陰陽道

【年表】平安時代の陰陽師たちの活動記録―冷泉天皇~花山天皇時代

冷泉天皇時代の安和二年(969)から花山天皇時代の寛和二年(986)までの陰陽師たちの活動年表を紹介します。安倍晴明の活動年表は、別頁に記載しています。安倍晴明だけではなく、たくさんの陰陽師たちが歴史の中で暗躍してきたことがわかります。

日付の記載がない項目は同日条に記載。

冷泉天皇時代

安和二年(969)

6月19日 干ばつにより御卜を行う

安和二年(969)6月19日甲午、御卜を行った。干ばつによるものである。(『日本紀略』)

6月24日 文道光が五龍祭を行う

安和二年(969)6月24日己亥、干ばつのため、権少僧都寛静が神泉苑において請雨経法を行い、陰陽博士文道光が北山において五龍祭を修した。小雨が降った。神仏の力である。(『日本紀略』)

円融天皇時代

安和二年(969)

9月15日 賀茂保憲が天文密奏を行う

安和二年(969)9月15日己未、天文博士賀茂保憲は去る14日酉の刻に太白星が南斗第四星を犯していたことについて天文密奏を行った。(『賀茂保憲勘文』)

天禄元年(970)

11月8日 安倍吉昌が天文得業生になる

天禄元年(970)11月8日丙午、安倍吉昌は賀茂保憲の推挙で天文得業生となった。(『類聚符宣抄』)

陰陽寮解曰く、正五位下行主計頭兼天文博士賀茂保憲の牒に「件の(安倍)吉昌は、聡明で勉学に勤めることを怠りません。望んで願うことは、天文得業生竹野親富が満九年になるので、替わりとして補任していただきたいです」と。陰陽寮が牒状により申し送り、中務省が解状によって申し送ること件の如し。
従二位行大納言兼皇太子傅侍従源兼明が宣する。「請求の通りにせよ」と仰せになったので、これを承った。

天禄三年(972)

5月7日 陰陽寮の勘文が奏上される

天禄三年(972)5月7日乙丑、先日、左大臣(源兼明)が陣頭において陰陽寮の勘文ならびに使者の差文を奏上させた。(『親信卿記』)

11月10日 文道光が藤原伊尹・源兼子の薨奏の日時を勘申する

背景

  • 『親信卿記』天禄三年(972)10月6日条:(前略)「後山階天皇の源氏兼子が薨逝しました。ところが、その名を明かしませんでした」という。薨奏の日を奏上させた。ただ、今日、驚いて奏上したことである。
  • 『親信卿記』同年11月1日条:酉の刻頃、太政大臣(藤原伊尹)が薨去された。

天禄三年(972)11月10日、故太政大臣(藤原伊尹)ならびに源兼子の薨奏があった。
蔵人が案内を取り、御簾を下ろした。これより前、所司を召して伝えた。主計権助(文)道光宿禰が日時を勘申した。〈「着御は当日の戌の刻。除かれるのは、来たる十二日の戌の刻」という。〉(『親信卿記』)

同年11月12日戊辰、戌の刻、錫紵を除かれた。(『親信卿記』)

12月6日 中原以忠が天文密奏を行う

天禄三年(972)12月6日壬辰、天文博士中原以忠宿禰が天文密奏を行った。その天変は、月が太白と度を同じくしていたという文であった。(『親信卿記』)

同じ日に、安倍晴明も天文密奏を行っていた。件の二人の天文密奏は、晴明は左大臣(源兼明)の封を加えていたが、以忠宿禰は自身の封を加えていた。(『親信卿記』)

12月10日 陰陽寮が河臨祭について勘文を提出する

天禄三年(972)12月10日丙申、河臨の御禊のこと〈時明丞の書。〉陰陽寮が勘文を進上した後、内蔵寮の官人を召し、その日を伝えた。(『親信卿記』)

