鎌倉時代

佐助稲荷神社

流人だった頼朝の夢に稲荷の神霊が現れて挙兵を促したので、当時「前右兵衛佐殿」だった頼朝を助けたということで、佐助稲荷神社と名付けられた。
源平合戦に勝利した後、建久年間(1190〜1199)に頼朝が社殿を再興させ、台・山崎の両地を寄進したという。

『吾妻鏡』には「佐介」「佐介ガ谷」はあるが、「佐助稲荷」あるいは「佐介稲荷」は見られない。

また、延文四年(1359)12月11日、鎌倉公方足利基氏は凶徒退治の祈祷を「佐介稲荷社別当三位僧都御房」に命じている。

佐介ガ谷

「佐助ガ谷」とも書く。
横浜市地方法務局鎌倉出張所(佐助1丁目13−16)周辺とその西脇の横道を北行した佐助二丁目の谷のことだといわれている。
かつて源頼朝が前右兵衛佐を縮めて”佐殿”と呼ばれていたとき、平氏の追撃から逃れてこの地の隠れ里に潜んだところ、地主神である宇賀神が現れて助けたので、佐殿を助けたということで、佐助ガ谷と呼ばれるようになった。
あるいは、頼朝の配下である三浦介義澄、千葉介常胤、上総介広常の三人の館があったので三介ガ谷と呼ばれていたのが、いつしか訛って佐介ガ谷と呼ばれるようになったという伝承も残っている。

社伝

伊豆の蛭ヶ小島に流されていた源頼朝が病に伏していた時、「かくれ里の稲荷」と名乗る翁が夢枕に立ち、平家討伐の挙兵をうながしました。
後に幕府を開いた頼朝は、かくれ里に祠を探しあて、稲荷神社を建てたと伝えられます。
幼少のころ佐殿といわれていた頼朝を助けたので「佐助」の名を付けたといわれています。
参道登り口に縁結びの十一面観音が祀られています。

由緒

相州鎌倉隠里佐助稲荷神社由緒

当社は源頼朝公の再建せし古社にして御祭神は宇加御魂命・大己貴命・佐田彦命・大宮女命事代主命。
往古むかし頼朝公伊豆蛭ヶ小島の配所にて、平家討伐を日夜念じをりし折、稲荷の大神気高き老翁の姿にて夢に現れ給い、挙兵をうながし、その時期を啓示し給えり。
頼朝公天下一統の礎を固めし後、稲荷神霊の加護に感謝し畠山重忠に命じ、佐介山隠れ里の霊地を選び社殿を造建せしむ。
人々の信仰きわめてあつく、出世稲荷としてその御神徳は広く関東一円に拡がりたり。
さらに寛元の頃(十三世紀中)鎌倉に疫病流行せし時、佐介稲荷の大神再び奇瑞を現し給い、霊種をして薬草を生ぜしめ病苦の者、ことごとく癒やし給いぬ。
以来、神威更にかがやき、商売繁盛、病気平癒、大漁満船、学業成就の霊験顕然たり。
例祭 二月初午 正午

縁結び十一面観世音菩薩

徳川時代、足柄郡の尼寺から縁あって当地に安置された木像十一面観音は、良縁にうすく、諦めて仏門に入られた美しい姫君、赤松幸運がこの世の若い男女に良縁あらんことを祈りつつ彫られたと伝えられています。

霊狐泉

境内の片隅には霊狐の神水と呼ばれる湧水があり、今も絶えることなく湧き出ている。
飲めないがペットボトルに入れて持ち帰ることができる。

佐助の稲荷山は往古より麓の田畑を潤す水源の地なり。
生命の基のこの湧水を人々霊狐の神水と称え家々の神棚に供えて稲荷のご神徳を戴くなり。
今に至るも絶えず湧き出づる霊狐の泉なり。

佐助稲荷神社
祭神 宇迦之御魂神
神徳 農漁商工業繁栄・生活の守護神

800年以上続く佐助稲荷には人々から奉納された古い石の祠がたくさんあり、神使である白狐が祀られている。
まだ社を持たない時に、神が宿る岩として信仰を受けていた神聖な場所である。

基本情報

神社情報

ご祭神宇迦御魂命、大己貴命、佐田彦命、大宮女命、事代主命
ご利益出世運、仕事運、縁結び
祭礼元旦祭(1月1日)、初午祭(2月上午の日)
拝観料無料

アクセス

住所〒248-0017 神奈川県鎌倉市佐助2丁目22−12
電話番号0467-22-4711
アクセス(電車・バス)最寄り駅はJR横須賀線・江の島電鉄「鎌倉駅」下車。徒歩約20分。
アクセス(車)駐車場はございませんので近くのコインパーキングをご利用ください。

地図

参考資料

  • 奥富 敬之「鎌倉史跡事典」新人物往来社、1999年

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