陰陽道 平安時代 初心者の館

陰陽寮の仕事内容と人員構成

陰陽寮とは、中国から伝わった天文や暦、陰陽五行を用いて吉凶を占う役所である。
大宝元年(701)に大宝律令が制定されたことにより、唐の太史局(暦・天文・漏刻を取り扱う)と太卜署(卜占・方術を取り扱う)の組織が合併して陰陽寮となり、天皇の秘書的な役割を担う中務省の管轄下に配置された。

以下は、『職員令』より。

陰陽頭1人
陰陽助1人
陰陽允1人
陰陽大属1人
陰陽少属1人
陰陽博士1人
陰陽生10人
暦博士1人
暦生10人
天文博士1人
天文生10人
漏刻博士2人
守辰丁20人
陰陽師6人
使部20人
直丁3人
合計89人

陰陽寮の学生

学生は陰陽生10人、暦生10人、天文生10人の計30人。
得業生(特待生)は陰陽生3人、暦生2人、天文生2人の計7人。(『延喜式』)

六位から八位の官人の嫡子で、21歳以上で官職に就いていない者は能力によって上・中・下に分けられる。
上は大舎人、中は兵衛、下は使部に配属される。

大舎人は、内舎人(四~五位の子孫から選ばれる)の選抜に漏れた者がなる場合もある。

直丁(じきちょう)は、役所内の雑用を担当する。

得業生

天平二年(730)3月27日、太政官が以下のように申し上げた。
「陰陽医術及七曜頒暦等類、国家要道、不得廃闕。但見諸博士、年歯衰老。若不教授、恐致絶業。(陰陽・医術及び七曜・頒暦などは国家において重要な学問です。これらの学問が廃れたり、欠けたりするようなことがあってはなりません。ただ、諸博士を見ると高齢で老衰しております。もし教授しなければ、おそらく学業は絶えてしまうでしょう。)」(『続日本紀』)

得業生とは

得業生は成績優秀な生徒が選ばれる。後継者の育成が目的。

陰陽寮の諸々の生徒は、医生の制度に準じることになっている。成業年限及び束脩の礼(入門の謝礼として、先生へ束ねた干し肉を贈る)は大学生の制度に準じる。(『養老令』-取諸生条)

医生の制度

  • 三代以上に渡り医業を受け継いでいる家の者から採用される。次に、13歳以上16歳以下で聡明な者を採用する。(『養老令』-医生等取薬部及世習条)
  • 医針生の場合、9年以上学生の身分でいながら修了できない者に関しては、退学させて元の身分に戻す。(『養老令』-医針生考試条)
  • 個人で医療を学習し、医術を習得した者がいた場合は典薬寮に知らせる。試験に合格した場合は、考試を受けることができる。(『養老令』-自学習解医療条)
  • 医師の場合、生徒の履修期限は典薬寮に準じる。(『養老令』-国医師条)
  • 医生は毎月試験を受けることになっている。年末にも試験がある。不合格だと罰せられる場合がある。先生の教えに従わなかったり、学業がうまくいかない場合は退学になる。(『養老令』-国医生試条)

大学生の制度

  • 基本的には、五位以上の子孫及び東西の史部の子が採用される。ただし、八位以上の子でも熱心に志願してきた者であれば許可してもよい。13歳以上16歳以下で聡令な者を採用する。(『養老令』-大学生条)
  • 休暇申請をするときは、大学生の場合は頭に報告する。牒を提出して頭は判定し、休暇を与える。(『養老令』-請假条)
    ※ただし、1年以内に不正休暇が満100日になった学生は退学処分となる。(『養老令』-不得作楽条)
  • 入学後九年経過しても成業していない者は、名簿を省に送る。ただし年限を過ぎた者でも、才能の成立が近ければ留められる場合がある。(『延喜式』-大学寮)

陰陽寮の官位は、以下のようになっている。

職員官位
陰陽頭従五位下
陰陽助従六位上
陰陽博士正七位下
天文博士正七位下
陰陽允従七位上
暦博士従七位上
陰陽師従七位上
漏刻博士従七位下
陰陽大属従八位下
陰陽少属大初位上

昇殿を許されるのは従五位下の陰陽頭のみ。陰陽寮における最高位は従五位下のため、最終的に従四位まで出世した安倍晴明は異例である。

律令法における陰陽寮の役割は、式盤を使って国家や天皇の身の回りの吉凶を占うことだった。

陰陽寮は、事務職と技術職に分かれている。

事務職と技術職

陰陽寮のお仕事

陰陽寮の一年

1月1日 七耀暦の奏上、日蝕の報告(暦部門)

毎年正月一日、承明門の外で七耀御暦を奏する。(『延喜式』-陰陽寮)

太陽虧(日蝕)があるときは、暦博士が正月一日に寮に申し送る。(『延喜式』-陰陽寮)

