鎌倉時代

奥州合戦

奥州征伐の準備

義経追討期から奥州征伐は準備されていた

2月9日、頼朝は南九州の島津忠久へ島津荘官のうち武術に長けたものを奥州に動員するよう命じた。

下す 嶋津庄地頭忠久

早く庄官を召し進らしむべき事
右、件の庄官の中、武器に足るの輩は、兵杖を帯び、来たる七月十日以前に、関東に参着すべきなり。
且つ見参に入らんがため、各忠節を存ずべきの状件の如し。

文治五年二月九日

(文治五年二月九日「源頼朝下文」〈島津家文書、『鎌倉遣文』〉)

このことから、朝廷に申請する以前の2月9日時点で頼朝は諸国の有力御家人に軍勢を促している。
それは南九州の島津忠久にまで及ぶ全国規模の動員であり、奥州征伐を七月中旬に計画していたようだ。

かつての謀反人も参戦

『吾妻鏡』文治五年(1189)6月27日条によると、すでに一千もの軍勢が鎌倉に集まっており、和田義盛と梶原景時が奉行を務め名簿を作成している。

『吾妻鏡』によると、北陸道最大の平氏方武士で景時に身柄を預けられていた城長茂や平時房の子で安達盛長に預けられていた筑前房良心が奥州征伐へ参戦している。

また、『古今著聞集』によれば、文治元年(1185)末に義経逃亡を見逃した罪で景時に身柄を預けられていた摂津国渡辺党の源つがうもまた鎌倉に呼び出され、鎧・馬・鞍などを与えられたという。

奥州合戦

朝廷から泰衡追討の宣旨を得られない

源義経が討たれたという知らせを聞いた朝廷は、もう泰衡の責任を問う必要はないと判断した。
だが、奥州の藤原泰衡が義経を匿っていた罪は、もはや反逆に勝るものであった。
頼朝は義経を匿う泰衡の追討を朝廷に奏請し、全国の武士を動員した。
泰衡は義経の首を頼朝に届けたが、なおも頼朝は泰衡追討の宣旨を下すように朝廷に要求した。
すでに義経は誅殺されているため朝廷は宣旨を下すことに消極的だった。
『吾妻鏡』文治五年(1189)6月30日条には次のように記されている。

大庭景能は武家の古老として、兵法の習わしをよく知っていた。
そこで頼朝が景能に奥州征伐のことを相談したところ、
『軍陣中では将軍の命令を聞き、天子の詔は聞かない』といいます。すでに奏聞されたのですから、無理に返答を待つ必要はございません。
そもそも藤原泰衡は先祖代々からの御家人の家を受け継ぐ者ですから、許可を得られなくとも処罰してよいのです。
鎌倉に集まっている軍勢が何日も留まっていると、かえって負担となります。速やかに出兵なさいませ」

ここで大庭景能は『史記』の「軍中聞将軍令、不聞天子之詔(軍陣中では将軍の命令に従い、天子の言うことは聞かなくてもいい)」という言葉を引用し、朝廷の許可を得る必要はないとして奥州征伐を勧めている。

頼朝は感心して、御廐の馬に鞍を置いて景能に与えたという。

なぜ朝廷の意向を無視したのか

この文治五年(1189)から建久元年(1190)11月に頼朝が上洛するまでの期間は、朝廷との関係が穏やかになっていった段階で頼朝の朝廷に対する従属性が如実になってくる時期でもあった。

奥州征伐の準備

泰衡を討伐することになったので、頼朝は千葉常胤に旗を作って進上するよう命じた。

一方、朝廷ではこのことについて何度も議論がなされ、「関東の憤りは無視できないが、義経はすでに誅されたのである。今年は伊勢大神宮の造営で上棟があり、東大寺の造営も重なって大変なのだから、追討の儀は猶予せよ」という藤原兼実からの御教書が献じられようとしていた。

7月17日奥州出兵の手配が行われ、軍勢を大手軍・東海道軍・北陸道軍の三手に分けることとなった。
まず、東海道の大将軍は千葉常胤と八田知家で、各々の一族や常陸・下総両国の武士たちを率いて宇太・行方を経由して岩城・岩崎を回り、阿武隈川を渡って合流する。
次に北陸道の大将軍は比企能員・宇佐美実政らで、上野国高山・小林・大胡・佐貫などの武士たちを率いて越後国から出羽国念珠ヶ関に出て合戦する。
頼朝は大手軍の大将軍として中路から奥州に向かい、畠山重忠が先陣を務める。
頼朝が自ら先陣に立ったのは、治承四年(1180)の挙兵以来であった。

朝廷の許可が出ないまま鎌倉を出発

7月19日に出発し、かくして頼朝の本隊千騎は、26日にかつては頼朝に敵対した佐竹秀義の軍勢を合流させ、宇都宮・新渡戸を通過して29日に白河関を越えた。

泰衡は本営を国見宿に置き、阿津賀志山に城壁を築いて五丈ほどの堀を掘って阿武隈川の水を引き込み、異母兄の藤原国衡が指揮を取った。
だが、8月7日頼朝の本隊が阿津賀志山の傍の国見宿に到り、泰衡の堀を畠山重忠率いる80人の人夫によって埋めた。

