「芦屋道満大内鑑」のあらすじと解説まとめ

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資料

浄瑠璃「芦屋道満大内鑑」のあらすじです。
(ほぼほぼ現代語訳です。)
この話において荼枳尼天は陰陽道の守護神ということになっています。

▼参考▼

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概要

■作者:竹田出雲

江戸時代中期初演の浄瑠璃作品。安倍晴明伝説を題材に、親子の情愛をテーマとしている。
四段目の「葛の葉の子別れ」の上演が圧倒的に多い。

第一段

東宮御所の段

朱雀帝の皇子・桜木親王が皇太子となる。妃は左大将・橘朝臣の娘と参議・小野好古の娘六の君である。
親王は御息女、六の君と比翼連理の深い契りを結ばれた。

しかし、天地の気候・陰陽が狂い月影が白虹に貫かれ光を失い、東宮御所においてこのことを評議しようとの勅があった。

故事の「白虹日を貫く」の日を月に変え、東宮に対応する現象としている。
「安倍晴明物語」の安倍晴明天文巻に「白き雲あり。日を貫けば他国より乱を起こす。貫きが通ると謀が成就する。貫きが通らなければ謀反人は滅ぶ。秦の時代、燕丹が本意を遂げられなかったのは貫きが通らなかったからだ。」とある。

諸々の役人が集まり意見を述べたが、これは天体の異変であり天下に大事が起こる前兆だったので、知恵の及ぶところではなかった。
左大将は「白虹が月を貫くのは天災である。日本の祟りには定め難く、もし唐・天竺の災いであれば悩んでも仕方がない。この問題はこのまま放っておいてもいいだろう」と言った。
小野好古は「いやいや、日本の災いではないとは言い難い。だからといって、天文暦道の専門の家に生まれたわけでもない私があれこれと批判を加えるのも恐れ多いことだ。
ここに賀茂保憲の娘の榊の前という者がいる。官位のない者が親王のお側に参るのは恐れ多いが、女や子供はその限りではない。召されて詳細をお尋ねになりましては如何でございましょう」と言ったので、榊の前は宮中へ参った。

左大将は榊の前を見て「賀茂保憲の娘榊とはそなたのことか。此度の天変の善悪を慎まずに申し上げよ」と仰せられる。
榊の前は「恐れ多いお言葉です。一つのまん丸なものを宙に吊っておけば、自然と東西南北上下も定まります。その丸いものを場合によって月または日とみなし、それを中心にしますと西は天竺、東は唐、南は日本、北はどこ、と分けました。
天文の初歩でございます。伊弉諾尊・伊弉冊尊は天照大神をお生みになりました。この天照が現在の太陽でございます。これは朱雀天皇様においても同じことです。次に、伊弉諾尊・伊弉冊尊は月読尊をお生みになりました。その麗しさは太陽に劣らず、ともに天を送る月となりました。これは、桜木親王様も同じことです。
甘八宿の星の中で「女」と「鬼」という二つの星が月のそばを離れません。女の鬼は嫉妬を表し、災いではありますが国を乱したり民を損なうまでのものではありません。易は変易を指しており、女の私には天文学・易学の詳しいことはわかりません。唐の伯道仙人から「金烏玉兎集」という書を伝えられております。近き君の守護となり、悪事を良いことに移し替えます。その書を保名殿に譲ろうと申しておりましたが、急病で亡くなったため何の遺言もございません。大元尊神の社にその書を納めました。道満か保名の両弟子のいずれかにその書を譲ろうと思っております。」と憚りなく言うのは、さすがあの親の娘である。

伯道仙人

「簠簋抄」「安倍晴明物語」における晴明の師匠。
太唐荊山の麓に住み、天地陰陽の理を究めようとして文殊菩薩に導かれ五台山に至る。

六の君が「この災いは女の嫉妬によるものとは、恐ろしくて身が縮みます。和歌三神に誓って私の心に嫉妬心はありませんが、御息所でいらっしゃいましたなら、さもしい気もあったかと。情けは忘れがたいですが、お暇を頂いて共に尼になりたい」と好古の袖にすがりお泣きになった。
御息所も泣かれた。「六の君よりも私の心がなお恥ずかしい。お暇を頂いたら私も東宮妃の位を退き、共に尼となって庵に住み仏に仕えましょう」と仰られた。
東宮は「待ちなさい」と二人を留め、「日頃より仲がよく互いに貞女の道を守っている。しおらしく頼もしいことだ。出家など決してなさるな」と労った。「榊が言っていた道満と保名とは誰のことだ」と問うと、左大将が「道満は芦屋の兵衛という私の召使いで、保憲の一番弟子。保名は好古の家来なので、詳細は好古にお尋ねください」と。好古は「安倍保名は私の家来で、希名と名乗る者です。天文に心を委ね、保憲の弟子になりました。師匠の『保』の一字を許され『保名』と名を改めました」と。二人の訴えを詳しくお聞きになった。
「保名と道満。保憲が生きていた頃はその業に甲乙はなかった。この上は左大将の執権・岩倉治部と好古の執権・左近太郎の両名が立ち会い、大元尊神の心の叶う方へ金烏玉兎集を与えよ」と仰った。岩倉治部と左近太郎は庭上に平伏し畏まった。「治部太輔左近太郎とは御主だな。四海(日本全土)の喜びは私の喜びである。私の嘆きは四海の嘆きである。これはいい加減な業ではなく、必ず互いの贔屓を拒む。神慮に違うことのないように」と御入りになった。
民が東宮の聖徳を仰げば、無限にみえる空の天体の運行の理など理解し難く思われるけれども、それをさえ天文道によって計り知られるというのも天皇の聖徳により国が治まっている故であり、御代長久のしるしである。

間の町の段

いつまでも続いて、如何にも春らしい。糸のような柳の葉だ。
賀茂保憲の息女・榊の前が御所を退出する。お付きの女たちの身のこなしは、公家と武家の間である。

史実の賀茂保憲は公家ではあっても武家ではない。
大阪の観客に近世の京都で身分のある階層のイメージを喚起させたものである。

後を急ぐと「待ちなさい」と声がして「誰に何の用ですか」と安倍保名の草履取りである与勘平が息を切って走った。
「一、二丁跡からちらりと目印。これ幸いと口が裂けるほど声をかけたく。宮中へ召された結果の善悪を早く知りたいために、礼儀知らずの武骨者が大声で呼び止めました無礼はお許しください。」と文を差し出した。
人目があったので静々と。文を読み終え、硯を取り出した。
想いを込めた返事を認め、その間におしゃべり好きの若い女たちが取り巻く。
榊の前は「これは保名様へのお返しです。詳しいことはこの文箱の中に。早く行ってください」と帰りを急ぐ折から、土砂と共に吹いた風に保名の文も巻き込んで、空に漂いひらひらと舞った。
榊の前も困りきって、「与勘平。帰りがけにあの文が落ちたところを見届けて取ってきてください。人の手に渡ると互いの大事になるので、そなたに頼みました。気のせくことよ。急いでください」と仰った。
与勘平はぽかんと立ち尽くし、箱を持って呆れ顔。「とんでもなく当て所もなくつかみどころのない預け物だ」と、武骨者に不似合いな恋文の使者になった挙げ句、文探しの役目まで引き受けることになった。「とんだ役目を頼まれたものじゃ」と。

加茂館の段

賀茂川の水源が清いように、由緒正しき賀茂氏の一族である賀茂保憲の館がある。

保憲の死後、妻は出家して後室となる。人々から尊敬され、ちやほやされて心が驕るさまは見るに堪えない。
中の間に立ち「腰元共々」と呼び、「どなたを見ても眠そうな顔つきだ。榊は東宮御所に召されたからといって慢心し、大きな顔で昼寝をしているではないか。皆、手に棒でも持って擦り起こせ、撫で起こせ」と真綿に包んだ針で突くようであった。

治部太輔様が来て、
「左近太郎と約束した時間よりも早く参りました。まず、これを御覧ください」と懐から文を取り出した。後室は文を取り上げ押し開いた。
「これはまさしく保名の手紙である。榊への文をそなたがどうして手に入れたのです」
「庭の松を眺めていると、枝に何かがびらびら付いておりました。町の子供らが凧を落としたのかと思えば、この文がございました。文に詳細は書かれておりませんが、元来御くじというものがあって、万が一保名が後継者になれば全く手出しができぬ。左近太郎と立ち会う前に何か良い考えはないだろうか。(賀茂家執権の)平馬もなにか意見を出せ」と。
後室は落ち着いて「兼ねてから御存知の通り、これは金烏玉兎集のことです。夫保憲が存命の時に、安倍保名にこの書を譲ろうと吉日を待っているうちに病にかかり、亡くなられました。そなたや私は芦屋兵衛(道満)に譲り受けさせたいと思っていたところを、大事を逃れたのは運の強いことです。御くじの結果を待つなどという回りくどいことをするよりも近道だと、平馬と示し合わせなさい。開けにくい宝殿の扉や箱をうまい工夫をして明けたので、落ち着いてください」と。
金烏玉兎集を治部に渡すと彼は驚いて、
「どうやってこの書を取り出したのですか。この扉の鍵は私が預かっておりましたのに。箱の鍵は娘が預かっていたと兼ねてから伺っております。肌見放さず持ち歩いておりました」
「肌見放さぬ物でも寝るときは枕元へ置くものです。鍵の寸法を写し取り、合鍵をこしらえたのです」
「ありがたや。この書を道満に渡せば、あれも出世し私も出世するでしょう。出世だらけ良いことだらけでこれ幸いです。保名めを盗人に仕立てる策もうまくいきます」と喜んだ。