11月1日 御暦奏(暦部門)

毎年11月1日、来年の暦を中務省に申し送る。中務省は京内外の諸司に1冊ずつ支給する。(『養老令』-造暦条)

12月上旬 御薬童女ならびに依色者を奏上する

毎年12月上旬、来年の元日に御薬を供する童女ならびに依色者を御忌日とともに奏する。(『延喜式』-陰陽寮)

12月10日 翌年の御忌を進める

毎年12月10日、陰陽寮は天皇の翌年の御忌日を調べ、内侍司に進める。(『延喜式』-陰陽寮)

『延喜式』に見る陰陽寮の仕事

斎王が野の宮に入る日時を占う

斎宮が初めて斎院に入るときは、河頭祓を行ってから入る。陰陽寮は、斎王が野の宮に入る日時を選び定める。伊勢斎宮のときもこれに準拠する。弁官は院別当以下ならびに陰陽寮及び諸司を率いて、河辺に到着したらその地を定めて奏する。(『延喜式』-斎宮)

天皇の賀茂川潔斎の日時を選ぶ

践祚(譲位)後、大嘗祭がある年の10月下旬、天皇が賀茂川に臨んで潔斎を行う場合は、事前に陰陽寮が禊を行う日を勘申する。(『延喜式』)

鼓笛隊の初演の日時を勘申する

兵庫寮は太鼓や笛が得意な者を招集し、10月から翌年2月までに演奏の教習を行う。最初に演奏する日は太政官に申請し、太政官が陰陽寮に日程を勘申させる。その後、少納言が奏上する。教習が終わったら、右弁一人、史一人、兵部輔・丞・録各一人が兵庫寮において実技試験を行う。(『延喜式』-太政官)

諸陵に奉幣する日時を勘申する

12月に諸陵へ幣を奉るときは、陰陽寮に日時を選ばせる。(『延喜式』-中務省)

来年の御忌を報告する

毎年12月21日、陰陽寮は来年の御忌を申し上げる。(『延喜式』)

事務職

陰陽寮の事務職には「かみ(長官)」「すけ(次官)」「じょう(三等官)」「大・少さかん(四等官)」がいる。

事務職

陰陽頭

陰陽寮の長官。
天体に異変があった場合は、密かに奏聞する。

安倍家(土御門)と賀茂家(幸徳井)の者が代々引き継いでいた。

陰陽寮別当

『小右記』長元四年(1031)9月17日条:中納言が来て言ったことには「衙政に着して内印のことを行うように」という。昨日、多くの数所の別当に補任された。九ヶ所である。非常に恐れ多いことである。関白に達すべき由、頭弁に含む。故殿の天慶八年(945)十二月十六日の御記に言ったことには「下官が奏上して言ったことには『一度に数ヶ所に補任するのは、非常に恐れ多いことです』と言う。前例を調べると、すでに延喜九年(909)にある。『贈太政殿下(藤原時平)が薨じた。右大臣源卿を以てその所に兼補する。八ヶ所である。所謂、東・西・延暦寺の寺、内記・内豎所・内蔵寮・穀倉・陰陽寮である』ということだ。同九年五月六日、小臣を以て蔵人所別当とする。『宣旨はすでに下された』ということだ。かの所の雑色以下が慶賀のために来た」という。

陰陽寮の序列

『九暦』天暦四年(950)6月25日条:「明日陰陽師を召して吉日を選び申させる。先帝の御日記に言ったことには、延長三年は陰陽頭氏江一人が大臣家において勘申した。そこで、陰陽助(平野)茂樹を召して大臣家において勘申させるように(この間、陰陽頭を欠いていた)」

優先順位:陰陽頭→陰陽助

技術職

技術職

陰陽寮には専門技術の指導教官として陰陽博士・天文博士・暦博士・漏刻博士という四つの技術職がある。
彼らは学生という10人の生徒たちに専門技術を教える役目をもっている。
天平宝字元年(757)に定められた学生の教科書は、いずれも中国から伝わった専門書である。

これとは別に、陰陽師が6人いる。

博士になる者は、師と仰ぐにふさわしい人が任じられるように定められている。(『養老令』-博士助教条)
『養老令』考課令:指導が優れていて生徒が成績優秀であれば、「博士の最」として評価される。

陰陽師

定員は6人。職掌は、占筮(易の陰陽説を用いた占い)を行い、地相を選ぶことである。(『職員令』-陰陽寮条)

陰陽博士

陰陽生の教官。
職掌は、陰陽生を指導することである。陰陽生の職掌は、陰陽を習うことである。(『職員令』-陰陽寮条)

定員1人
官位正七位下
先生と生徒の関係
陰陽生の教科書

陰陽生の教科書には、『周易(易経)』『新撰陰陽書』『黄帝金匱こうていきんき』『五行大義』が定められていた。(『続日本記』天平宝字元年〈757〉11月癸未条)

