角色 資料室

閻魔大王に冥官として仕えた小野篁

小野たかむらは平安時代初期の文人・詩人・歌人。延暦二十一年(802)~仁寿二年(853)。小野妹子の子孫。安倍晴明より約100年前に生きていた。
昼は朝廷に仕え、夜は冥界に降りて閻魔大王に仕えた。

史実における小野篁

『凌雲集』の撰者小野岑守の長男。「野宰相」「野相公」などとも呼ばれた。「野狂」と称されるほど型破りな性格で奇行の多い人物でもあった。
弘仁六年(815)、陸奥守に任命された父とともに陸奥国へ赴き武芸に励んだが、後に嵯峨天皇に諌められて学問に励むようになる。
承和元年(834)、遣唐副使に任命され、承和三年(836)と承和四年(837)の二度に渡って入唐を試みるも失敗に終わった。
承和五年(838)、篁は自分の船を大使の藤原常嗣の危険な船と取り替えられたことに憤慨して乗船を拒み、遣唐使を批判した漢詩を作ったことで嵯峨天皇の怒りにふれ、隠岐に配流となった。
二年後の承和七年(840)に篁は赦されて帰京した。

『江談抄』によると、唐の白居易は小野篁が詩に長じていると聞き、望海楼を構えて来唐を心待ちにしていたという。

和歌の名手でもあり、『古今和歌集』などの勅撰和歌集にも入集している。
篁が隠岐に流される時に詠んだ和歌「わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ あまのつり船(大海原へたくさんの島々を目指して漕ぎ出していったと都の人々に告げてくれ、漁師の釣り船よ)」は『小倉百人一首』に収録されている。

小野篁と冥界

小野篁は当時中納言中将であった高藤卿と朱雀門の前で百鬼夜行に遭遇したことがある。また、小野篁が左中弁のとき、高藤の父冬嗣の家を訪れている間に、高藤が急死した。小野篁はすぐに高藤の手をとって引き起こし、蘇生した。その間、閻魔庁に至った高藤は小野篁が冥界の第二冥官であることを知った。(『江談抄』)

小野篁は延暦二十一壬午生まれで、本命星は破軍星である。本命属星信仰によると、破軍星に垂迹する者は現世と冥界を往還できるという。

小野篁は延暦二十一年(802)~仁寿二年(853)。高藤は寛平九年(897)~昌泰二年(899)。高藤は中納言になったが、中将にはなっていない。

また、小野篁が学生だったとき、朝廷に罪を問われたことがあったが、西三条大臣良相(藤原良相)が宰相として取りなし、小野篁のために良いことを言った。篁は心の中で感謝した。年月が過ぎて篁は宰相になり、良相も右大臣になった。
その後、良相は重病を患い亡くなった。良相は閻魔王の使者に連れられて閻魔王宮に至り、裁きを受けることになった。その時、良相は閻魔王宮の家臣たちがいる中から小野篁の姿を目にした。「これはどういうことだ」と良相が不思議に思っていると、小野篁は笏を取って閻魔王に「この日本の良相大臣は真っ直ぐな心を持ち、人のために良きことをする人です。此度の罪は私に免じていただけないでしょうか」と申し上げた。閻魔王はそれを聞いて、極めて難しいことだが小野のいうことならば仕方がないと言って、大臣の罪を免じた。
それから、小野篁に「速やかにお返りください」と言われて、大臣は生き返った。その後、大臣の病は快方に向かい、月日が流れた。大臣は冥途であったことを極めて不思議に思ったが、人に話すことはなかった。小野篁に尋ねることもなかった。
ある時、良相は小野篁と二人きりになり、冥途での出来事について尋ねた。「なかなか機会がなくて聞けなかったのだが、かの冥途であったことは未だに忘れがたい。あれは、一体どういうことなのだ」と言うのを聞いて、小野篁は少し頬を赤らめて「先年のご恩に報いるため、閻魔王に申し上げたのです。ですが、此のことは口外してはなりませぬ。まだ、誰にも教えてないのですから」と言った。
良相はこれを聞いて「篁はただ人ではなかった。閻魔王宮に仕えていたのだ」と言った。
それから、このことは自ずと世間に知れ渡り「篁は閻魔王宮の冥官として通っていたのだ」と人々は恐れおののいたという。(『今昔物語集』巻二十第四十五話 小野篁依情助西三条大臣語)

紫式部は『源氏物語』において愛欲を描いた罪で地獄に落とされたが、小野篁が閻魔大王にとりなしたという。

冥界への入口・六道珍皇寺

地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道から成る六つの冥界と現世をつなぐ境目となる場所。
謡曲『熊野』では「愛宕の寺も打ち過ぎぬ 六道の辻とかや 実に恐ろしやこの道は 冥途に通ふなるものを 心ぼそ鳥辺山 煙の末も うす霞む」といわれている。
夜になると、小野篁はこの井戸から地獄におり、閻魔大王のもとで仕事をしていたという。

その他の逸話

嵯峨天皇の御代、内裏に「無悪善」と書かれた札があり、天皇は篁に「読め」と命じた。篁は「読むことはお読みしますが、恐れ多く申し上げることはできませぬ」と奏上した。しかし、天皇が「いいから読め」と仰せられたので、篁は読んだ。「『さがなくてよからん(嵯峨なくて良からん)』と書かれておりますぞ。君を呪っているのです」と篁が申すと、天皇は「お前が書いたのだろう」と仰せられたので、篁は「ですから、申し上げられぬと申したのです」と申した。天皇が「ならば、書いてあるものは何でも読めるのか」と仰せられると、篁は「何でもお読みいたしましょう」と申した。すると、天皇は片仮名の子の文字を十二個お書きになり「読め」と仰せられた。篁は「猫の子の子猫、獅子の子の子獅子」と読んだので、天皇は微笑みになって篁は何のお咎めもなく済んだ。(『宇治拾遺物語』巻三-十七)

「子」には「ね」「し」「こ」の読み方がある。篁は十二個の子の字「子子子子子子子子子子子子」を「ねこのこのこねこ、ししのこのこじし」と読んだ。

なお、『江談抄』第三-四十二にも類似の説話が収録されているが、天皇が篁に読ませたのは十二個の子ではなく「一伏三仰不来待書暗降雨慕漏寝」である。この時、篁は「月夜には来ぬ人待たるかきくもり雨も降らなむ恋ひつつも寝ん」と呼んでいる。

また、『江談抄』第四-五では、嵯峨天皇が御所に秘蔵されていた白氏文集の詩を改変して篁に見せたところ、篁は『遥』の字を以て『空』と為せばもっとよくなるだろうと奏上した。天皇は大いに驚き「これは白居易の詩である。お主を試したのだ。元は『空』という字だ。今、お主の詩情は白居易と同じだ」と仰ったという。

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