榊の館の高堀の外に安倍保名がひっそりと来た。参議好古に仕える身で何の勢力も持たないが、先祖は遣唐使に選ばれ唐で重用されていた。
榊は囁き「首尾は前の文に書いた通りです。御くじというものは運次第で、心に任せぬ神の掟です。頼むは大元尊神荼枳尼天。あなたを早くお呼び寄せ申して、儀式的な祈りでも心の祈願でもさせ申したく。あなたが後継者となるように、共に祈りましょう」
「かたじけない。結果が悪ければその場で死のうと決めてきたが、そなたの言葉を聞くと、そういう風に考えるものではないと気づいた。神仏の加護を信じれば必ず利益がある。御くじの結果次第で死んでしまおうと思いつめた時は、神仏の加護を考えなかった」

荼枳尼天は仏教で死者の心臓を喰らう羅刹女で荼枳尼天法は大願成就を祈る外法として忌み嫌われるが、陰陽道では聖天・弁財天とともに三玉女とされている。

そこへ左近太郎が来たとの知らせがあったので、榊は保名を自室に隠した。
左近太郎は取次ぎの家人に導きをさせて座敷に入った。治部大輔、後室、榊、乾平馬の一同が揃ったので、いよいよ御くじを引くことになった。
治部が「今日は名跡の相続を決める日なのだから、かの金烏玉兎集を神前に備えて御くじを引きませんか」と言ったので、榊は箱を開けたが中は空っぽだった。
後室は知らぬ素振りをし、左近太郎はため息をつくばかりであった。
治部大輔は声を荒げ「ないということで済むか。書の在り処を言わねば骨をひしいででも白状させる」と榊を問いただした。後室も一緒になって書をどこにやったのかと榊に迫った。
平馬が榊の自室から保名を引き立て、左近太郎も
「どうやってここに来た。桜木親王は弟子たちが直接後継争いをするのはよくないとご賢慮を巡らされ、治部殿と私の二人で御くじを引くことになったのだ。親王のご命令に背く気か」と問い詰めた。
榊は「このことは身に覚えのない疑いであり、保名様に咎はありませぬ。責任は私一人に負わせ、どのようにでも処罰してください」と泣き詫びる。
保名は「来てはならないところへ来てしまった私が不運だった。死んで疑いを晴らそう」と小刀を抜く。それを榊がもぎ取り「南無阿弥陀」と唱えて喉に刃を突き立て、自刃しようとした。
榊は「出世を控えたあなたがつまらない女性問題のためにご切腹。私一人どうして生き残ることができましょう。母様もお父様もお嫌でしょうが、弟子の中にも保名様がおります。家柄も、才能も申し分ございません。玉兎集の行方も(継母と叔父の悪と)推量しても、あからさまには出来ない相手。清き心は天道や神仏に証人になって頂いて、私が死ぬことで玉兎集紛失の責任を取ります。保名様、左近様のことをお頼み申し上げます」という声も、涙も、この世で最後のものとなった。
榊は氷のような刃で自害し、わずかに残っていた霜が消えるように最後の息で言い終えると儚く死んだのであった。

保名は榊の死骸にすがりつき、深く嘆き悲しんだ。
元来、正直であった心も乱れ精神も離散した。
むくりと起きて、正気を失い「ほほほ、ははは」とけらけら笑いおかしくなってしまった。
「私も行こう。愛しいそなたを置いて独りでは行かぬ」と榊の打ち掛けを身にまとい付け狂い出した。
止める平馬を踏み飛ばし後室を投げ飛ばし、恋の悩みのために正気を失った。
恋しい人を失っても、恋の仲は決して離れない。天の最も高い所、地の最も低いところまでも離れることはないのだ。
左近太郎が止めようとするのを振り切り、狂いゆく恋路に迷うのも無情なものだ。
平馬は左近太郎を返そうとするが、左近は平馬を投げ飛ばし、合鍵を見せ平馬と後室が逃げ支度をしているところへ、与勘平が息を切らしてやってきた。
二人は後室に金烏玉兎集を盗んだ報いを受けさせ、平馬を斬首した。
左近は与勘平に「保名に事の詳細を知らせれば正気に戻る」と保名のもとに行かせた。

第二段

岩倉館の段

岩倉治部大輔は主君である左大将の仰せを蒙り、金烏玉兎集を奪い自分の館に預かり置き、邪智を巡らせていた。
密談に河内国の郷士である石川悪右衛門と芦屋道満が招かれた。
治部大輔は小声になった。
「さて、兼ねてから申し上げた通り保憲の秘伝の書を道満と保名のどちらかに譲るか御くじで決め、天文陰陽道を継がせよとのこと。妹の後室が首尾よく書を奪い、榊の不義の文を拾い保名に悪事を塗った。妹が討たれ、榊も自害したのは不憫なことよ」
これを聞いて、道満もはっと驚くばかりであった。
治部は金烏玉兎集を取り出し道満に渡した。道満は恭しく手に捧げ、
「日頃の願いが今日、成就しました。これもひとえに主君の御恩でございます。かたじけない」と急いで書の紐を解いた。
「はは、保憲が惜しまれたのもわかる。荊山の伯道仙人が伝えた天地陰陽の数、暦算推歩の術までも手中にあるとはさすがでございます」
治部大輔は得意になって思わず笑みを浮かべ、「早速だが、主君の御息女は桜木親王の子を懐妊する様子がない。何か良い術があれば聞きたい」と意気込んで問いかけた。
「積善の術がよいでしょう。白狐の生き血を採り、荼枳尼の法を行えばご懐妊は間違いありません」

積善の術

「積善」は善行を積み重ねること。
道満は、若宮の誕生は天皇家の安泰、ひいては国家の静謐につながるので、善事をもたらす術であるのがよい、という意味で行った。

治部大輔が「狐をどうやって手に入れよう」と問うと、悪右衛門が石川郡ならば白狐は手に入ると言った。
さらに、「それならばご懐妊の事は上手くいくだろう。所詮、邪魔なのはあの女(六の君)よ。桜木親王の御所は守りが厳しく拉致する機会はない。かの俗説に『蛙の背に思う人の名を書いて敷地に放り込めばその人が現れる』とあったので、その法を試してみたが全く効き目がない。この頃流行っている病も六の君には取り付かず。歌の威徳ぐらいに恐れをなし、人に害を与える事もできないとは、疫病神でなく臆病神で何の役にも立たぬ。なんとかの書に六の君を呼び出す方法はないものか」と問う。
「金烏玉兎集には人を誘い出す術などは記されておりませぬ。六の君をおびき出してどうするのですか」
「おびき出した後はぶち殺してしまうつもりだ」
悪右衛門も「それは良い策だ。手短でよい」と煽り立てた。
道満はそれには返答せず、「主君が子を思うあまりに理性を失い、悪行を為そうとするのを鎮めるのが執権の役目というもの。御息所ご懐妊の祈祷は朝廷の一大事ですが、それを成就させるべく六の君に非業の死を遂げさせ罪を重ねるならば、七鬼神の責めを受けご懐妊も叶わぬでしょう。この謀計はおやめなさい」と言い解した。
「察するに、好古の家来左近太郎にお前の妹を嫁がせているが故であろう。一家の主を敬い六の君をかばうのか」
「はて、それは舅殿の疑いすぎでございます」
「いやさ、疑いを受けるのもお前の心がけ次第。玉兎集を取り返し娘築羽根と離縁させ、婿舅の縁を切る。お家の大事より妹を優先したことを左大将殿に申し上げ、今目に思い知らせてやる」
「妹のために不忠を働く道満ではございませぬ」
「それならば今すぐ術を行わぬか」
「人の命を断つことは陰陽道で禁じられておりますが、舅殿の疑いを晴らすため」と硯を引き寄せ、呪詛の文をしたためた。
「六の君が出てきたら御菩薩池に沈めてやろう」
「では、沈め役はこの悪右衛門にお任せくだされ。六の君をさらって沈めにかけましょう。首尾よく行った後は伯父信太庄司の所領を拝領し、奴の娘葛の葉を拙者の女房にくだされ。元方卿の権威にてお取りなしをお頼み申します」
「なるほどわかった。必ず、抜かりなくやれ」

神符の受け渡しをしているところへつけ込み、仲人やら所領の約束を取り付けるのは、なんとまあ貪欲なことだ。

親王御所北門の段

儚く散りやすい花、すなわち桜を名としてもつ桜木親王の愛する花を散らしてやろうと、日没時につく寺の鐘を合図に石川悪右衛門が無造作に刀を差す。
誰かに見つからないように出たり隠れたりするさまは、恋のために人目を忍ぶ姿と人は見咎めるであろう。
六の君が住んでいる北の小門に着き、道満に教えられたとおりに神符を貼り付けた。
築地の陰に身を潜め、六の君を待ち伏せた。
すると、思いがけなく六の君が現れた。蝉の抜け殻のように虚ろな様子であった。
時は来た、と悪右衛門は築地の陰からぬっと出て六の君を捕らえた。してやったりと御菩薩池まで急ぎゆく。

御菩薩池の段

悪右衛門は六の君を肩に担いで御菩薩池に向かった。
美しい女性を背負って夜道を走るのも、恋ではなく、深い欲の為せる技である。
月の光が指してきたので辺りを見回すと、どうやら御菩薩池はここであるらしい。

六の君を肩から下ろすと、「なぜこのような目に合わなければならないのですか」と泣くのが聞こえた。
「めそめそとやかましい。この姿を見よ。都から池まで一里半、肩も足もくたびれ果てた。しばらく休んでいる間、合掌して待っておれ」と道標の立石に腰かけた。
「武士ならば物の哀れは知っているはず。このようになった事情を納得させてから殺してください」
「お前がこの世に長居をすれば御息所の邪魔になる。この池に沈めて殺すのじゃ」
「さては、御息所の言い付か。妬みは女の習わしとは言いながらも、殺そうとまでは思わないでしょう。無慈悲で、残酷で、情を知らぬ心よ」と泣き伏せた。
悪右衛門は辺りの石を六の君の袖に押し込み池に沈めようとしたが、大男が現れ悪右衛門を池に投げ飛ばした。
大男は六の君を背中に乗せ、足に任せて姿を消した。