8日矢合わせが始まり9〜10日に合戦が行われ、泰衡軍は敗北し、藤原国衡は敗走したが、和田義盛らに討ち取られている。
泰衡も逃亡していたので、頼朝は奥州藤原氏の本拠地である平泉へ侵攻することを決めた。
8月20日戌の刻、頼朝は北条時政・三浦義連・和田義盛・相馬師常らに廻文を送り、平泉へ二万騎の軍勢を従えて侵攻するよう命じている。

この下知を違えず、静かに寄すべし。二十一日に平泉へつかむということあるべからず。
……かまえて、勢二万騎をまかりそろうべし。案内さとも申せばとて、危なきことすべからず。
いかさまにも、物騒がしく、こころこころにはすることあるべからず。

文治五年八月二十日「源頼朝書状」〈薩摩旧記雑録巻一、『鎌倉遣文』一―四〇二〉

奥州平泉へ侵攻

8月22日、頼朝軍は平泉に入城したが、平泉館は泰衡が敗走前に火を放って逃亡した後だったので、頼朝が到着した時には灰燼に帰していた。

しばらく留まった後、9月2日には泰衡を追って岩手郡厨川に向かって北上した。

そして9月6日、家人河田次郎の裏切りによって討ち取られた泰衡の首が頼朝軍の宿所に届き、9日には朝廷から事後承諾の形式で泰衡追討の宣旨も届けられることとなった。
だが、頼朝は「主君を裏切り梟首したことは八逆の罪にあたり恩賞を与えるのは難しい」として、斬罪に処したという。

頼朝が模倣しようとした『前九年の戦い』

頼朝は奥州合戦に自ら出陣し、前九年の役を模倣することで自身を源頼義の正当な後継者と位置づけ、ただ独りの武家の棟梁としての地位と権威を確立しようとした。
奥州合戦は頼朝の政治的演出であったとさえいわれている。

河内源氏が勢力を伸ばした先例に倣う

文治五年(1189)7月8日、頼朝は千葉常胤に先祖・源頼義の旗の寸法に合わせた旗を調達するよう命じた。

千葉常胤が新調の旗を頼朝に献上した。
旗の長さは源頼義が前九年の合戦で使用した寸法と同じで、一丈二尺の布二幅であった。
また白糸の縫物で上には「伊勢大神宮・八幡大菩薩」とあり、下には向かい合った二羽の鳩が縫われていたという。
これは奥州追討のためである。

合戦は終結したかのように見えたが、頼朝はなぜか11日に全軍を率いて厨川まで北上している。
厨川には八日間滞在し、藤原勢の残党捜索や陸奥国・出羽国の所領調査を行った後、18日には権中納言吉田経房に奥州合戦の終結を告げる手紙を出した。
19日には厨川を南下し、20日には胆沢郡鎮守府故地にて奥州合戦後の吉書始と論功行賞を行い、平泉に滞在して無量光院や衣川の安倍頼時の遺跡を見学した後、鎌倉へ戻った。

『吾妻鏡』文治五年(1189)9月2日条はその理由について次のように記している。

頼朝は平泉を出発し、岩井郡厨川の辺りに赴かれた。
これは藤原泰衡が隠れ住んでいる場所を探すためである。
また、頼朝の祖先である鎮守府将軍源頼義が朝敵安倍貞任を追討に向かった頃、12年もの間勝負が決まらず年月を過ごしていたところを、ついにこの厨川柵にて貞任らの首を得た。
この昔の吉例にならって、ここで泰衡を討ちその首を得ようと前々から考えていたのだという。

前九年の戦いとは、頼朝の祖先にあたる源頼義・源義家親子が安倍氏を討ち、源氏の武名を世に知らしめた戦いである。
前九年の合戦の経過を伝える『陸奥話記』の記述と『吾妻鏡』の奥州合戦関連の記述を比べると、軍機の仕様・泰衡の梟首の仕方・合戦終結の日付などの点で類似点がある。
この合戦は河内源氏の勢力が飛躍的に拡大するきっかけとなった重要な戦いであり、頼朝はこの先例に倣おうと決めていたと考えられる。

『源太が産衣』と『髭切』

源太が産衣うぶぎぬと髭切は源氏重代の武具の中でもとくに秘蔵の重宝であり、それを着用した頼朝は源氏嫡流の地位を示していた。

源太が産衣は源義家が二歳の時の院の見参に纏わる話であり、義家の幼名である”源太”の名が冠せられている。
『古活字本平治物語』巻上「源氏勢汰への事」には、平治元年(1159)12月の平治の乱のときに、当時13歳の頼朝が紺の直垂に源太が産衣という鎧を着て、星白のかぶとの緒を締め、髭切の太刀を帯したと記されている。
髭切は前九年の戦いで義家が捕縛した敵兵の首を打つのに用いられたとされるものであり、共に義家に由来する。

