室町時代前期に書かれた播磨国の地誌『峯相記』では、「晴明・道満は一条院の御宇、一双の陰陽の逸物なり」とある。
道満は、一条天皇の時代を代表する優秀な陰陽師として安倍晴明と対をなす存在であった。
呪詛事件
『古事談』『宇治拾遺物語』『十訓抄』では首謀者が藤原顕光となっているが、『峯相記』では藤原伊周となっている。
藤原顕光と藤原伊周に接点はなく、まったくの別人である。
藤原道長が通る道に呪物を埋める(『十訓抄』『峯相記』より)
道満は藤原伊周から道長に呪詛をかけるよう依頼され、道長が通りそうな道に呪物を埋めた。
しかし、晴明に見破られて罪人として播磨国へ配流された。
犬が道長に危機を告げる(『古事談』『宇治拾遺物語』『十訓抄』より)
御堂関白の御犬、晴明等、奇特の事(『宇治拾遺物語』より)
御堂関白藤原道長は法成寺を建立してからというもの、可愛がっていた白い犬を連れて毎日寺に通っていた。
ある日、いつものように犬が道長のお供をしていたが、道長が寺の門に入ろうとすると、犬が門を塞ぐようにして吠え回り、中に入れないようにしていた。
道長が牛車から下りて門の中に入ろうとしたらなば、服の裾を加えて引き止めようとした。
何か理由があるのだろうと思った道長が安倍晴明を呼んで占わせると、道長を呪うための物が道の中に埋められていて、その上を歩くとよくないことが起こるので、神通力を持っている犬が教えたのだという。
道長が呪物を探し出すように命じると、晴明は少しの間占って呪物が埋まっているところを見つけた。
その場所を掘らせると、土を五尺(約150cm)ほどのところに呪物が置いてあった。
素焼きの土器を二つ合わせて、黄色い紙で十字の形に縛ってあった。
開けてみると中には何も入っておらず、朱砂で「一」という文字を土器が底に書かれていた。
晴明は、自分以外でこの呪法を知っているのは道摩法師だけであるという。
道摩法師が呪物を埋めたのか調べてみようと言って、晴明は懐紙を鳥の形に折って、呪文を唱えて空に投げ上げた。
紙の鳥は白鷺となり、南に向かって飛んでいった。
従者に鳥を追いかけさせたところ、白鷺は六条坊門の通りと万里小路の通りが交わる、両開きの戸のある古い家の中に落ちた。
その家の主人である老法師を生け捕りにして呪った理由を問うと、堀河左大臣藤原顕光に依頼されたと言った。
こうして、道摩法師は故郷の播磨国へ追放された。
藤原顕光は死後怨霊となり、道長とその周辺を祟ったので、悪霊左府と呼ばれた。
道長は白い犬をそれまで以上に可愛がったという。
道長は関白にはならなかったが、実力と勢力から、死後御堂関白と呼ばれた。
寛弘六年(1009)の呪詛事件
法師陰陽師でもある僧円能が、当時の朝廷における事実上の最高権力者であった左大臣藤原道長・道長の娘で一条天皇中宮の藤原彰子・その彰子が生んだ子である一条天皇第二皇子敦平親王の三人を亡き者にしようとした謀略。
長保元年(999)、藤原伊周の妹定子が一条天皇の中宮であったにもかかわらず、道長は娘の彰子を天皇に嫁がせた。
さらに翌年二月、彰子を強引に中宮に立てて一帝二后の体制となった。
寛弘五年(1008)9月、藤原彰子が一条天皇の第二皇子敦成親王を産んだことによって、道長は外戚の地位を確立した。
そうして寛弘六年(1009)1月30日、中宮彰子と敦成親王を呪詛する物が発見された。
呪詛は道長にも及び、2月4日には実行犯として僧円能が捕らえられた。
『日本紀略』によると、5日には共犯として陰陽法師源念が尋問され、高階光子と民部大輔源方理ら首謀者の罪名定めが行われている。
僧円能を勘問した記録『円能勘問日記』には、
寛弘六年の呪詛事件で呪物を作ったのは円能であったが、この事件が伝承される過程で円能と道満の取り違えが起き、諸書において道場に呪詛をかけたのは道満として語られるようになった。
『円能勘問日記』
平安中期の明法家惟宗允亮によって編纂された『政事要略』に引用され、現在まで伝わっている。
高階光子の命によって呪詛したのは、昨日の勘問の際に申したところである。
中宮・若宮・左大臣がいる間は藤原伊周が政権を執ることはできないので、この三人を排除するためである。
まず、昨年12月の中旬に源方理から、同月下旬に高階光子から話があった。