信太社の段

昔から、ここに和泉の社がある。信太神社が昔から俗塵の只中にあるのは、神仏の威光が俗世の人の近づきやすいように和らげられ、輝き渡っている所以である。

葛の葉姫という、信太庄司の館の奥深くに傅かれている娘がいる。心に深く願立てをしているので、乗り物ではなく、歩いて神詣に行く振り袖の打ち掛け姿も都にもまれなほど美しく、花も姿を恥じらうほどだ。
外出の機会の少ない屋敷務めの女達が「もしもし、姫様。私達もお供しましょう。そもそも、今日の産宮詣は何のためでございましょう」と優しい声で言った。

産宮詣

出生地にある守護神の社に詣でること。

「語らねば知らぬのも尤もです。この頃、毎晩都にいる姉上(榊の前)の身の上に不幸が起こる夢を見るので悲しいことがないように神詣をします。あなたたちも姉上の無事を心中で祈って願立てをしてください」と身内を思う心の優しいことよ。
「それは逆夢でございます。石川悪右衛門という憎たらしい若衆が姫様をひどく好いております。お嫌いなさるほど夢中になって、女房呼ばわりでございます。その悪右衛門から離れられるという夢のお告げにございます。お喜びなさいませ」
「おお、凶事と思われたことがめでたいことの兆しで嬉しい。あの人との縁が切れるのはこの上もなき喜び」
「それならばご一緒に参りましょう。散り残る花をご覧になるのもお慰みになります」と、毛氈の朱の上に女達の衣服が交じり合い、田舎には珍しく赤錦のように華麗である。

小袖物狂ひ

「ああ恋よ恋よ、私の心をうわの空にしないでおくれ。恋風が吹いては我が身に添えている形見の小袖に絡みついて吹き分けるとは、思いやりのない風よ。私の本来の名である安倍保名という安らかな名とは似ても似つかぬ悩みの数々が胸に迫り、我を失い宛もなく迷い出でる」と和泉国へ向かう。
水の泡が漂うように頼りなくさまよう保名の姿は、長袴の裾を踏みつけて心も空に歩き回る正気を失った有様である。
「何も榊の姿に及ぶものはない。吉野初瀬の桜や更科越路の月雪の眺めも、榊の美しさには遥かに劣る。神に縁のある榊という樹の名にも似ず、儚く散るとは、恋しい人の名は偽りか。柳の葉が糸のように風に乱れるのと同じように私の心も恋ゆえに乱れて、いつの春か見初め想い始めて忘れられぬ。夜はどこに泊まろうか。草を寝床に敷いて独りで明かす夜の悲しいことよ。木の葉の間から幕の内にちらりと、榊の面影を写した人、ほんの少しでも似た人があるならば教えてくれ。遠くの人にも、近くに人にも物問おう」
与勘平が走り着き「これはこれは旦那様。人目も憚らず。お帰りください」と諌めて連れて行こうとする手を払い、榊の樹に形見の小袖を打ち掛けて、
「あれあれ。枝の上に恋しい人がいるようだ」と樹によじ登り、愛執に胸を焦がした。形見の小袖を身に添えて笑いながら狂い乱れるばかりであった。

葛の葉は幕に開けた穴から事の一部始終を覗き見ていた。なぜあんなにも心を乱しているのだろうと幕を絞って出ていった。姫を見るなり狂人は「懐かしい榊の前よ」と抱きつくのを、お供の女達が押し隔てる。
「これこれ、そうはさせまいぞ気違い殿。与勘平殿、この者を連れて行ってください」
「いや、止めておりまする、お気遣いなされますな。事情をお話するのは主人の恥なれども、一通り聞いてくださいませ。恋しい人に先立たれ、正気を失いご覧のようにお狂いになってしまいました。その恋人に、あの姫君が生き写しかと思うほどそっくりなのです。恋人と思って抱きついた失礼も、無理のないことと、寛大な気持ちでお許しくださり、さらにその上に厚かましいお願いですが、優しいお言葉をおかけになってはもらえないでしょうか。この上ない慈悲の心によって自然と狂気も静まるでしょう。お側の方々もお執り成しをお願い申し上げます」とひたすら頼み込んだ。
葛の葉はまだ若々しく世慣れていないため返事をしないでいると、腰元たちは「姫様のお言葉であの気違いが治るのであれば、それは善い結果を招くでしょう」と、恋ゆえの理由であると知った女子たちは同情したい気持ちになった。葛の葉も、
「知らぬ男の人に親しく言葉をかけるなどと、そんなはしたないことが・・・。なんと言ったらよろしいのでしょう」と恥ずかしげに近づいて、
「恋しいお方が亡くなられて気が狂ってしまわれるとは、お可哀そうに。世の中には恋の悩みや死別の悲しみを忘れさせるものがございます。お心を取り直しお帰り遊ばせ」
保名も心を鎮め、よくよく見ると榊ではなく心も正気に戻り、面目なさそうにうつむいた。
しばらくして顔を上げ、「やい、与勘平。俺は正気に戻ったぞ。」
「やあ、嬉しや忝や。これもひとえに貴方様のおかげです。お礼をさせてください」
葛の葉は恥ずかしそうに、
「田舎育ちの私が、少しお言葉をかけて心が治まるとは、恥ずかしい」と顔を赤らめた。
「早速ですが少しお尋ね申したいことがございます。その小袖はたしかに覚えのある模様。今仰られた榊さまとは、もしや賀茂保憲さまの」
「その娘の榊の前だ」
「それは私の姉上でございます」
これを聞いて保名も、
「そなたが信太の娘葛の葉殿か。これはこれは」と驚いた。
「拙者は榊の前と深い契りを結んだ安倍保名と申す」
「この頃の悪い夢のお告げは、姉上が亡くなられたことに依るものなのですか。事情をお聞かせください」
「ここは人目もある。幕の内にて話そう。この上は妹御を榊と思い、今も変わらぬ恋の誓いを立てよう」
保名が葛の葉への想いを目遣いで知らせるばかりでなく、言葉にまで表すのに対し、葛の葉も岩木ではないので、幕の縫い目がほころびやすいようにその心も解けて、共に幕の内に入った。

葛の葉は姉の小袖を打ち掛けた。その佇まいは榊の前と見間違えるほどであった。
「もし、母様。この小袖を覚えておいでですか」
「どれどれ」とよく見て、
「これはこの母が若い時に趣味で拵えた小袖。姉の榊に送ったものをそなたはなぜ着ているのです」と父と共に不審な顔。
「悲しい話を聞きました」と泣き叫ぶと、父母も驚き不安になった。
「泣いて済むことか」と夫婦が苛立っているのを見かねた保名が幕の内から出てきて、
「ご両親が不審に思われるのはご尤も。拙者は賀茂保憲の末弟、安倍保名と申します。御息女の榊の前とは兼ねてより夫婦の契りを交わしておりました。後室の策略によって秘伝の書を奪われ、夫婦の節義のために榊の前はその夜に自害。某も物狂いとなり、思わずここに参りました。こうしてお目にかかるのも不思議な縁でございます」
母は声を上げ、泣き沈んだ。
父はさすがに泣くこともできず、胸にせまる涙を堪えた。
「さては以前から聞いていた保名殿か。榊がこの世にいたならば、婿舅の名乗りもできたものを。悲しき今日の対面は、老いて子と別れるほどだ」と、老いの涙に噎びいた。
「この嘆きは尤もなれども、葛の葉殿を姉と思ってお慰みになってください。何卒妹御を妻に申し受けたく存じます」
「なるほど、世間にある慣わしだ。なれども、甥の悪右衛門という、葛の葉を好いていたが娘に拒まれていた礼儀知らずの悪党者がいる。今までは悪右衛門を無視してきたが、娘を他へ嫁がせるとなればはっきりと断り諒解を得ておかぬと、石川の家の体面が絡んで面倒なことになる。」と。
そこへ法螺貝と陣鐘の音とともに白狐が迷い込んできた。助けてくれと言わんばかりに葛の葉と保名の間に入り込む。
「読めたぞ。今聞こえた法螺貝と陣鐘の音は狐狩りの時に使うもの。白狐はふしぎな獣で、稲荷明神の神使でもあるから、助けてやろう」と祠の扉を押し開いた。

その時、向こうから勢いよく掛けてくるのはまごうことなき悪右衛門であった。
保名は、会うのはまずいと思って幕の内に隠れた。
程なくして、悪右衛門は「これはこれは、伯父殿ではありませぬか。一家揃って物見遊山とはうらやましい。拙者は左大将殿の仰せを受けて近国で狐狩りをしておりました。せっかく見つけた狐を取り逃してしまうのは縁起の悪いこと。願うは女房狩り。今日一日は休みにして葛の葉殿を連れ帰りたいものだ」と庄司の前に立ちふさがった。
庄司が断ると、悪右衛門は
「嫁入りの催促は何度もしてきたが、一向に返事はない。うまうまと騙そうということか。もう騙されぬぞ。よい機会を逃すな、それ家来共、娘を引っ立てろ」と家来たちが庄司夫婦の首筋をつかんで尻もちをつかせた。
たまりかねた保名と与勘平は、幕の内から飛んできて葛の葉親子を後ろに囲った。
「やあ、お前は安倍保名。うまいことをやったな。姉がくたばった故妹にちょっかいを出しに来たか。信太の家を断絶させてこの悪右衛門が押領してやる。さあ、姫を渡せ」
「ここは保名が請け負いました。貴方たちはここから逃げてください」
保名が葛の葉親子を逃がそうとすると「逃さぬ」と悪右衛門が立ちはだかる。
なんとか手を尽くしたが、悪右衛門の家来が大勢いるため手も足もひしがれた。苦しい息をほっとつく。
「おのれ悪右衛門。生かして返さぬぞ卑怯者め。離せ離せ」と立ち上がろうとしたが転んだ。無念と歯噛みをし、
「きっと葛の葉も奴に奪われてしまうだろう。もはや生きていても仕方がない」と差添を抜いた。
自刃しようとしたその時、葛の葉が走ってきた。「待って、早まらないで」と声がしたので振り返る。
「どうして来たのだ。ご両親に怪我はないか」
「親たちがどうなっても、しのぎを削ってきたあなたを見捨てておけませぬ」
保名を始終を話し、互いに抱き合い切っても切れぬ夫婦仲となった。
そこへ与勘平が息を切って馳せ帰ってきた。「主人の身の上を案じて引き返す途中で悪右衛門に出くわしました。しばらく戦っている間に葛の葉様が来て、御心が届きました」

