆した。
やがて、まずは年号を改めて災いを消そうとして永祚に改元され、頼光の補任もしばらく延期となった。(『前太平記』)
正暦元年(990)10月15日 賀茂光輔が藤原道隆邸に乱入
正暦元年(990)10月15日丁巳の朝、賀茂光輔(賀茂光栄の弟)が裸で抜刀し、藤原道隆邸に乱入した。(『小右記』)
正暦四年(993) 『賀茂保憲女集』の執筆が始まる
正暦四年(993)、『賀茂保憲女集』の執筆が始まった。
正暦四年(993)6月26日 菅原道真に左大臣正一位が贈られる
正暦四年(993)6月26日癸未、菅原道真に左大臣正一位の贈位・贈官が行われた。(『小右記』同年7月5日条)
正暦四年(993)閏10月14日 勧修の前に藤原師輔の亡霊が出現する
正暦四年(993)閏10月14日戊戌、藤原妍子懐妊によって勧修が修法を行っていると、突然藤原師輔の亡霊が現れた。亡霊は「生前、私は仏事や外術に子孫繁盛の願いを託し、その願いは成就した。特に、藤原実頼の子族が滅ぶようにとの願いは極めて深いものであり、陰陽の術を施して彼の子孫を断とうとした。実頼の子孫が生まれる時、私は必ずそこへ向かって誕生を妨げる。期したところは、まず六十年である。あの時の外術の効力はあと二年ほどである。その後は、妨害することは難しくなるだろう。この更衣(妍子)は懐妊の気配があったので、他の同胤を断とうと煩わせに来た」と言った。この話を聞いた藤原実資は「骨肉であっても用心しなければならないのか」と感じたという。(『小右記』)
正暦四年(993)閏10月20日 菅原道真に太政大臣の位が贈られる
正暦四年(993)閏10月20日甲辰、菅原道真に太政大臣の位が贈られた。(『小右記』)
長保四年(1002)12月9日 藤原道長が慶滋保胤の四十九日諷誦を修する
長保四年(1002)12月9日、左大臣藤原道長は慶滋保胤の四十九日諷誦を修した。(『本朝文粋』)
晴明の年表
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参考【完全版】安倍晴明関係の年表についてわかりやすく解説
『小右記』『権記』『御堂関白記』など多数の史料をもとに安倍晴明の陰陽師・天文博士としての活動をご紹介。説話や伝説に見られるような超人的な能力をもつ陰陽師ではなく、一人の官人陰陽師としての晴明の実像が浮 ...
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