冷泉天皇時代の安和二年(969)から一条天皇時代の寛弘二年(1005)までの陰陽師たちの活動年表を紹介します。安倍晴明の活動年表は、別頁に記載しています。安倍晴明だけではなく、たくさんの陰陽師たちが歴史の中で暗躍してきたことがわかります。
日付の記載がない項目は同日条に記載。
冷泉天皇時代
安和二年(969)
6月24日 文道光が五龍祭を行う
安和二年(969)6月24日己亥、干ばつのため、権少僧都寛静が神泉苑において請雨経法を行い、陰陽博士文道光が北山において五龍祭を修した。神仏の加護があったのか、小雨が降った。(『日本紀略』)
9月15日 賀茂保憲が天文密奏を行う
安和二年(969)9月15日己未、天文博士賀茂保憲は去る14日酉の刻に太白星が南斗第四星を犯していたことについて天文密奏を行った。(『賀茂保憲勘文』)
円融天皇時代
天禄三年(972)
5月7日 陰陽寮の勘文が奏上される
5月7日、左大臣が陣頭において、陰陽寮の勘文と十六社奉幣使の差文などを奏上した。(『親信卿記』)
12月10日 陰陽寮が河臨祭について勘文を提出する
12月10日、陰陽寮は河臨祭についての勘文を提出した。(『親信卿記』)
天禄四年/天延元年(973)
5月25日 賀茂保憲が東宮の方角について勘申する
5月25日、賀茂保憲は東宮の方角について勘申した。「東宮は遊行年に当たるので、犯土は忌むべきです。東宮は内裏から巽の方角にあたりますが、巽は今年御遊年の方角です。陰陽書によると『遊年の方角に向かって、土を掘り起こしてはならない』とあります。犯土を行ってはいけません。ただし、修理においては別です」と申した。(『小右記』治安三年〈1023〉9月2日条)
天延二年(974)
2月9日 讃岐介の下向に際し、賀茂保憲が反閇を行う
2月9日の巳の刻、讃岐介の下向に際して主計頭賀茂保憲が反閇を行った。(『親信卿記』『平記』)
2月13日 陰陽寮が石清水行幸の日時を勘申する/四角祭を奉仕する/賀茂保憲が河臨祓を奉仕する
2月13日、陰陽寮は石清水行幸を行う吉日吉時を勘申した。また、陰陽寮が四角祭を奉仕した。賀茂保憲が東河において河臨祓を奉仕した。(『平記』『親信卿記』)
5月13日 賀茂保憲が大乗院を点地する日時を勘申する
天延二年(974)5月13日庚申、賀茂保憲は大乗院を点地する日時を勘申した。(『平記』『親信卿記』)
この日、右大将藤原兼家は左衛門佐を介して曰く「比叡山に御願寺大乗院を点地すべきことは、先日藤原典雅がこれを承ったが、障りを申して動かない。平親信が罷り登るべきだ」と言った。親信は仰せを奉り、事の次第を案内した。賀茂保憲が大乗院を点地する日を勘申し、ともに登ることになった。内蔵寮が饗事を設けた。山の上に大乗院を建立し、十人の禅師を安置すべきところ、未だに院が建立されていなかった。晩に及んだので、親信は保憲の邸宅に向かって翌日のことを案内した。(『親信卿記』)
5月14日 賀茂保憲が都から大乗院を点地する場所へ赴く
天延二年(974)5月14日辛酉の早朝、平親信一行は都を出発して東坂から登った。主計頭賀茂保憲は子や姪等を連れて行った。安倍晴明もその中にいた。勘解由長官の所領の錦宅に到着した。保憲は小さな破子を持ってきていた。次いで、坂本に到着した。一人の僧が出迎えてきた。次いで、中山に到着した。律師長勇・大乗院別当清胤らが出迎えに来た。ともに東中山を見物した。次いで、西中山を見物した。次いで、南中山を見物した。次いで、長寿庵を見物した。そして故阿闍梨の房に至り、もてなされた。普段、このような時は衣冠を着用するものだが、この日は見る場所がとても多く、束帯すべきではない。不便である。この説は、保憲が説いたものである。ただし鎮めるときは、必ず束帯を着用する。また、先例では点地の際も束帯を着用していた。酉の刻に山を下り、大津政所に到着した。夜になって、平親信は帰京した。しかし、保憲は暇をもらって坂本の辺りに留まった。(『親信卿記』)