またむらむらと悪右衛門が家来を大勢引き連れてきて、葛の葉を奪えと命じた。
与勘平は「手前にいるのは性懲りもなく鬱陶しい餓鬼。ここで信太の土となれ」と切りかかったので、悪右衛門をたちは逃げていった。
保名夫婦は大いに喜び、「悪右衛門たちを撃退できたのも、夫婦の仲もひとえに信太の神のお恵みだ」と。
「住吉の隣にある津の国安倍野は私の故郷。しばらくそこに籠もり、時節を待とう」と言って立つ足さえも、風に揉まれる柳のようによろよろとしていた。
葛の葉が夫の手を引いて道を行く。石津川を渡った先は道もよい。

西へ西へ入る日につれて行くのもよい。人目をしのぶ黄昏時。津の国の安倍野へ急ぐ。

第三段

左大将館の段

六の君は御菩薩池から逃げ出し、行方もわからない。左大将橘の元方はこの後に起こる災難を恐れて心が休まらなかった。
雑掌の早船主税が野袴に草鞋を履いて庭に畏まっている。
「御菩薩池の非人が攫って行った六の君を探しました。洛中、洛外、所々の非人小屋。野宿している乞食を片っ端から問い詰めましたけれども、手がかりはありませぬ。察するところ、京を離れたのではないでしょうか。この上は京に近い隣国を一度探してみては如何でしょう」と伺った。
左大将は黙って頷き、
「ほう、抜け目ないな。腕に覚えのある悪右衛門を池に投げ込み泥水を呑ませるとは、非人ながらたいした奴だ。都にいないのなら、近江国か若狭、丹波路、五畿内を残らず探し出し、吉報を知らせよ。早船という名字も事の速やかな解決を連想させて縁起がよい。我が主税よ、頼む」
「お気遣い遊ばすな」と主人の仰せに従い張り切って出て行った。
執権岩倉治部太輔が声をかけ、
「これこれ、あてもなく他国を渡り歩くよりも、私が老眼にてにらみつけた所がある。百に一つも外さぬ眼力にて、六の君の隠れ家を嗅ぎだした。あまりの近さに聞いて驚いてはならぬぞ。他でもない芦屋道満の鼻の先にある」
「いやいや、芦屋親子は無二の忠臣ですぞ」
「忠臣顔に騙されるな。昨夜十一時近く、娘の築羽根が門を叩いて裸足で駆け出してきた。わけを聞くと夫婦喧嘩によるものだった。道満の屋敷では陰陽道の守護神荼枳尼天を祀っていた。家来は士分の者から下部の女まで言うに及ばず、女房すら寄せ付けぬ。その荼枳尼天を祀る祠から、世を忍ぶ女の泣き声が聞こえたのだ。その女とは疑いもなく六の君よ。主の仇敵を匿う不届き者のところに娘は置いておけぬ」
妻の嫉妬というつまらぬ事がきっかけとなって大事が洩れ、致命的に困難な状況になり、このような形で問題にされるとは、疎ましい次第である。
左大将は少し考えて、
「さすがは老功、素晴らしい目の付け所。とくに道満の妹は左近太郎の女房。主に忠実であればすぐに六の君を渡すはず。それを屋敷に隠すとは、いやいや治部殿、今一度確かめよ」
築羽根が左大将の御前に出る。
「これ、築羽根。左大将殿が道満との仲直しをしてやろう、と仰るのだよ。有り難いと思いお礼を申せ」
「いやいや、礼には及ばぬ。夫婦の間のごたごたはこれに限らず何度も聞いている。これもその範囲のこと。さあ、打ち明けてみよ」
「これは有り難いと申せばよいのか、お恥ずかしいと申せばよいのか、もったいないお言葉。身分のある方も下々も、夫婦喧嘩といえば、はっきり男の方に非があっても、妻が悪いと決めつけられるものですのに。私事を捨て置かれず忝ないご挨拶。あの道満という人は、まず第一に器量がよくて痩せすぎず、太りすぎず。武芸に優れ、奉公に私情を挟まず。歌を詠んで漢詩を作って漢学もできる。舞や笛の腕もずば抜けている。陰陽道は目に見えぬ吉凶を占いの兆によって見通す優れた占い者。そのようなえり抜きの方に焦がれ死にするところを、お上のお声がかかって婚礼の話が決まったのです。それからは子供が正月を待つよりもはるかに嫁入りの日を待ち遠しく思い、とうとう一昨年嫁入りしたのです。あまりの嬉しさに忘れにくい月日でございます」
「おお、この親が覚えておる。三月六日」
「そのとおりでございます」
「いい加減にやめておけ。前置きが長すぎて殿も親も退屈しておるわ」
「長くても退屈でも言わねば話が通じませぬ。退屈だと思いますが、祝言の口開きをお聞きください。婚礼の夜に深々と寝ると、なお良い男に感じられました。このような思いもよらぬ幸せに巡り会えたのもみな殿様のおかげにございます。閨へ入るたびに御所の方を向いて三度礼拝をしております。ある夜、天女様(荼枳尼天)の祠からささやき声が聞こえました。その夜は詮索せず長い間じっと我慢しておりましたが、しびれを切らして神仏にかこつけて愛人を隠しておく部屋でした。しかも若い女子の男をたぶらかすような甘い口調で。もうどうなっても構わぬ、と思って夫の胸ぐらを掴みました」

嫉妬の想いをぶちまける話が昂じて大粒の涙を流した。人目も憚らず畳を叩いて身悶えし、恨み嘆く姿のいじらしいことよ。

左大将は治部に目配せし、
「そなたの考えのほうが理にかなっている。胸の痛みを晴らしてやろう。やあ、誰かある。道満に急用があるから今すぐ来いと申してこい。早う早う」と遣いをやった。
「こりゃ、築羽根。道満が来しだい装束の間で仲直りせよ。機嫌を直して奥へ行け」と築羽根を奥へ行かせた。
「さあ、邪魔者は片付いた。もうすぐ道満が来るだろう。道満と組打ちする相手を奥に隠しておきましょう」
「老人は気が早い。大剛不敵の道満ゆえ、拷問は最後の手段。道満が留守の最中に屋敷を探すのがよい」

道満が来て、治部にあいさつをして上手へした。
治部は主税を道満の屋敷に向かわせるために馬を用意したが、そこへ築羽根が奥から走り出てきて立ちふさがった。
「小賢しい、なぜ止める」
「なぜ止めるかはわかりきったことではないですか。お尋ねになるのは愚かですよ。お前を遣っては夫を訴えたことと同じことになる。娘の身になって待ってくださらぬか」
「夫とは誰のことだ。もう縁は切れた。他人の事情になぜ涙を流す。そこをどかないと馬に蹴り殺させるぞ」
命を惜しまぬ築羽根が捨て身になって止めようしたのを振り払って、治部は道満の屋敷へ馬を走らせた。

道満屋敷の段

道満の屋敷に祀られている荼枳尼天の祠に庭の新樹の影が洩れている。
女達が各々夕方の掃除は日課であると言いながら話をしていると、道満の妹で左近太郎の妻である花町がみすぼらしげに現れた。
女たちは開いた口が塞がらず、乗り物舁が乗り物の入り口を開けたまませかせかと急いで帰って行った。

女たちは袖を引き合い、
「いつものお里帰りとは違うて。花町様のお顔持ちもどうやら落ち着かぬ、心配な事情がありそうでとんだことじゃ」と呟く。
花町は左近太郎から離縁を告げられたのだという。
門前に轡の音が高々と響いた。
「左大将の仰せを蒙り、岩倉治部大輔が来た」と通り、芦屋将監を呼んだ。
芦屋将監が静々と出てきた。
「やあ治部殿、何か御用でしょうか」
「言うに及ばず、覚えがあろう。荼枳尼天の祠をぶち砕いて一件落着よ」と奥めがけて駆けて行った。
「これこれ、お待ち下さい」と引き止める。
「賀茂保憲の家に伝わる、金烏玉兎集と名付けられた秘伝の書。左大将の知恵によって息子道満の手に渡った。陰陽道を伝え継ぐ家の宝。それによってこのように別殿を構えて納め置いていたのです。お疑いは無用に遊ばせ」
「そんなことではない。築羽根はこの中に女がいると言っていた。その女とは六の君であろう、ここに出せ」
「これは全く身に覚えのないこと。荼枳尼天は天上の荒神。穢れや不浄を嫌うので倅の他には親も入れず。まして女性を中に入れるわけがない。かわいそうに嫁が何か言い立てたような口ぶりだが、あれが嘘をつくはずがない。
「本当に身に覚えがないのであれば戸を開けて中を見せよ」
「開けたくても錠が下ろされている。鍵は倅が持っているのでご苦労ですがお帰りください」
「その鍵は治部が持ってきた」と拳で鍵を壊してしまった。
それを見るなり将監は治部の肩骨をつかんで投げ飛ばした。
「なぜ鍵を壊した。上使が鍵を持参して開けたのならば問題はないが、盗賊同然にしてこじ開けるのを傍観していたのでは、親といえども、武士として子に面目が立たぬ。さあこの内へつま先でも入れてみよ」と刀をすぐに抜ける態勢に入った。
「左大将の使者を切る気か。主を切るか、さあ刀を抜け」
主という字にそりを打った刀の刃も鈍り、息を詰めて控えた。
「ほほ、そう強く出られたものではあるまい」と戸を踏み開いた。
わっと叫ぶ女を引き連れて、
「これが六の君だ、見ておけ」
これを見ていた花町は父の脇差を手に走り寄って、
「治部殿。六の君の家来である左近太郎の女房が控えております。思いがけなくここで会うとは、私はなんと幸運なことよ。さあ尋常に渡しなさい」
「何を言うか。引き裂かれた女に渡してよいものか。そこをどかないと真っ二つにするぞ」と刀の柄に手をかけた。
花町も刀を抜きかけて、互いに力んで詰め寄るのを将監が分け入り押し留めたが結局乱闘になり、切り合う最中にも六の君は息苦しそうにしていた。
そこへ道満が帰ってきた。治部の首筋をつかんで投げ飛ばすと、横にごろごろと転がった。道満が六の君の事は主人の手前で解決したと言うと、治部は逃げ帰った。