12月11日 中原以忠が天文密奏を行う

天禄三年(972)12月11日丁酉、(中原)以忠宿禰が美濃掾同以信を差し遣わして(天文)密奏を奉らせた。すぐに申させて言ったことには「煩うところがあり、奉らせました。ただし先例ではこのようなとき、習学者を差し遣わして進上することはすでに前例があります。件の以信が宣旨を蒙りました」という。「その天変は、去る九日、月が畢を犯していました」という。「また、(安倍)晴明も同じく奏上させました」という。(『親信卿記』)

12月14日 中原以忠が天文密奏を行う

天禄三年(972)12月14日、以信が(中原)以忠宿禰の(天文)密奏を進上した。去る十一日、月が井の西反星を犯していた。(『親信卿記』)

天禄四年/天延元年(973)

5月25日 賀茂保憲が東宮の方角について勘申する

5月25日、賀茂保憲は東宮の方角について勘申した。「東宮は遊行年に当たるので、犯土は忌むべきです。東宮は内裏から巽の方角にあたりますが、巽は今年御遊年の方角です。陰陽書によると『遊年の方角に向かって、土を掘り起こしてはならない』とあります。犯土を行ってはいけません。ただし、修理においては別です」と申した。(『小右記』治安三年〈1023〉9月2日条)

天禄四年/天延元年(973)は癸酉の年。酉年の大将軍の方位は巳・午・未。大将軍のいる方位で土いじりをしてはいけない。

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天延二年(974)

2月9日 讃岐介の下向に際し、賀茂保憲が反閇を行う

2月9日の巳の刻、讃岐介の下向に際して主計頭賀茂保憲が反閇を行った。(『親信卿記』『平記』)

2月13日 陰陽寮が石清水行幸の日時を勘申する/四角祭を奉仕する/賀茂保憲が河臨祓を奉仕する

天延二年(974)2月13日壬辰、陰陽寮は石清水行幸を行う吉日吉時を勘申した。(『親信卿記』)

左衛門督源朝臣延光 右大弁藤原朝臣為輔
左中弁同佐理 主計頭賀茂保憲
外記賀茂保章 史大春日良辰
日時は来たる22日卯の刻。奏覧の後返し給う。しかし、件の22日は御物忌にあたる。諸卿が話し合い、他の日を勘申しなおすことになった。秋の時節を撰び申した。8月7日・8日となった。公卿は退出した。

この日は、いろいろな場所で御祭・祓が行われた。
東河において、賀茂保憲が河臨祓を奉仕した。藤原典雅が使者であった。
北野において、文道光が火災祭を奉仕した。
陰陽寮が四角祭を奉仕した。(『親信卿記』)

同年8月3日、左衛門督(源延光)が仰せを奉り、石清水行幸の延引により奉幣を行う(欠字)、行幸を行う日時を勘申させた。そのまま僕(平親信)に託し、奏聞させた。(『親信卿記』)
同年8月7日、石清水行幸の延引により、幣帛を奉られた。(『親信卿記』)

5月13日 賀茂保憲が大乗院を点地する日時を勘申する

天延二年(974)5月13日庚申、賀茂保憲は大乗院を点地する日時を勘申した。(『平記』『親信卿記』)

この日、右大将藤原兼家は左衛門佐を介して曰く「比叡山に御願寺大乗院を点地すべきことは、先日藤原典雅がこれを承ったが、障りを申して動かない。平親信が罷り登るべきだ」と言った。親信は仰せを奉り、事の次第を案内した。賀茂保憲が大乗院を点地する日を勘申し、ともに登ることになった。内蔵寮が饗事を設けた。山の上に大乗院を建立し、十人の禅師を安置すべきところ、未だに院が建立されていなかった。晩に及んだので、親信は保憲の邸宅に向かって翌日のことを案内した。(『親信卿記』)