賀茂保憲らとともに、安倍晴明も同行したという。(『平記』『親信卿記』)
5月16日 賀茂保憲の大乗院点地についての勘文が奏上される
5月16日、賀茂保憲が大乗院点地の候補地を占った勘文が奏上された。
勘文曰く「東中山は不吉、西中山も不吉、南中山も不吉である。北道に改めるべきだが、長寿庵も不吉」であった。(『親信卿記』)
8月10日 賀茂保憲が宮の庁の方角について勘申する
8月10日、賀茂保憲は「今年、宮の庁は忌むべき方角にあたります。犯土・造作を行ってはいけません」と申した。(『小右記』治安三年〈1023〉9月2日条)
11月18日 賀茂保憲が従四位に叙されるも、光栄に譲る
11月18日、賀茂保憲は従四位に叙されたが、賀茂光栄に譲った。(『大日本史料』)
12月15日 賀茂保憲が物忌の覆推を行う
12月15日、賀茂保憲は物忌の覆推を行った。(『親信卿記』)
天延三年(975)
4月14日 陰陽寮が神祇官とともに賀茂祭実施の可否を占う
4月14日丙辰、内裏において微かな穢れがあったので、陰陽寮は神祇官とともに賀茂祭を行うか否か占った。
→実施することになった。(4月19日に行われた。)(『日本紀略』)
6月23日 陰陽寮が翌月の朔日に日食が起こる旨を奏上する
6月23日甲子、陰陽寮は7月1日に日食が起こる旨を奏上した。(『朝野群載』)
天延四年/貞元元年(976)
5月14日 陰陽寮が造営・遷宮の日時を勘申する
5月14日庚辰、陰陽寮は造営・遷宮の日時を勘申した。(5月11日に内裏焼亡があったことによる)(『日本紀略』)
5月20日 陰陽寮が神祇官とともに内裏焼亡について占う
5月20日丙戌、陰陽寮は神祇官とともに11日に起こった内裏焼亡の吉凶を占った。(『日本紀略』)
貞元二年(977)
2月22日 賀茂保憲 没
2月22日癸丑、天文博士従四位下賀茂保憲が没した。(『賀茂保憲女集』『尊卑分脈』など)
天元五年(982)
天元五年(982)2月4日、円融天皇は前年の晦日に足を痛めたが、痛みが治まらないため陰陽師を召して占わせることにした。また、医者も呼ぶことにした。
→穢気が充満しているとのことだった。
3月5日 賀茂光栄が立后の日時を勘申する
3月5日夜、賀茂光栄は藤原遵子立后の日時を勘申した。3月11日癸卯の酉二刻となった。実際に、11日に立后が行われた。(『小右記』)
4月12日 県奉平らが鬼気祭を修する
4月12日、県奉平らは鬼気祭を修した。(『小右記』)
4月15日 「陰陽師」が中宮の入内日を勘申する
4月15日、当初の中宮入内日は19日に定められていたが、賀茂祭と日程が近いので、陰陽師(詳細不明)が他の日を勘申した。5月7日に決まった。(『小右記』)
5月7日 藤原遵子入内に際し賀茂光栄が反閇を行う
5月7日戊戌、藤原遵子の入内に際して、賀茂光栄は寝殿において反閇を奉仕した。(『小右記』)
5月10日 賀茂光栄が御修法の吉日を勘申する
5月10日辛丑、賀茂光栄は御修法を行う吉日を勘申した。
円融天皇は寛朝に孔雀経法を修させることにした。(『小右記』)
花山天皇時代
天元六年/永観元年(983)
10月11日 御竈釜紛失に伴い、「陰陽師」が厭術を行う
10月11日癸未、御竈釜の紛失に伴い、陰陽師(詳細不明)が蔵人所において厭術を奉仕した。また、賀茂・平野両社の禰宜が御竈釜が見つかるように祈祷した。(『小記目録』)
永観二年(984)
10月9日 村上山陵御幸の日を勘申し直す
10月9日乙酉、14日は物忌に当たる日だが、この日は山陵に御幸される予定だったので、陰陽師(詳細不明)が他の日を勘申した。(『小右記』)
11月7日 連日の雨について御卜を奉仕する
11月7日癸丑、陰陽寮は神祇官とともに、連日に渡って雨が続いていることについて陣頭において御卜を奉仕した。理運の災いということだった。(『小右記』)