将監は道満に向かって、
「桜木親王さまご寵愛の六の君を隠し置いて今の体たらく。親にも知らさぬとはどういうことだ」
「不審に思われるのもご尤も。今日まで左大将殿に忠義の心を胸に納めておりました。左大将殿が娘をあてに出世を望むのは浅ましいことです。御息所のご懐妊があっても六の君がいるので、殺してしまおうということになりました。治部が某を密かに談合相手に招きました。呪いの神符を書かせ六の君を誘い出し、石川悪右衛門に言いつけて御菩薩池に沈めようとの企て。非道の悪念にございます。六の君を殺したところでご懐妊があるのでしょうか。かえって人の恨みの報いがあるでしょう。先回りして御菩薩池で悪右衛門を投げ込み、六の君を助けたのはこの道満。荼枳尼天の祠に今日まで匿って置いたのです。父上にも知らさぬほど忠義を尽くしてきたこの道満の心を無下にするとは情けない御主人だ」と忠義に厚き涙の色。
将監は兄妹の心を汲んで控えていた。
「やあ、道満。六の君を失えば左大将殿の御身の一大事。異見を申し立てても聞き入れない主人にほとほと愛想を尽かし、後日罪科に遭われるのを見物するのか」
「伍子胥は主君を諌めて討たれる際、眼を呉の東門の上に懸けよと命じ、後に呉が越に破れたのを見て笑ったという話があります。これは唐人の了見ですが、この道満は違います。主君の恥辱を見物するだけではなく、六の首を御前に差し出し、切腹するつもりです」
「む、腹を切って相果てれば主君の咎を逃れるのだな。そなたの腸は鳶烏の餌にはなっても主君のためにはならぬ。ここをよく分別せよ。主命に背かず、姫も殺さずに収めたほうがよい。六の君の首をうってお命を助けたい」
聞いていた花町が差し寄って、
「恐れながら、この花町の首を六の君の首と偽って差し出せば、両家の主君への忠義も立ちましょう。死んだ跡で夫にでかしたと褒められるのなら、その夫の言葉を来世で夫婦になれる保証と思い楽しみに待ちます。」
将監は涙をはらはらと流し、
「命を懸けて忠義を立てようとは。そなたと姫君は似ても似つかぬ。目の利く左大将殿に見破られたら、そなたの望みは叶わぬぞ」
「それならば、誰かよく似た顔がございますか」
「あるとも。他でもない、この中に居る」
道満が止めて、
「この中とは、妹花町よりほかにはいないでしょう」
「いや、居る。六の君に寸分違わぬその顔が。天地の間にたった一つ。それは、この将監の首よ」
「父上、冗談も休み休みおっしゃい。玉のように透き通ったお顔と六十を過ぎたしわだらけの白髪頭と、月とすっぽんほど違うものを逆上して頭がおかしくなられたのではないですか」
「某が六の君を左大将のもとへ連れて行く。道満が追いかけて私を討つ間に六の君がお逃げになる。忠義にかえて親を討つ道満には、左大将も何も言えぬだろう。ところどころ禿げたこの首でも身代わりにはなるだろう」
一つの命を兄妹に分けて忠義を立てさせる親の慈悲は有り難いものだ。

道満は恐れ入り、
「私ためにお命を捨てるとはもったいない。不孝と呼ばれ忠義は立たないでしょう。」
「兄様、そのとおりです。父上の仰せでも今回ばかりは聞き入れられませぬ」
「親の心を無下にするな。自分が命を捨てようと言っても、それは道満が討つのでなければ、主君に対する言い訳が立たぬ。自害しては犬死。どうにも仕様がない」
親子の心の食い違いにつれて、夜が更け行く。

奥庭の段

月影が暗くなった。植込の裏の高堀に松の音がするのは風のせいか。
いや、違う。忍び込む女心のたくましいことだ。外から高堀によじ登り、堀の方へ茂った松の枝にとりついて幹をつたって降りてくる。

花町がひらりと飛ぶ女の姿を見て何者かと走り寄って顔を見ると、兄嫁の築羽根だった。
「やあ、花町様か」
「なんじゃ、『花町か』とは。本当にあなたは、まあ何という・・・。女房の風上にも置けぬど畜生」
腹立つままの憎まれ口を聞いて謝る身の切なさよ。
「女の性である悋気から夫を苦境に立たせてしまった。妹御のお手にかかるのはこの築羽根の本望。さあ、お切りなさい」と、深い覚悟を見せて髪の乱れを直した首を差し出した。
これを聞いた花町は左近太郎を後ろ盾にして共に六の君を助けようと提案する。

二人が談合していると、頭巾の男が夜警の服装で現れた。
「やあ、待ちかねました」と三人は廊下へ忍び込んだ。
高堀の屋根に羽織をきて、同じ出で立ちの頭巾頭が塀を降りて忍び込んだ。
先へ入った三人が六の君を連れ出したところへ、道満が立ちふさがった。
「どこへ行く。顔を隠してはいるが、左近太郎はまともな形でお連れすることもできないで盗賊同然の振る舞いは一人前の武士として刃物で渡り合う価値もない相手。卑怯な奴を斬っても刀が汚れるだけだ。姫を置いて立ち去れ」と声をかけられても頭巾の男返事をせず、姫を奥に押しやり道満に切りかかった。争いの末道満の槍が男に刺さり、男は倒れた。
これを見た花町は夫の仇を逃さぬと道満に切りかかったが、頭巾の男にねじ伏せられた。頭巾を脱ぐと父将監だった。

将監は深手を負っていても怯まず、
「年寄の腕力はお前には劣るが、謀では劣らぬ。兄妹を不憫に思う親の了見を聞かないからよ。子を思う親の心をお天道様も憐れんでくださったのだろうか、兄妹は某を左近太郎と見間違えた。我が子を騙すのも、我が子への可愛さゆえ。親の首を取って差し出せば、道満の忠義も立ち、夫婦の仲も元に納まる。兄妹が仲違いせぬように心を砕いたのが我が最期。亡き後の弔いとして僧を呼んだり供養をせずともよい。兄妹仲良くするのが冥土の土産じゃ」
花町は涙にむせ返り、
「二人とも申し合わせたように、父上と気づかなかったのはどのように詫びてもどうにもなりませぬ」と、わっと泣き叫んで悔やむのは哀れである。
道満も涙を拭い、
「陰陽亀卜の道を究めた身がわずか一重の頭巾頭を父上と気が付かず、子の身として親を討ってしまったのは不孝の中の不孝。天に罰されるよりも早く生涯を終えたい」と自害しようとして、父と妹に止められても聞かなかった。

そこへ、「これ、道満早まるな」と左近太郎が築羽根を伴い現れた。
「親と知らずに手にかけてしまったとしても、ここで命を落とすのは不孝の上塗り。自害をとどまり父の最期を見届け、迷いを晴らすのが親孝行だぞ。御老体の命に変えて六の君を解放し、左大将の件は親王には話さないでおこう」
将監は苦しみながらもにこっと笑い、
「忝ない。主君の名も出ず、倅も存命。安心して旅立って行ける」と槍を引き抜くと息絶えてしまった。

叶わぬ道ではあるけれども、今更慕う別れの涙。
治部大輔は門内へ入り、
「やあやあ、まだ六の君を討たないのか。さあ、六の君の首を斬って早く渡せ」と罵った。
その時、後ろから築羽根が槍で治部を刺した。
築羽根は治部の死骸の側で槍の穂先を逆手にとって自害しようとするが、道満に槍をもぎ取られた。
「左大将の悪逆も皆治部の入れ知恵。そなたの親と私の父、互いの子が自害すれば末代まで祟られるだろう。不孝を改めよ」と脇差を抜き払った。
「芦屋兵衛道満は今日限りで武士をやめる。陰陽の博士となって仏門に入り、名も改めよう。『道満(みちたる)』と書く二字の訓読みを音読みにして芦屋の道満(どうまん)。刀はもういらぬ」と投げ捨てると、築羽根も黒髪を切って捨てた。左近太郎はこれに感じ入り、
「ああ、もっともな了見。元より、陰陽道の達人は国家の宝。父も喜んでいることだろう。さて、治部の死骸を検死役にどのように説明しよう」
「父上の手にかかったと申せば、さして咎められることもないでしょう。何から何まで親の慈悲遺言を守ってその首を主君に差し出しましょう。(左近太郎)照綱殿は六の君を連れて急いで館に向かってください」