5月14日 賀茂保憲が都から大乗院を点地する場所へ赴く

天延二年(974)5月14日辛酉の早朝、平親信一行は都を出発して東坂から登った。主計頭賀茂保憲は子や姪等を連れて行った。安倍晴明もその中にいた。勘解由長官の所領の錦宅に到着した。保憲は小さな破子を持ってきていた。次いで、坂本に到着した。一人の僧が出迎えてきた。次いで、中山に到着した。律師長勇・大乗院別当清胤らが出迎えに来た。ともに東中山を見物した。次いで、西中山を見物した。次いで、南中山を見物した。次いで、長寿庵を見物した。そして故阿闍梨の房に至り、もてなされた。普段、このような時は衣冠を着用するものだが、この日は見る場所がとても多く、束帯すべきではない。不便である。この説は、保憲が説いたものである。ただし鎮めるときは、必ず束帯を着用する。また、先例では点地の際も束帯を着用していた。酉の刻に山を下り、大津政所に到着した。夜になって、平親信は帰京した。しかし、保憲は暇をもらって坂本の辺りに留まった。(『親信卿記』)

賀茂保憲らとともに、安倍晴明も同行したという。(『平記』『親信卿記』)

5月16日 賀茂保憲の大乗院点地についての勘文が奏上される

5月16日、賀茂保憲が大乗院点地の候補地を占った勘文が奏上された。

勘文曰く「東中山は不吉、西中山も不吉、南中山も不吉である。北道に改めるべきだが、長寿庵も不吉」であった。(『親信卿記』)

8月10日 賀茂保憲が宮の庁の方角について勘申する

8月10日、賀茂保憲は「今年、宮の庁は忌むべき方角にあたります。犯土・造作を行ってはいけません」と申した。(『小右記』治安三年〈1023〉9月2日条)

11月18日 賀茂保憲が従四位に叙されるも、光栄に譲る

11月18日、叙位があった。朔旦冬至によるものである。(『日本紀略』)
造暦宣旨の勤賞として賀茂保憲は従四位に叙されたが、賀茂光栄に譲った。(『大日本史料』)

12月15日 賀茂保憲が物忌の覆推を行う

12月15日、賀茂保憲は物忌の覆推を行った。(『親信卿記』)

二十口の僧を請い、清涼殿において仁王経を転読させた。今日と明日は御物忌である。しかし、僧たちの請書を放つのが遅かったことにより、参入した者は少ない。よって昨日、賀茂保憲を召して覆推させた。勘申して曰く「外の人が参るべきです」と。源伊陟が事の由を大相府藤原兼通に申した。兼通は「僧及び上卿を召すように」と仰せられた。よって、上卿・侍臣を召した。午の刻、蔵人、鐘を打たせた。その後、僧侶の人数は少なく、早くに参上してこなかった。酉の刻、僧五口が参入した。出居右近衛中将源時中・少将藤原致忠・藤原理兼が着座した。上卿が参上した。右大将藤原兼家・左衛門督・民部卿藤原文範・左兵衛督藤原住済時・左大弁源保光・修理大夫源惟正である。僧侶が参上した。御導師、寛静である。(『親信卿記』)

天延三年(975)

4月14日 陰陽寮が神祇官とともに賀茂祭実施の可否を占う

天延三年(975)4月14日丙辰、内裏において微かな穢れがあったので、陰陽寮は神祇官とともに賀茂祭を行うか否か占った。→実施することになった。(『日本紀略』)

同年4月19日辛酉、賀茂祭があった。(『日本紀略』)

6月23日 陰陽寮が翌月の朔日に日食が起こる旨を奏上する

天延三年(975)6月23日甲子、陰陽寮は7月1日に日食が起こる旨を奏上した。(『朝野群載』)

同年7月1日辛未、日食があった。(『日本紀略』)

6月26日 中原以忠が天変勘文を進上する

天延三年(975)6月26日丁卯、主税頭中原以忠が天変勘文を進上した。(『諸道勘文』)

天延四年/貞元元年(976)

5月14日 陰陽寮が造営・遷宮の日時を勘申する

背景

『日本紀略』天延四年(976)5月11日条:子の刻、内裏で火災があった。

5月14日庚辰、陰陽寮は造営・遷宮の日時を勘申した。(5月11日に内裏焼亡があったことによる)(『日本紀略』)