永観三年/寛和元年(985)
4月18日 藤原実資の妻に解除を行う
4月18日壬辰、藤原実資の妻の出産が遅れているため、賀茂光栄が解除を行った。(『小右記』)
翌日の4月19日、安倍晴明も藤原実資の妻のために解除を行っている。(『小右記)』
4月27日 御卜を奉仕する
4月27日辛丑の卯の刻、水鳥が宜秋門の陣前の桜の木に集まったので、陰陽師(詳細不明)が御卜を奉仕した。盗み・兵・火事・疫癘ということだった。(『小右記』)
5月7日 反閇を行う
5月7日辛亥の戌の刻、陰陽允県奉平が小野宮にて反閇を行った。(『小右記』)
寛和二年(986)
6月1日 陰陽寮が神祇官とともに霖雨の吉凶を占う
6月1日戊戌、陰陽寮は神祇官とともに霖雨について吉凶を占った。巽・乾の方角に祟りがあるということだった。(『日本紀略』『本朝世紀』)
一条天皇時代
寛和三年/永延元年(987)
1月7日 天皇の物忌について覆推を行う
1月7日庚午、一条天皇の物忌の予定だったが、陰陽家(詳細不明)が覆推した結果『軽い』と出たので、紫宸殿に出御した。(『小右記』)
1月18日 陵王の舞に際して衣を下給しない
1月18日辛巳、陵王の舞が催されたが、藤原実資・陰陽師(詳細不明)・射手は衣を陵王に与えなかった。(『小右記』)
永延二年(988)
11月19日 賀茂臨時祭を延期すべきか占う
11月19日壬寅、賀茂臨時祭が12月15日に行われる予定だったが、藤原高遠が臨時祭を延期すべきだという夢を見たので、慶滋保遠と安倍吉平が延期すべきか占った。来月に延期することになった。(『小右記』)
11月23日 一条天皇の錫紵について日時を勘申する
11月23日丙午の朝、永平親王の薨奏につき、慶滋保遠が蔵人所にて錫紵を裁縫し着脱する吉時を勘申した。(『小右記』)
永祚元年(989)
2月13日 春日行幸の延期を提案
2月13日甲子、賀茂光栄は「来月春日行幸を行うのはよろしくない」との勘文を提出した。(『小右記』)
→3月13日甲午、一条天皇の物忌が重なったので、春日行幸を取りやめるよう宣旨が下った。(『小右記』同年3月14日条乙未)
3月15日 春日行幸について占う
3月15日丙申、藤原兼家が「春日行幸を取りやめたところ、不快な夢を見た」と言うので、やはり行幸を行うべきか陰陽家(詳細不明)が占った。(『小右記』)
4月5日 慶滋保遠が加給される
4月5日乙卯、叙位・除目の儀が行われ、慶滋保遠が加給された。理由は不明。(『小右記』)
5月7日 賀茂光栄と藤原陳泰が藤原実資の病について占う
5月7日丙戌の寅~卯の刻頃、藤原実資はひどく具合が悪くなったので、賀茂光栄と藤原陳泰が占ったところ祟りがあるということだった。(『小右記』)
5月28日 陰陽寮の日時勘文が奉られる
5月28日丁未、臨時諸社御幣使が定められた。陰陽寮の日時勘文が藤原忠輔を介して奉られた。(『小右記』)
6月24日 陰陽師たちが諸社御幣使を定めることになる
6月24日癸酉、諸社御幣使を定めるべきところ、陰陽師たちは藤原兼家の河臨禊を行うために辛崎に向かっていたため、吉日吉時を勘申できなかった。翌日定めることになった。(『小右記』)
6月25日 陰陽寮が賀茂下社の怪異について占う
6月25日甲戌、6月19日に賀茂下社の大樹が倒れ、樹の中からたくさんの星が飛び出して南方に去った怪異について、陰陽寮は神祇官とともに御卜を行った。慶滋保遠が占うよう命じられた。(『小右記』)
6月27日 県奉平が諸々の勘文を奉る
6月27日丙子、陰陽允県奉平が諸々の勘文を奉った。(『小右記』)
12月15日 陰陽寮が大原野社の怪異について軒廊御卜を行う
12月15日壬戌、大原野社が8日から10日まで大鼓を打つかの如く震動していた怪異について、陰陽寮は神祇官とともに藤原顕光によって軒廊に召され、御卜を行った。(『小右記』)