父の死を契機に仏道に入った道満夫婦を誘い行く夫婦。
孝行と忠義の二筋を一つの血筋に結んだ親子の別れは、哀れなものだ。

第四段

保名住家の段(「子別れの段」とも呼ばれる)

「となりの柿の木の大当聞ぬか」と歌が聞こえる。
かわいい我が子の立派な成長を祝う心を、千筋万筋の一筋一筋に数えるように織り込んで、出世を思わせる大名縞に織って着せましょうね。
安倍野の葦垣の近くにある住吉天王寺。霊験あらたかな仏閣と神社に足を運び、父は我が子の出世を祈り、母は種々に染めた糸を機にかけて織っている。

母は機屋を出て、
「これこれ坊や、あなたには虫を殺したがる悪い癖がある。今から殺生を好んでいてはろくな人にはなるまい。バッタやイナゴを殺すなと叱られたのを忘れたのか。与勘平は京へ行く。留守の間に池に落ちたり傷でもついたら母はどうすればよいのです。庭の外でいたずらをしてはいけません。さあ、ここへおいでなさい。乳を飲んで昼寝なさい」
「そんならかか様、晩になったら松虫塚へ虫をたんと取りに行きましょうか」
「容易いこと。とと様も連れて行きましょう。小言を言ってないでねんねこせ。こんなに愛しい者を、ほかにこれ以上の者がいると言えようか。ねんねこせ。ねんねが森はどこへ行った山を越えて里へ行った。里の土産に何もろた。でんでん太鼓に振鼓」

「ねんねこせ」は子守唄の節付け。
「ねんねこ」「ねんね」は幼児語で「寝ること」。「ねんね」は赤子のことも言う。

立派な楽や囃子は必要ない。手間暇取らずすやすやと、母に添い寝する幼子はどんないい夢を見るのだろうか。

「おか様、中にいるかい。ほほ、添乳をしていたのか。この頃は雨続きでめっきり木綿の値上がりしている。織り溜めたものがあるならば一疋でも半疋でも売らんかい」と打飼袋を下ろして腰掛けた。

木綿の製造過程で糸と布を天日に干す必要があるので、雨が続くと生産が需要に追いつかず、値上がりする。
「ついでに火をもらって一服しよう」
「子供が寝ているのですから大きな声を出さないでください。今日はまたおかしなことに、見慣れない木綿買いたちが来ました。家の者をきょろきょろと、素性の疑わしい木綿買いたちでした」
「そんなことを言わないでください。素性が疑わしいといえども、このお上の目の行き届いた日本の町の借家に住む木綿買い。気にするようなことではございませぬ。機の器用そうな顔なので、きっと織り溜めたものがあるだろうから売ってほしいのです」
「売る木綿は一切れもありません。ない所に長居せずとっとと帰ってください」
「そんな邪険に言わなくても。また無心に参ります」と挨拶をしてすごすごと帰って行った。
「ああ、やかましくてくだらないことに時間を使ってしまった。もう午後二時。夫の帰りはまだだろう。五時半過ぎには機織り仕事の手も回るから、それを片付けてから夕飯の支度をしよう。ねんねこねねこ」と軽く叩いてあやし、寝かしつけた。
老人夫婦を介抱して旅をしている娘は、娘にしてはやや老けていた。父の老人が二人を近づけ、
「保名と離れ離れになってから六年。長いこと、生きているか死んでいるかもわからぬ。娘こそ変わらぬけれど、保名の心はわからない。まず某が一人で保名と対面し、その後母と娘も呼び出そう。しばらくここに影を潜めておれ。では来意を告げよう。こんにちは、ごめんください」と中に入ったが、誰もいなかった。
「保名は出かけているのか。あの機音は召使いか。御免そこへ参る」
すると、機屋の小窓から姉さん被りの葛の葉と瓜二つの娘の顔が見えた。
「やれやれ、娘よなんとも不思議なことだ。葛の葉があそこにで機を織っているわい」と呆れ顔。
母娘がそっと小窓を覗くと、葛の葉に似ているとかではなく、本人のようであった。葛の葉も肝の潰れた母の手を引いてその場を離れた。
「物も言われませぬ。あちらが真の葛の葉かこちらが真の葛の葉か、親の目でさえ戸惑います」と、投げ出すように首を傾け、思案に尽きていると葛の葉も
「私もそう思います。私があの人なのか、あの人が私なのかわからなくなって、にわかに胸がやるせない気持ちです。どちらか本物の私なのでしょう」
三人は顔を眺めあい、ため息をついた。
帰ってきた安倍保名は三人を見るなり、
「やあ、庄司殿ご夫婦か」
「保名ではないか、懐かしや懐かしや」
「それはこちらも同前。まず、奥へご案内してください」
「まあまあ、葛の葉を連れて参った。婿殿に渡し申す」
保名は大いに痛み入り、
「これはこれは。拙者が留守のうちに葛の葉にご対面なされ、着せ替えて今連れてきたように見せ、この保名を困らせてお笑いなさるためか」
「いやさ、来てみると不思議な事があったのだ。まず、あの機の音を密かに覗いて見なさい」
保名はそっと小窓を覗いてびっくりし、
「あそこにも葛の葉、ここにも葛の葉。これはどうしたことか」と思いがけない驚きにただ呆然とするばかりであった。
「当惑するのももっともだ。私も信太で別れた跡、悪右衛門の讒言によって先祖代々の所領を没収され、世を忍んで山中に住んでいた。娘は貴殿のことを恋い慕い、五年に渡り色々と心を悩ませていたが、この頃思いがけなく貴殿の在り処を聞いてたちまち病も治ったので連れてきてみると、思いもよらぬことに娘が二人いたので興が醒めるどころではない。冷静になって考えてみると、離魂病なのかもしれない。俗に言うと『影の患い』といって、かたちを二つに分ける病だと言われている。保名殿、気をつけられよ」
離魂病は体が真っ二つになって二人のように分かれる病。

「私も賀茂保憲に従いこのような妖しいことの正体を明らかにするには、一句の呪文、一寸のしぐさでなしうる手立てを弁えております。必ず明らかな効力を発揮してお目にかけましょう。物置に密かに隠れていてください」と保名がひたすらに言うので、三人は物置に隠れた。

保名は三人を物置に忍ばせて中に入った。
「童子か母はいるか。今帰った」と呼ぶと襷を取る間もなく出迎えて、
「今日のお帰りはいつもより遅かった。お肌は冷えてないですか」
「いやいや、空が暖かいので住吉へ参詣し、その後天王寺へ参詣した。それから思いもよらず六時堂の前に来て、庄司殿ご夫婦に会ったのだ。日頃の不届きが胸に詰まっていたのであいさつをしかねていたが、あちらには一向の恨みもなく、私の在り処を聞いたので娘に会わせるためだった。日暮れにはここへ来るだろう。食べ物の用意はいらぬ、洗足の湯を頼む。おぬしも久々の対面にさぞ喜んでいるだろう」
「それは何より嬉しい。用意は必要ないといえども何もしなくていいのでしょうか」
「いやいや、孫の顔を見るのが一番のご馳走。おぬしも髪に櫛を入れ、着替えて所帯やつれした様子を見せないのが二番目によいご馳走だ」
と言いつつ女房の身なりを見ると、髪を上げるその姿は非の打ち所がなかったが、心の迷いを払って事を伺った。

妻は服を着替えて、寝ていた子供を抱き上げて奥から出てきた。
「恥ずかしく、浅ましいことです。本性を表して妻子の縁を切らねばなりませぬ。父上にそう言いたいのですが、互いに顔を合わせては、身の上を話すのも恥ずかしい。父上にこのように伝えてください。実のところ、私は人間ではありませぬ。六年前、信太で悪右衛門に狩られて死ぬところだった命を保名殿に助けられた千年近く生きている狐です。その恩に報いようと葛の葉姫に姿を変え、保名殿の自害を止めました。夫婦として過ごしているうちにいつしか情が湧いて、道理を弁えないのは愚かなことです。人間を深く愛するようになって野干の通力も失いました。元より名と姿をお借りしていた葛の葉殿には恩はあれども恨みはありません。庄司殿ご夫婦を本当の爺様婆様、葛の葉殿を本当の母と思って親しめば、きっと可愛いとお思いになるでしょう。手習いと学問に精を出してさすがは保名殿の子供です。器用者と褒められてください。何をさせても狐の子だから埒が明かぬと人に笑われそしられて、母の名を呼んではいけません。よく虫を殺してろくな者にはなるまいと叱られたのも、母の狐の本性を受け継いだからだと、どれほど悲しかったかわかりません。成人してからも無益の殺生をしてはいけません。陰ながらそなたの行末を末永く見守ろうと思っても、名残惜しく愛おしい。離れがたいのです、こっちへおいでなさい」と子供を抱き上げる、頬ずりをした。
保名は走り出て、
「詳細は聞いたが、どうして子供を捨てるのだ」と取り付くと、狐は抱いていた子供を置いてどこかへ消え失せてしまった。

庄司夫婦と葛の葉がやってきた。
葛の葉は手持ち無沙汰に見えたが、
「何はともあれ、私の姿になり、私の名を名乗って生んでもらったこの子は私の子です。父上と母上も、本当の孫と思ってください。これ坊や、今からこの母が代わりに面倒を見ます。今までの母上のように、馴れ馴れしく接してください。おお、よい子や」と抱くと、子供は乳を探して、
「いやいや。これはかか様の乳ではない」と辺りを見回して、
「かか様。かか様」と呼び叫んだ。
耐えかねた保名は大声を上げ、
「たとえ野干の身であっても、物の哀れを知って五年六年と付き添って恩返しをしようとして子まで産んだのだ。狐を妻に持ったと笑う人がいても、私はちっとも恥ずかしくない」と襖を開けると、向こうの障子に歌が書いてあった。