同年7月26日辛卯、造営事始であった。(『日本紀略』)

5月20日 陰陽寮が神祇官とともに内裏焼亡について占う

5月20日丙戌、陰陽寮は神祇官とともに11日に起こった内裏焼亡の吉凶を占った。(『日本紀略』)

貞元二年(977)

2月22日 賀茂保憲 没

2月22日癸丑、天文博士従四位下賀茂保憲が没した。(『賀茂保憲女集』『尊卑分脈』など)

天元四年(981)

12月30日 追儺

天元四年(981)12月30日、追儺があった。(『小記目録』)

天元五年(982)

2月4日 陰陽師が円融天皇の足病を占う

天元五年(982)2月4日、円融天皇は前年の晦日に足を痛めたが、痛みが治まらないため陰陽師を召して占わせることにした。また、医者も呼ぶことにした。
→穢気が充満しているとのことだった。(『小右記』)

3月5日 賀茂光栄が立后の日時を勘申する

3月5日夜、賀茂光栄は藤原遵子立后の日時を勘申した。3月11日癸卯の酉二刻となった。実際に、11日に立后が行われた。(『小右記』)

『小右記』同年3月11日条:今日、女御従四位上藤原遵子を皇后に立てた。

4月12日 県奉平が鬼気祭を修する

天元五年(982)4月12日癸酉、(藤原実資は)陰陽師(県)奉平に鬼気祭を修させた。(『小右記』)

4月15日 「陰陽師」が中宮の入内日を勘申する

天元五年(982)4月15日丙子、午後、(藤原実資は)殿に参った。右大将(藤原済時)が参られた。中宮が内裏にお入りになることについて定められた。
「来たる十九日にお入りになることについては、すでに定めた。しかし、賀茂祭の日程が近くにある。そこで、不便である」という。
陰陽師を召し、他の日を勘申させた。勘申して言ったことには「来月七日が吉日です」という。返し問われて言ったことには「五月はよろしくない月である。もしくは、忌避すべきだろうか」という。申して言ったことには「さらに見えるところはありません。また、四月の節は節用のときに従います」という。そこで、来月七日に定めた。民部卿(藤原文範)のもとから引馬の鞍・雑具を借りて送った。(『小右記』)

5月7日 藤原遵子入内に際し賀茂光栄が反閇を行う

5月7日戊戌、藤原遵子の入内に際して、賀茂光栄は寝殿において反閇を奉仕した。(『小右記』)

5月10日 賀茂光栄が御修法の吉日を勘申する

5月10日辛丑、賀茂光栄は御修法を行う吉日を勘申した。
円融天皇は寛朝に孔雀経法を修させることにした。(『小右記』)

天元六年/永観元年(983)

10月11日 御竈釜紛失に伴い、「陰陽師」が厭術を行う

10月11日癸未、御竈釜の紛失に伴い、陰陽師(詳細不明)が蔵人所において厭術を奉仕した。また、賀茂・平野両社の禰宜が御竈釜が見つかるように祈祷した。(『小記目録』)

花山天皇時代

永観二年(984)

10月9日 陰陽師が村上山陵御幸の日を勘申し直す

永観二年(984)10月9日乙酉、(藤原実資は)院に参った。来たる十四日は御物忌に当たる。この日は山陵に参られる予定になっている。陰陽師を召し、他の日を勘申させた。(『小右記』)

同年10月27日癸卯、巳の刻、(円融天皇は)村上山陵に参られた。〈御所において、(文)道光が反閇を奉仕した。〉(『小右記』)

11月7日 陰陽寮が連日の雨について御卜を奉仕する

背景

  • 『小右記』永観二年(984)10月29日乙巳条:終日、雨。
  • 『小右記』同年11月2日戊申条:時々、雨。(中略)今夜、雨が降り、雷が鳴った。
  • 『小右記』同年11月5日辛亥条:朝、雨が降った。

永観二年(984)11月7日癸丑、「また、神祇官・陰陽寮が陣頭において連日の雨の祟りの御卜を奉仕した」という。「理運の災い」という。(『小右記』)