呪符のうち一枚を光子に渡し、もう一枚は方理に渡すために彼の家を訪れたが不在だったため、それを知っていた妻に預けて禄として紅花染の袿一領をもらった。
光子からは禄として絹一疋をもらった。
寺社や他の所には行っていない。
光子の家の侍・藤原吉道はこのことを知っている。
出納・春正は使者として円能のもとに来たが、このことは知らないと思う。しかし、「元々、僧道満が年頃光子の家で召し仕う陰陽師である」と言っていたので、呪符のことを知っていたかもしれない。
また、円能の弟子妙延によると、僧源心と円能は常にこのことについて語っていたという。
また、前越後守源為文が円能を召し仕う間に、その縁で方理夫妻の委託を受けたと昨日言っていたが、それでは為文もこの事件に関与しているのか。
方理と光子はそれぞれ住んでいる場所が異なるから、それぞれの場所で聞いた。二人が共謀していたかどうかは知らない。
源心とはよく知れた仲だが、呪符には関与していない。
為文には呪符のことは言っていない。自分が為文の家に通っているうちに、方理が呪符について話してきたのである。
『妙延勘問日記』
円能とは師弟関係だが、自分は知らない。
昨年の冬に童子の物部糸丸に絹一疋を持たせていたのは見た。また円能・源心が相談しているところは見たが、内容は知らない。
『糸丸勘問日記』
自分は知らない。祓の禄として、光子の家から絹一疋を持ってきた。
また、紅花染の衣を女が持ってくるのを見たが、どこの物かは知らない。
陰陽道の秘伝書を巡って争う
『安倍晴明物語』において、播磨国印南郡に住む道満法師は、祖先の蘆屋村主清太は、法道仙人から学んだ諸々の事を書物に書き記して子孫に伝えていた。
その書物を通して仙人の学問を学んだ道満は、法道仙人の弟子と偽り、仙人の名前から一字取って「道満」と名乗った。
都で安倍晴明を打ち負かすことによって自身の力を天下に知らしめようと考えた道満は、都に上ることを決意する。
ところが、帝も叡覧する禁中での術くらべにおいて、小石を燕に変えて空を飛ばせた道満に対し、晴明は扇を一つ打っただけで道満の燕を小石に戻してしまった。
晴明が巨大な龍を喚んで大雨を降らせても、道満には龍を消すことも雨を止ませることもできなかった。
次に、長持の中に入っているものが何かを当てる占い対決となった。
箱の中には蜜柑が入っていて、道満は蜜柑が15個入っていると答えたが、晴明はネズミが15匹いると答えた。
箱の中に蜜柑を入れていた大臣たちは、晴明が負けるのは一大事なので、中々箱を開けられないでいた。
しびれを切らした道満の催促によって箱が開けられると、中からネズミが飛び出してきた。
実は、晴明が術で箱の中の蜜柑をネズミに変えていたのである。
この対決によって晴明との実力差を思い知らせた道満は、晴明の弟子となる。
ある時、晴明が帝の勅命によって唐に留学することになったので、道満が留守役を任された。
だが、晴明が留学している間に道満は晴明の妻梨花を誑かし、晴明が秘伝書を隠している場所を聞き出し、写本を作っていた。
そんな事実を知らない晴明は、道満の謀略にかかり、あえなく命を落としてしまう。
『簠簋抄』にも似たような記述がある。
陰陽師と播磨国
道満の故郷は播磨国(現・兵庫県)であった。
『今昔物語集』巻二十四「播磨国陰陽師知徳法師語」に登場する智徳法師もまた播磨国の陰陽師で、海賊に襲われた船主のために呪力で奪われた物を取り返した話がある。
また、晴明も『平家物語』剣巻で「播磨守安倍晴明」と記されていたことから、播磨国の国守として赴任していたことがあったようである。
セーマン・ドーマン
-
参考セーマン・ドーマン
セーマン・ドーマンは陰陽道で用いる代表的な呪術図形であり、”セーマン”は安倍晴明、”ドーマン”は蘆屋道満が由来である。 三重県南部の海女が魔除けとして手ぬぐいや襦袢などの道具に描いていたものでもある。 ...
続きを見る
参考資料
- 「陰陽道の本―日本史の闇を貫く秘儀・占術の系譜」学研プラス、1993年
- 繁田信一「陰陽師 安倍晴明と蘆屋道満」中公新書、2006年
- 高平 鳴海「図解 陰陽師」新紀元社、2007年
- 山下克明「陰陽道の発見」NHK出版、2010年
- 藤巻一保「安倍晴明『簠簋内伝』現代語訳総解説」戎光祥出版、2017年