恋しくは 訪ね来てみよ 和泉なる しのだの森の うらみくずのは 

「はあ、さては一首の形見を残して私に名残は残らないが、子供は不憫だろう」と狂気のごとく駆け巡ると子供も父の後に付いて、
「かか様、どこへ行ったのですか。かか様」と声のある限り身悶えして嘆いた。
庄司夫婦も葛の葉も哀れに思い、深く嘆いた。
庄司は保名の嘆きを止めようと思い、
「ここに残された歌は、『私を恋しいと思ったならば、信太の森へ来てください』という意味ではないだろうか。いつでも信太に行けば出会えるだろう」と励ましているところへ、今朝うろついていた木綿買いたちが入ってきた。

「やあ、安倍保名と葛の葉。信太の庄司も見つけた。私は石川悪右衛門の家来、荏柄の段八」
「滋賀楽雲蔵」
「落合藤次。主君が心をかけている葛の葉を隠し置いている保名は間男同然。打ち殺して葛の葉を連れて来ようとここをうろついて出合わせたのが運の尽きよ。畏まったと葛の葉を渡せ」と言った。
老人夫婦は嘆いて気後れし、途方に暮れた保名ははっと心付き、
「葛の葉は子供を抱いて、ご夫婦を介抱して裏口を出て姿を隠し、遠いところへ逃げろ」と立ち上がった。
「葛の葉が欲しければこの保名の首を取ってからにしろ」
保名は機織り機や織り機の部品を悪右衛門の家来たちに向かって投げつけた。
日頃は見られない強気な姿勢も、狐が力添えをしているのかと思うほど激しかった。
悪右衛門の家来たちは逃げていった。

一行が駆けてきてよくやったと保名を讃えたけれども、葛の葉は、
「何を言っても私に乳がなくては、いつまでもこの子が馴染みようがない。あっちの葛の葉に会っていらない乳をもらってほしい」と泣いた。
「おお、それは一度会わなければ叶わぬ願い。夜が明けたらご夫婦と子供を連れて信太の森を訪ねよう」
一行は和泉にある信太の森を訪ねに行く。

道行信太の二人妻

ここに哀れを留めているのは、安倍の童子の母である。
元よりその身は畜生であり、苦しみの多い身の上を語り明かして妻として添うこともできず、住み慣れた故郷に帰ってきた。
秋霧が立ち込めて見分けの付かぬ狐の棲家の辺りに咲き乱れた色々な菊も、この身の事を聞き知っているかと恥ずかしく思い、足を爪立てて歩いた。
子供が自分に会いに来ることを思うと、涙で道が見えない。虫の鳴き声を聞いて悲しみは一層深まった。自分の姿を水鏡に移し、心の悲しさと裏腹に張り切った様子で野路を行く。今は悔やまず、嘆かないでおこうと乱菊の中を分けて行くと、程なく自分が住む森に来た。

ここに哀れを留めているのは、安倍の童子の母である。
障子に書きつけられていた形見を道標にして子供の生みの親を訪ねに行く。
葛の葉が道草を引く手に子供がすがり、ちらちらする光を指差すのは、母にゆかりの火だと虫が知らせているようで哀れであった。
狐火か、いや、違うか。あると見えて近づくと消えるものか。
いや、まさしく母狐の魂が胸の火となって体から迷い出て灯す火に違いない。
行く手の森を目印に進み、道行きを終えた。

草別れの段

思いを晴らすべく誰に問おうか、いや、誰にも問うまい。
保名夫婦は幼い子どもをいたわり、介抱した。
「ああ、しんどい」と葛の葉が足を休め、
「慣れない旅路でくたびれるのももっともだ。向こうが私の生まれ故郷。こちらに見えるのが夫婦の契りを結んだ信太の社。世の中に嘆きではなく喜びを求めても、結局は嘆きとなってしまった」
「あなたに添い遂げたいという私の欲深さゆえ、悪右衛門に邪魔されて流浪の身となり、昔の家に立ち寄っても人目が恥ずかしくてどうしようかと案じていた時に、ちょうど日が暮れてきました。何とかしてあの母親に逢ってこの子の想いを晴らしてやりたい。私も言いたいことが山程あります」
「なるほど、では急ごう」と親子夫婦は手を引き合い、歩みを急いで森の草むらの中へ入って行く。

菊が畑の畝のように乱れ咲く中を押し分けても、狐の隠れ家は見当たらない。
呼んでも叫んでも答えはなかった。
「さてはもう思い切り、もう会わないということか。情のない心だ、姿を現し、この世の思いを晴らさせよ」と保名が泣くと葛の葉も声を上げ、
「神通力を持っているのに、子供があなたをこれほど慕っているのがわからないのですか。たった一言で構いません、子供と話してください。この子が可愛くないのですか」と草むらに臥してまろぶと、幼子も共に泣いた。

そよそよと吹く風が身にしみて、我が子との絆に絡まれて子供の母親が現れた。
顔も姿も葛の葉の鏡写しのようだった。
保名はそれを見るなり走り寄って、
「懐かしいな。愛しい子供を振り捨て、どこに住んでいるのだ。たとえ物の怪でも構わぬ。せめてこの子に知恵がつくまで育ててくれよ」と嘆いた。
母は涙を抑え、
「真の姿を現してお目にかかるのは恥ずかしく、以前のように葛の葉様の姿で会うことをお許しください。この母が野干の身で夫に恩を返すために年月を重ねていくにつれ、どうにもならぬ因果の種を身に宿しました。故郷へ戻ることも出来ず我が子と暮らすうちに、正体を明かさなければいけないと思うようになったのです。正体を知られては人間を交わることはできません。この子の行く末は保名様と葛の葉様にお頼み申し上げます」と子供を膝に抱きかかえ、乳房を含め背を撫でる。

「真にこの子ほど不遇なものはおりません。畜生の腹を借りたのも前世の業。大人に成長して宮仕えをしても野干の子と侮られ、心苦しいと思うに違いない。それもこの母が人ならぬ身の悲しさよ」と嘆き、身悶えする。
保名も涙を押し留め、
「そなたの言うことはもっともだ。淫婦に姿を変えてたくさんの人をたぶらかしたならば、荼枳尼天にも咎められるだろう。仏体に等しい人間を助けて天の咎めもあるのだろうか。さあ、安倍野へ参ろう」
「嫌や嫌や。それは思いもよらぬこと。色に溺れて我が子に迷い、正体を知られた上に二度も人間を交われば、五万五千の眷属に疎まれ、永遠に畜生界を出られなくなるでしょう。その苦しみには代え難い。さらば、愛しい我が子よ」と泣き沈む。
「愛着の絆を切るのなら、誠の姿を見せよ」と言うと、母はたちまち年老いた白狐に姿を変え、我が子を懐かしそうに見返り草の茂みに隠れた。

保名は物の怪の姿でも厭わぬと言ったが、信太の森の草むらに面影が残っているだけであった。

信太の森の段

保名たちの前に芦屋道満が現れる。
葛の葉は刀を手に道満の乗った駕籠に近づき、
「姉様の仇、覚えがあろう。さあ芦屋殿、ここへ出て勝負せよ」と声をかける。
道満のしもべたちが立ちふさがると、「騒がしい、静かにしろ」と道満が駕籠の中から出てきた。保名は道満が僧の身なりをしているのを見て、
「外見を変えて助かると思うな。僧の服装をしていてもお前は仇。これは女房の葛の葉。姉榊が死んでしまったのは賀茂家に伝わる秘伝の書をお前が奪ったからだ。陰陽奥義の望みを失った私の鬱憤は晴れず。さあ、元の武士に立ち返って尋常に勝負せよ」と詰め寄ったが、道満はちっとも騒がない。

「あなたたちを恐れて外見を変える道満ではありませぬ。父将監を弔うためにこのように髻を切って僧の姿になったのです。また、榊の前の件は後室と岩倉の仕業。秘伝の書の一巻は某が手に入れたので疑わるのはもっともですが、奪い取ったとは身に覚えのないお言葉。桜木親王から大内小博士に任命され、芦屋の庄に向かう途中で幸いにも保名殿がいたので、金烏玉兎集を譲ろう思いここまで持ってきたのです」と、金烏玉兎集を駕籠の中から恭しく取り出した。
「この書を照らし見て判断を下し陰陽道の悟りを開いて帰洛いたされよ」と潔く言う有様に保名は平伏し、しばらく言葉もなかったが、
「芦屋殿を疑って今更悔やんでも仕方がない。この保名にはもう出世の望みはない。この書を倅に託して家を継がせたい」
先の非礼を悔やむ夫婦が願った。
道満はこれを受け入れ、金烏玉兎集を子供に渡した。
「伯父様が書いたのは金烏玉兎。金烏とはお日さまの中にある三足の金色の烏。玉兎とはお月さまの中で餅をつく玉の兎。月日を記したこの巻物は、天地の間にあるあらゆる事を知ることができるんだよ」
舌も回らない五歳の子供が信じられないようなことを言い出すので、夫婦も道満も驚いた。
「童子には驚いた。月日の異名の理を弁え、天地の事を記した書だとわかるとは。さすが保名殿の教育が良かったのだろう」
「いや、私は何も教えていない。親ながら不思議なことだ。彼を産んだ母親は年老いた白狐であったが。命を助けた恩に報いようとして葛の葉に化け、私は狐と知らずに相なれて、この子を産んだのだ。白狐の才能を受け継いだのだろうか」
これを聞いた道満は手を打って、
「唐でもそのようなことがあって、美仙娘という狐が南京城外の民である黄琢に孝心を感じ、妻に化けて子供を産んだ。その子の名は黄継といって、聡明な子だったので成長して朝廷に仕える高官となった。この童子も一を聞いて十を知るような秀才で、黄継にも劣らない。白狐の通力を備えた才智を試してみてはどうだろうか」