『日本紀略』同年11月13日己未条:伊勢大神宮以下の十一社へ幣帛使を奉り遣わした。晴れを祈るため、今日、建礼門において大祓が行われた。

永観三年/寛和元年(985)

3月10日 慶滋保遠が石清水臨時祭を延期すべきか占う

永観三年(985)3月10日甲寅、(藤原実資は)内裏に参った。仰って言ったことには「石清水祭使(源)時中が、急に触穢を申した。また、その穢は右大臣(藤原兼家)の家に到った。おそらく東宮(懐仁親王)の家に及んだのではないだろうか。もしくは、祭日を延期するべきか」という。奏上して言ったことには「もし指し示した穢があれば、延期するべきです。また、その疑いがあれば、御卜を行うべきでしょうか」という。仰って言ったことには「善い。早く陰陽師を遣わし召すように」という。
今日、院に犬の死穢があった。その疑いはまた、宮中に及んだ。(慶滋)保遠が占って言ったことには「すでに不浄のことがあります。行われるのは、よろしくありません」という。そこで、来たる二十六日に改定した。夜更けに退出した。(『小右記』)

『日本紀略』同年3月26日庚午条:石清水臨時祭が行われた。右近中将源時中朝臣を使者とした。

4月18日 藤原実資の妻に解除を行う

永観三年(985)4月18日壬辰、藤原実資の妻の出産が遅れているため、賀茂光栄が解除を行った。(『小右記』)

翌日の4月19日、安倍晴明も藤原実資の妻のために解除を行っている。(『小右記』)

4月27日 陰陽師が鳥の怪異について御卜を奉仕する

永観三年(985)4月27日辛丑、(藤原実資は)内裏に参った。卯の刻、水鳥が宜秋門の陣前の桜の樹の前に集まった。
陰陽師を召し、御卜を奉仕させた。〈「盗兵・火事・疫癘」という。〉(『小右記』)

5月7日 県奉平が藤原実資のために反閇を行う

寛和元年(985)5月7日辛亥、雨。戌の刻、(藤原実資は)小野宮に帰った。陰陽允(県)奉平に反閇を行わせた。これより前に、小野宮において散供させた。(『小右記』)

寛和二年(986)

6月1日 陰陽寮が神祇官とともに霖雨の吉凶を占う

寛和二年(986)6月1日戊戌、陰陽寮は神祇官とともに霖雨について吉凶を占った。巽・乾の方角に祟りがあるということだった。(『日本紀略』『本朝世紀』)

9月?日 安倍吉昌が天文博士になる

寛和二年(986)9月、安倍吉昌が天文博士に任じられた。(『除目大成抄』)

活動年表一覧

天皇時期リンク
継体天皇-嵯峨天皇継体天皇七年(513)-弘仁十一年(820)

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淳和天皇-醍醐天皇天長三年(826)-延喜二十年(920)

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醍醐天皇-朱雀天皇延長元年(922)-天慶九年(946)

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村上天皇天慶九年(946)4月20日-康保四年(967)5月25日

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冷泉天皇-花山天皇康保四年(967)5月25日-寛和二年(986)6月23日

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一条天皇寛和二年(986)6月23日-寛弘八年(1011)6月13日

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三条天皇寛弘八年(1011)6月13日-長和五年(1016)1月29日

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後一条天皇①(長和~寛仁)長和五年(1016)-寛仁四年(1020)

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後一条天皇②(治安)治安元年(1021)-治安三年(1023)

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後一条天皇③(万寿~長元)万寿元年(1024)-長元五年(1032)

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安倍晴明の年表

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参考【完全版】安倍晴明関係の年表についてわかりやすく解説

『小右記』『権記』『御堂関白記』など多数の史料をもとに安倍晴明の陰陽師・天文博士としての活動をご紹介。説話や伝説に見られるような超人的な能力をもつ陰陽師ではなく、一人の官人陰陽師としての晴明の実像が浮 ...

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