平安時代

【源平合戦】逆櫓論争

逆櫓さかろ論争は、源義経梶原景時の間で行われた論争である。
『平家物語』に見られる。

元暦二年(1185)2月、義経は源頼朝の代官として平氏を追討するために讃岐国屋島へ向かった。
摂津国渡辺まで来たところで、海戦での戦い方について軍議が開かれた。
景時は舟に逆櫓を立てて進めてはどうかと提案したが、義経は「最初から逃げ腰では縁起が悪い」と言って景時の提案を却下した。

『平家物語』

元暦二年(1185)2月16日、渡辺と神崎の二箇所でここ数日準備していた船のともづなを解こうとした。
ちょうどその時、木が折れるほどの激しい北風が吹き、大波によって多くの船が破損したので、船を出せなくなってしまった。
こうして、その日は船を修理するために留まることになった。

渡辺では大名と小名が寄り合って、
「そもそも、海上での戦い方はまだ訓練していない。どうすべきか」と話し合った。
梶原が「今度の合戦では、船に逆櫓を立ててはいかかでしょう」と提案した。
判官(義経)が「逆櫓とは何だ」と問うと、梶原は「馬は駆けようと思えば、右へも左へも容易く向けられますが、船を素早く押し戻すのは困難です。ともに櫓を立て、脇楫わいかじを取り付けていずれの方向へも容易く進めるでしょう」と申した。

判官は「合戦というものは一歩も引くまいと思っていても、状勢が悪ければ退くのが常だ。最初から逃げ腰では何もいいことがない。
いざ出陣というときに、縁起でもない。逆櫓を立てようが返様櫓かえさまろを立てようが、お前たちの舟には百挻でも千挻でも立てればよい。私は元々の櫓一つで向かう」と言った。

梶原は「優れた大将軍は進むべき局面を進み、退くべき局面を退いて、身を守りながら敵を滅ぼすものです。ただ攻めるだけでは猪武者といって、いいものではありません」と申した。

判官は「猪か鹿か知らないが、合戦というものは攻めるだけ攻めて勝つのが心地よいのだ」と言った。

武士たちは梶原を恐れて声高に笑わなかったが、目と鼻を合わせてひそひそと笑った。
そして、判官と梶原の間で同士討ちがはじまりそうだと騒ぎあった。

『吾妻鏡』との矛盾

『吾妻鏡』元暦元年(1184)2月5日条では平氏追討に向けて源範頼と源義経に付き従う人々の名前が列挙されているが、梶原景時は範頼に従うことになっている。

花絮

逆櫓の松

『平家物語』の逆櫓の段によれば、1185年2月、源義経は、平氏を討つため京都を出発し、摂津国の渡辺、福島から、四国の八島(屋島)を船で急襲しようとした。
義経軍は、船での戦いはあまり経験がなかったので、皆で評議していると、参謀役の梶原景時が「船を前後どちらの方角にも容易に動かせるように、船尾の櫓(オール)だけでなく船首に櫓(逆櫓)をつけたらどうでしょう」と提案した。
しかし義経は、「はじめから退却のことを考えていたのでは何もよいことがない。船尾の櫓だけで戦おう」と述べた。
結局逆櫓をつけることをせず、夜に入って義経は出陣しようとした。
折からの強風を恐れてか、梶原景時に気兼ねしてか、それに従ったのは二百騎艘のうちわずか五艘であったが、義経は勝利をおさめた。
その論争を行った場所が、一説によればこのあたりといわれている。この他には、江戸時代の地誌『摂津名所図会』によれば、幹の形が蛇のような、樹齢千歳を超える松が生えていたという。
この松を逆櫓の松と呼んだ。
逆櫓の松は、近代に入るころには、既に枯れてしまっていたらしい。

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