暦博士

職掌は、暦の作成及び暦生の指導である。暦生の職掌は、暦を習うことである。(『職員令』-陰陽寮条)
毎年、暦(カレンダー)を作成して配る。
現代とは異なり、当時は太陰太陽暦(旧暦)を用いていたので、暦を作成するためには複雑な計算と暦法理論が必要とされた。

『養老令』考課令:月の満ち欠けを精密に計算していた者は「歴博士の最」として評価される。

貴族たちは暦に基づいて、宮廷行事の日程を決める。

先生と生徒

暦本の作成

上下巻から成る具注暦の暦本二巻を作成し、進上する。6月以前に上巻、7月以降に下巻を作成する。暦本が完成したら漆の箱に納める、11月1日に進上する。
また、七曜の暦本も作成する。
また、陰陽寮にも暦本を納める。
具注暦の暦本は8月1日、七曜の暦本は12月11日、頒暦は6月21日までに提出する。(『延喜式』)

七耀暦の奏上

官人は陰陽寮を率いて逢春門から入り、七耀御暦を進上する。輔以上一人が留まり奏進する。(『延喜式』-中務省)

御暦奏

陰陽寮が新暦を造り終えたら、11月1日に中務省へ奏進する。その頒暦は、少納言に託し大臣に給わる。大臣は弁官に伝え託し、内外の諸司に分け与える。(『延喜式』-太政官)
御暦奏の日は、陰陽允以上二人が暦博士・史生を率いて安暦函案を持ち、西門の外で待機する。西細殿の南から入る。陰陽允以上がともに案を担ぎ、殿庭に進立して退出する。主蔵寮の佑以上二人が舎人を率いて東細殿の前から出て、案を担いで退出する。すぐに暦を蔵人所に収め、案を本寮に返す。(『延喜式』)

中星暦

中星暦は八十二年に一度造進される暦である。博士が作成し陰陽寮に進上する。(『延喜式』)

暦生の教科書

暦生の教科書には、『漢書律暦志』『晋書律暦志』『大衍暦議』『九章』『六章』『周髀しゅうひ』『定天論』が定められていた。(『続日本記』天平宝字元年〈757〉11月癸未条)

天文博士

職掌は、天体を観測し異変があれば天文密奏を行う。また、天文生を指導する。天文生は天体観測について習う。(『職員令』-陰陽寮条)

安倍氏が代々受け継いでいる。
若かりし頃の晴明も天文生として星の動きを見ていた。

先生と生徒

天文密奏

  • 『延喜式』:天文博士は天変を記して、陰陽寮に進上する。陰陽頭は密封して天皇に奏聞する。天変を記した紙は署封を加えて中務省に送る。
  • 『西宮記』:天変があったら、密封して第一上卿に提出する。上卿は見終わったら元通りに封をして返却し、すぐに蔵人所に提出する。(一大臣が必ず陰陽寮別当を兼ねてこれに封を加え、天文道に勘事があったときに奏上する。大臣は蔵人にこれを取り付けて奏上する。)

天文密奏の料紙や筆、墨などはその都度申請する。(『延喜式』)

天文正権博士は天変がある毎に密奏を行う。司天がまず内覧の人のもとに参る。執柄はこれを覧る。封を加えて返す。司天はこれを給わって内裏に持参する。殿上の口において事の由を申す。蔵人がこれを取る。内侍に託す。天子がこれを覧る。(『禁秘抄』-天文密奏)

天文生たちが戌の刻(午後7~9時)と寅の刻(午前3~5時)の計2回観測を行い、異変があった場合は天文博士に報告する。観測は目視。
博士は観測結果を占い、凶と出たら天皇に密奏する。

天文生

毎晩、当番制で天文観測を行う。

禁止事項

  • 秘書・天体観測の道具・天文書は持ち出し禁止
  • 天文生は占書を閲覧してはならない
  • 天変を外部に漏らしてはならない。異変があった場合は、陰陽寮が天文密奏を行う。封をして中務省に送り、国史に記載する。(占言は記載しない。)(『養老令』-秘書玄象条)
得業生から博士まで(参考)
名前得業生(権)博士期間
安倍吉昌天禄元年(970)11月/類聚符宣抄寛和二年(986)9月/除目大成抄16年
惟宗是邦天延元年(973)/朝野群載天延元年(973)/朝野群載★-
賀茂光国天延二年(974)6月/朝野群載天延二年(974)6月/朝野群載-
安倍章親寛仁三年(1019)10月/朝野群載寛仁三年(1019)10月/朝野群載-
安倍奉親長元八年(1035)10月/朝野群載長元八年(1035)10月/除目大成抄★-
安倍親宗康平三年(1060)10月/朝野群載康平三年(1060)10月/朝野群載★-
安倍国随治暦元年(1065)12月/朝野群載治暦元年(1065)12月/朝野群載-