膝の上に子供を乗せ、
「これ、童子。この日本のはじまりは分かるか」
「知れたことです。天神七代、地神五代。人代のはじまりは神武天皇だと皆は言いますが、瓊々杵尊をはじめとします」
「詳しいな。さて、仏法のはじまりは」
「大聖世尊釈迦牟尼仏。日本に広まったのは聖徳太子の世からです」
「む、儒道のはじまりは如何に」
「大聖人孔子です」
道満は子供にさまざまな問答をし、子供は母狐の力を借りてすべての問いに正答した。

「真に疑いようのないことだ。狐に守られている世にもまれな童子。簠簋内伝の書を明らかに読み解き、保名殿の無実の汚名を晴らされよ。その儀を祝ってこの道満が名付け親となろう。晴れ明らむるの字を以て『晴明』と名乗られよ」と扇を開いてあおぎ立てると夫婦は喜んだ。
先祖は安倍仲麻呂の名字をついで安倍野の出生であることから、童子を安倍晴明と名付けた。

道満は重ねて、
「対面を果たし日頃の願いも達したのだから、早く国に帰りなさい。ついでながら信太の社はここからどのくらいかかりますか」
「わずか半道余り、保名が案内しよう。葛の葉はここで待て」と言って信太の森へと別れ行く。

そこへ、悪右衛門が葛の葉を奪い取ろうと家来を連れて追いかけてきた。
駕籠を見つけて戸を押し開けると葛の葉親子がいた。
「母親に子供まで、保名を生け捕るよい人質。急げ急げ」と葛の葉親子を捕らえようとすると、ちょうどそこに与勘平がやってきて悪右衛門と戦い、逃げる悪右衛門たちを追いかけて行った。

再び与勘平が刀の鞘に状箱を結び付けてやってきた。
葛の葉は喜んで、
「でかした。悪右衛門をは逃げおったか。そなたに怪我はなかったか」
「何を仰る。私は旦那様の用で一昨日の朝京都へ上り、左近太郎様に御目に掛かって、返事が入った状箱を持ってきたのです。たった今参ったので、手柄などは覚えがございませぬ」

二人が言い合いになっていると後ろから悪右衛門一味が戻ってきた。
後から悪右衛門を撃退した与勘平も現れた。
子供が窓から顔を出し、
「かか様、あれを見てください。兵衛(与勘平)が二人になった。与勘平が二つに分かれていいな」と手を打ち叩いた。
二人の与勘平は互いに顔を見合わせ、呆れるばかりであった。

葛の葉は二人の与勘平の生い立ちを聞いて、本物の与勘平を明らかにした。
もうひとりの与勘平は白狐の仲間で、葛の葉親子を助けに来たのだった。
野干平は悪右衛門主従の事は自分に任せろと言って葛の葉親子を隠れさせ、狐の通力で戦い悪右衛門たちは逃げ帰った。

信太の社から戻ってきた道満と保名は葛の葉親子と与勘平から事の一部始終を聞き、
「これもひとえに信太明神の守りのしるし、有り難いことだ」と拝んだ。
「行く先は草が深く敵の伏兵がいるかもしれない。与勘平、提灯を灯せ」
すると「はい」という声がして、野山も一面に照り輝くほどのたくさんの狐火が現れた。

第五段

京、一条の橋の段

慎みを知っていて慎まないのであれば、災いは遠くないだろう。

年月が経ち、八歳になった晴明は自然と妙術を備えた。
小野好古のもとを訪ねようと帰参を願う。保名が妻子を引き連れて道を歩いていると、一条の橋詰に差し掛かった。
「あれあれ、向こうに見えるのは左近太郎。これ幸い」
「やあ、照綱殿、どちらへ行かれるのですか」
「保名殿親子揃って、良いところでお目にかかった。ご子息は才智の優れた子であるゆえ、何卒天下の博士になるのがよいだろう。明朝、参内させてその旨を奏聞しよう」
左近太郎は保名一行を好古のもとへ連れて行こうとしたが、保名は好古のもとを離れた身だからといって、葛の葉と晴明を送り出して立ち返った。

保名が引き返す途中、遥か向こうに悪右衛門の姿が見えた。
たくさんの家来に長櫃を担がせて歩いてくる。
櫃を橋の真ん中に下ろさせ、慌ただしく藁人形を取り出した。家来たちは口々に、
「見たところ、風の神送りの藁人形。流行病があるわけでもないのに、旦那様はこれで何をなさるのですか」

風の神送りの藁人形は流行病が蔓延した時に、疫神の藁人形を作って太鼓ではやし、川へ流す風習があった。

「詳細を言わねば納得出来ないだろう。これは日頃から気がかりに思う六の君に使うものだ。以前も呪詛で呼びたしたが、肝心なところでしくじった。それゆえ今度は用心深く仕掛けて、六の君が御所にいるままの状態で殺すつもりだ。敵方と通じている道満に頼んではかえって邪魔になる。これを見よ、四十四本の釘を打ち、呪詛の言葉を書き付け、この川へ投げ入れる。これ家来共、そこらに非人はおらぬか」

四十四本の釘は、人体を構成する骨の関節が四十四本あるという説による。

非人の姿は見えなかったので、悪右衛門が藁人形を投げ入れようとしたその時、保名が飛んで出てきた。

前後の家来を投げ飛ばし、藁人形をもぎ取った。
「聞いた聞いた、残らず聞いた、悪事の企み。もう逃げられないぞ、覚悟せよ」
「おお、これを露顕されては困る。それ、家来共逃すな」と打ってかかり、
斬り合いの末、運の尽きか保名は橋板の継ぎ目につまずいてよろめいた。そこへ家来たちが切ってかかり、保名は息絶えてしまった。

「ははあ、保名はくたばった」
「この後の難儀はどうなさる」
「この櫃に保名の死骸と藁人形を入れて川に沈めよう」
悪右衛門と家来たちは櫃に厳重に封を付け、川に投げ入れた。
悪右衛門は「さあ、終わった終わった。ものども、来たれ」と家来を引き連れて帰っていった。

大内の段

天候も穏やかに宮中も平穏で、内裏で宴が開かれた。

桜木親王が褥に座ると、続いて左大将橘の元方、参議小野好古が控えた。
好古は葛の葉親子を御階に召し連れて、
「安倍保名の倅晴明は今年八歳になりまだ幼いと申せども、陰陽道に通じているので、都に住まわせて芦屋道満とともに天体に異常がある時奏聞してもらえば、御代は長久の基となるでしょう」と奏上した。
これを聞いた左大将は、
「これこれ、好古。その保名とは賀茂保憲の末弟で陰陽道には未熟なうつけ者。先年都を離れ行方をくらました。その最中に設けた晴明とやらはまだ幼い子供。陰陽道に通じているとはおかしなことを言う。天下に並ぶ者のない芦屋道満がいるのだから、晴明は必要ない。退参せよ」
これを聞いて耐えかねた葛の葉は、
「幼いからといって侮らないでください。唐の陸雲は六才で文書に通じた例もありますから、一概には言えません。それに、なんですか小さいものをやりこめて、阿呆らしい」と言葉もずけずけと遠慮なく、顔も上気してきた。

「鈴振りがよく喋る。元方に向かって無礼千万。あれを引っ立てよ」よ命令すると、親王がお鎮めになった。
「元方の言葉は一理あるとは言えども、好古の心を無下にはできない。幼き晴明の陰陽術を実際に見たら、彼らの願いに任せよう」とのお言葉。

そこへ左近太郎が長櫃を御前に持ってきて、
「近郷の百姓たちが一条の辺りでこの櫃を拾いました。中を見るのも憚られるので、上覧に備え奉る」と訴えると諸卿も怪しんだ。胸に覚えのある元方は、
「左近、見苦しいぞ。雑物大内の穢れを持って立て」と苛立つと、親王がそれを留めた。
「道満と晴明に櫃の中身を当てさせよう」
元方は力及ばず、
「こりゃ、小僧。もしお前が仕損じたら島流しになるぞ」と勝手なことを言う。

まず、道満が櫃の中身を占った。
「この中には二人の体がある。一人は仮に形を設けたもの。もう一人は、三十余りの男が刃にかかって死んだもの」
晴明も櫃の中を占ったが、道満の占いと一致したので心の中で悔しがる。
晴明はしばらく考え、男の方はまだ死んでいないと言った。
これに対し道満と葛の葉は両方の考えが一致しても恥ではないと再考を促す。

滝口所で話を聞いていた悪右衛門が現れ、
「陰陽道に通じた者が言い直しをしてはならぬ。もし櫃の蓋を開けて死骸が出てきたらただではすまぬぞ」
晴明は悪右衛門が嘲るのを耳にもかけず、幣帛を取って礼拝し、
「南無大聖文殊薩埵。一度結んだ縁を違えず。力を貸し給え」と生活続命の秘文を唱えた。

晴明蘇生の折

東西より数多の烏が飛んできて、櫃の上に集まった。
烏たちはしばらく飛び回った後、喜びの鳴き声をあげて四方に飛び去った。

晴明は虚空に礼拝し、
「疑いもなき蘇生のしるし。さあ、蓋を開かれよ」
晴明に恥をかかせてやろうとした悪右衛門が櫃の蓋を打ち砕くと、安倍保名がにょっと出てきて、悪右衛門の髪束を掴んで投げ飛ばした。
「左大将と手を組んで六の君を殺そうとしたお方々、もう逃げられないぞ」
一部始終を聞いた左近太郎が左大将を投げ飛ばすと、道満が押し留めて
「罪人ではありますが御息所の父親なので、命だけはお助けください」と願い出る。
桜木親王は道満の願いを聞き入れて左大将を流罪、悪右衛門は保名親子に任せることにした。
保名は悪右衛門を斬り、晴明は親王から官位を授かった。
晴明は道満とともに天下の陰陽師となり、末代まで語り継がれた。