合戦後の処理も模倣

前九年の役のとき、鎮守府将軍だった源頼義は横山野大夫経兼に安倍貞任の梟首を命じ、経兼は門客の貞兼に貞任の首を受け取らせ、郎従惟仲に貞任の首を懸けさせ、長さ八寸(約24センチメートル)の鉄の釘で打ち付けた。
この例に倣い、頼朝は経兼の曽孫にあたる権守時広に泰衡の梟首を命じ、時広は息子時兼に梶原景時から泰衡の首を受け取らせ、郎従惟仲の後胤七太広綱に首を懸けさせ、先例と同じように釘で打ち付けた。

前九年の役 奥州合戦
源頼義が小野姓横山氏の経兼に安倍貞任の梟首を命じる 源頼朝が小野姓横山氏の時広に藤原泰衡の梟首を命じる
経兼が門客の貞兼に貞任の首を受け取らせる 時広が息子の時兼に梶原景時から泰衡の首を受け取らせる
郎従惟仲に首を懸けさせ、長さ八寸の鉄の釘で打ち付ける 七太広綱に首を懸けさせ、前九年の役と同じ長さの鉄の釘で打ち付ける

奥州合戦のポイント

奥州合戦のポイント
  1. 挙兵以来戦場に立たなかった頼朝が自ら出陣している
  2. 奥州(東北)地方の合戦にもかかわらず、全国各地から武士を動員している
  3. 奥州合戦に参戦しなかった有力御家人は所領を没収されている
  4. かつての平氏や敵方であった武士がこの合戦で許され、鎌倉方として参戦している
  5. 鎌倉を出発する前に、和田義盛・梶原景時に名簿を作成させている

挙兵以来戦場に立たなかった頼朝が自ら出陣している

御家人体制を明確化させるため

源頼朝が自ら合戦に出陣したのは、治承・寿永の乱における石橋山の戦い以来である。
奥州合戦で内乱を終息させることによって、主従制を鎌倉殿のもとに明確化するという御家人体制を構築していく政治が、合戦の形態をとって始まったのである。

全国支配の達成をかたちとして示すため

当時の日本の境界は東が外ヶ浜(現・青森県外ヶ浜町)、西が小値賀島(現・長崎県小値賀町)、南が鬼界島(現・鹿児島県奄美大島近辺)、北が佐渡島と考えられていた。
このうち、南の鬼界島は文治四年(1188)に義経一行追討を名目として宇都宮信房と天野遠景が渡海し制圧している。
だが、この時義経が平泉に匿われていることは知れ渡っていたので、義経追討ではなく日本の南の境界を制圧することが目的だったと思われる。

義経の叛逆を頼朝は全国制覇に利用し、その最後の舞台として奥州を攻め落とすことによって全国支配の達成をかたちに示したのである。

奥州(東北)地方の合戦にもかかわらず、全国各地から武士を動員している

治承・寿永の乱で全国から参戦した武士たちを再び集め、頼朝自らそれを率いることに大きな目的があったと考えられる。

奥州合戦の軍勢

泰衡の軍勢は2万騎といわれている。
頼朝軍は総勢28万余騎と伝えられているが、実際には3〜4万騎ともいわれ、実際の軍勢ははっきりとしない。

なぜ泰衡は敗北したのか

源義経を討ち取る前、藤原秀衡の息子である頼衡と忠衡がいずれも義経の処遇をめぐって泰衡に討たれている。
平泉内部では分裂状況にあり、それが総力を挙げて頼朝と戦う体制を取りにくくしたとも考えられる。

頼朝の全国支配に向けて

11月頼朝は大江広元を京都に派遣して泰衡追討の恩賞を辞退し、12月にも重ねて辞退する一方で、陸奥・出羽両国の管領を要求する。

朝廷の反応

朝廷の貴族たちは奥州合戦についてほとんど無関心だった。
九条兼実は奥州合戦における頼朝の勝利について「天下の慶びなり」と記すのみで、『百錬抄』も頼朝がたった数日で合戦に勝利したことに対し「兵謀の至り、古今無類のものか」という賛辞を載せただけだった。

『吾妻鏡』における奥州合戦の記述

軍記物語のような叙述形式

『吾妻鏡』では異なる場所、異なる時間に起こった合戦をさも同時に行われたかのように記しており、超常現象を織り込んで神仏の加護によって勝利したようにも思わせている。

合戦の前後に願成就院建立の記事を挿入

願成就院は文治二年(1186)に建立されているが、『吾妻鏡』文治五年(1189)6月6日条において、願成就院は奥州征伐での勝利を祈るために北条時政が事始・立柱上棟・供養を行ったと記されている。
また、12月9日条では願成就院の北畔から掘り出された古い額になぜか「願成就院」という文字が記されていたという。

なお、奥州征伐で北条氏が活躍した形跡はない。

参考資料

  • 川合 康「源平合戦の虚像を剥ぐ 治承・寿永内乱史研究」講談社、2010年
  • 坂井 孝一「源氏将軍断絶 なぜ頼朝の血は三代で途絶えたか」PHP研究所、2020年
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やみみん

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