★=権天文博士

天文得業生の任期について、賀茂保憲の弟子竹野親当は応和二年(962)に天文得業生に任じられたが、天禄元年(970)11月に解任されている。(『類聚符宣抄』)

天文生の教科書

天文生の教科書には、『史記天官書』『漢書天文志』『晋書天文志』『三家簿讃』『韓楊要集』が定められていた。(『続日本記』天平宝字元年〈757〉11月癸未条)

漏刻博士

職掌は、守辰丁を率いて漏刻の時刻を伺うことである。守辰丁の職掌は、漏刻の時刻を伺い、時間になったら鐘鼓を打つ。(『職員令』-陰陽寮条)

漏刻博士が漏刻(水時計)で時刻を測り、守辰丁に鐘鼓を打たせる。
定員は2名。

漏刻の燈油は月の大小に従って、三月から八月まで毎晩四合、九月から二月までは毎晩五合を受ける。
漏刻の器を拭くための帛の年料を請う。三丈六尺。毎月三尺。

漏刻の鐘を打つ木には、松の木一枝を用いる。本周三尺、長さは一丈六尺。

守辰丁

時守ときもり(時の守り人)とも言う。
漏刻(水時計)を見て、鐘鼓を打って時刻の移り変わりを知らせる。

陰陽寮と規則

陰陽師と出世

毎年八月に考課が行われる。

評価功績
上上1最以上4善
上中1最以上3善 or 4善
上下1最以上2善 or 3善
中上1最以上1善 or 2善
中中1最以上 or 1善
中下職掌に滞りがない
下上感情に流され道理的でない
下中職務を怠っている
下下嘘をついたり、貪濁である

「善」を貯める

『養老令』考課令による。

  • 徳・義が高いこと
  • 清潔で慎み深いこと
  • 公平であること
  • 勤めに尽力すること

「最」を貯める

『養老令』考課令による。

  • 陰陽・天文・御卜で効験が多ければ「方術の最」とする。(「多い」の基準→10回中7回効験が得られた場合)

使部の出世

『養老令』考課令による。

評価功績
慎み深く勤務に励んだ
言われたことをしっかりやり遂げた
勤務に欠けている部分や失態があった

学生の規則

以下は、大学生の規則である。

【参考】学生の規則

  • 学生は在学中に楽曲を作ったり雑戯を行ってはならない。ただし、琴の演奏と弓術の習得は許可する。(『養老令』―不得作楽条)

職務内容

行幸

行幸(天皇のお出かけ)の際は、「属巳上」二人と陰陽師二人、漏刻博士一人、守辰丁十二人、直丁一人が同行する。その際、右兵衛陣の後ろ、右衛門の陣前に並ぶ。守辰丁の装束は紺布の衫十三領、調布袴十三腰、調布帯十三条。(『延喜式』)

御卜(御占)

軒廊の御卜や蔵人所の御卜を行う。

軒廊の御卜

軒廊は紫宸殿の東南の階下から宜陽殿までの屋根付き廊下のこと。

上卿しょうけい(儀式の執行役)が執り行い、神祇官と陰陽寮の者が占う。

上卿は職事(蔵人)を介して占いの詳細な結果を天皇に報告する。
天皇から質問があった場合、上卿は神祇官と陰陽寮に確認し天皇に報告する。

占いの結果によっては、天皇は物忌をすることもあった。
天皇が物忌をする必要があれば、職事が皆に知らせる。

官舎

太政官の北、中務省の東。

鎮守

陰陽寮の守護神で、陰陽寮官舎の中に鎮座している。

唐の律令制度とのちがい

日本の律令制度は唐の律令を参考にして作られたが、役所などの名称は唐とは異なっている。

唐では大史局が日本の陰陽寮にあたり、天文・気象・暦・漏刻を担当している。
占いは太卜署が行い、その中にいる太卜師が日本の陰陽師に相当する。

陰陽寮の廃止

明治時代になると、政府は神道を普及させるためにほかの宗教や哲学が混ざっているものを排除しようとした。
こうして明治3年(1870)、明治政府が天社神道廃止を通達したことによって陰陽寮は廃止された。
その後は天文暦道局が設立され、後に星学局という名前に変わった。

土御門家の官人陰陽師が持っていた苗字帯刀の権利も剥奪されている。

参考資料

  • 和田 英松「新訂 官職要解」講談社、1983年
  • 高平 鳴海「図解 陰陽師」新紀元社、2007年
  • 菅原 正子「占いと中世人―政治・学問・合戦」講談社、2011年
  • 斎藤 英喜「陰陽師たちの日本史」KADOKAWA、2014年
  • 山下 克明「平安時代陰陽道史研究」思文閣出版、2015年

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