『古今著聞集』巻七の二九五に収録。
基本情報
情節
御堂関白殿(藤原道長)の物忌にあたり、解脱寺の僧正観修・陰陽師の安倍晴明・医師の丹波忠明・武士の源義家が参籠していた。
五月一日、南都から早瓜が献上されてきたが、「物忌みの最中に外からのものを受け取っても大丈夫なのだろうか」と言って、晴明に占わせた。
晴明は占って、「一つの瓜から毒気を感じる」と言って、その一つを取り出した。
「祈祷を行えば、毒気がはっきりと顕れるでしょう」と言うので、観修に祈祷させた。
しばらく念仏を唱えていると、その瓜がゆらゆらと揺れ始めた。
その時、御堂関白殿が忠明に毒気を治すように命じると、忠明は瓜を取って回し、二ヶ所に針を刺した。
すると、瓜の動きが止まった。
義家に瓜を割るよう命じると、義家は腰の刀を抜いて瓜を割った。
中を見ると、小さな蛇がとぐろを巻いていた。
忠明が瓜に刺した針は、蛇の左右の眼に刺さっていた。
義家は何気なく瓜を割ったように見えたが、蛇の頭を切っていた。
世に知られた人々の振る舞いはこのようなものなのだ。
すばらしいことだ。
この出来事がどの日記に記されていたのかは知らないが、世の人々に広く知られている。
補足解説
解脱寺
京都府京都市左京区岩倉長谷町にあった、天台宗の寺院。道長の姉である東三条院藤原詮子が創建した。長保四年(1002)7月17日、観修を導師として常行堂を建立した。
観修
天慶八年(945年)? - 寛弘五年(1008)。天台宗の僧。
丹波忠明
正暦元年(990)~没年不詳。平安時代中期の医師。丹波雅忠の父。名医と謳われていた。
源義家
長暦3年(1039年)~嘉承元年(1106)。八幡太郎義家の名で知られる、平安時代の武将。時代から考えて、源頼光の誤りと考えられている。
物忌
物忌の最中は、門を開けてはならなかった。
関連
『撰集抄』巻八 一〇四 空也上人の手を祈ることに同様の説話が収録されている。
こちらの説話では、瓜を見るのは晴明・医師雅忠・行尊となっている。