永祚二年/正暦元年(990)
7月7日 県奉平が藤原実資の娘のために招魂祭を行う
7月7日庚辰の夜、藤原実資の娘の病が重いため、実資は県奉平に招魂祭を行わせた。(『小右記』)
→しかし、7月11日甲申の申の刻頃、娘は亡くなった。(『小右記』)
正暦二年(991)
6月14日 安倍吉平が雩祭を行う
6月14日辛巳、陰陽博士安倍吉平がこの日から三日間に渡って雩祭を奉仕した。(『日本紀略』)
正暦四年(993)
2月9日 藤原実資の子の遺骸の処分について占う
2月9日丁卯の辰の刻、藤原実資の女が出産したが、赤子は亡くなった。実資は県奉平を召して占わせた。奉平は「本来なら未の刻がよいが、女人の衰時に当たるので申の一刻に北西の方角へ棄てるのがよろしい」と申した。(『小右記』)
正暦五年(994)
4月30日 陰陽寮が清涼殿に侵入した狐の怪異について吉凶を占う
4月30日辛亥の午の刻、狐が永安門から侵入して清涼殿に上がった。陰陽寮は吉凶を占った。(『日本紀略』『本朝世紀』)
長徳元年(995)
7月4日 中宮定子(藤原定子)の女房が陰陽寮の楼に登る
7月4日、中宮定子の女房が陰陽寮の楼に登った。(『小右記』『枕草子』「心もとなきもの」)
8月10日 高階成忠が「陰陽師」に藤原道長を呪詛させる
8月10日甲申、高階成忠は「陰陽師法師」(詳細不明)に右大臣藤原道長を呪詛させた。(『百錬抄』)
長徳三年(997)
3月21日 陰陽寮が葵御祭を奉仕する
3月21日、陰陽寮は葵御祭を奉仕した。(『信経記』)
10月19日 止雨の臨時奉幣使を派遣する日時を勘申する
10月19日、平惟仲は陰陽寮が勘申した止雨の臨時奉幣使を丹生・貴船に派遣する日時勘文(21日の巳二刻または未二刻、22日巳二刻あるいは未二刻)を奏上させた。(『権記』)
11月1日 御暦奏
11月1日、御暦奏が行われた。(『小記目録』)
長徳四年(998)
2月11日 賀茂光栄が12日朝参るよう命じられる
2月11日、藤原行成が惟宗允政に賀茂光栄は参っているか尋ねたところ、参っていないということだったので、12日の朝参るように命じた。(『権記』)
3月5日 臨時金剛般若御読経を行う日時を勘申する
3月5日、陰陽寮は臨時金剛般若御読経を行う吉日吉時を勘申した。(『権記』)
7月5日 疫神祭を行う日時を勘申する
7月5日、陰陽寮は疫神祭を行う吉日吉時を勘申した。(『権記』)
8月14日 県奉平が反閇を奉仕する
8月14日庚子、県奉平は反閇を奉仕した。(『権記』)
10月3日 安倍吉昌が天文密奏を行う
10月3日申の刻、天文博士安倍吉昌が9月26日に月が同宿したこと・同日申の刻の月蝕・10月1日未の刻の地震について、藤原行正を介して天文密奏を行った。(『権記』)
10月9日 賀茂光栄が一条天皇の錫紵の時刻を勘申する
10月9日、賀茂光栄は一条天皇が錫紵を着用する吉時を勘申した。(『権記』同年10月10日条)
10月27日 賀茂光栄が藤原行成の結政所に行く日を勘申する
10月27日壬子、賀茂光栄は藤原行成が結政所へ参る吉日を勘申した。→29日になった。(『権記』)
11月1日 伊勢例幣使を派遣する日と丹生・貴船社に奉幣する日を勘申する
11月1日丙辰、陰陽寮の者(詳細不明)が伊勢例幣使派遣を行う吉日と、丹生・貴船社に奉幣を行う吉日を勘申した。(『権記』)
長保元年(999)
3月7日 陰陽寮が神祇官とともに富士山の噴火について吉凶を占う
3月7日庚申、陰陽寮は神祇官とともに富士山の噴火について吉凶を占った。兵革あるいは疫病があるとのことだった。(『本朝世紀』)
9月16日 賀茂光栄が藤原実資の病を占い、鬼気祭を行う
9月16日乙未、藤原実資は前日から体調が治らず、賀茂光栄に占わせたところ、求食鬼によるものだということだったので鬼気祭を行わせた。(『小右記』)
9月22日 県奉平が天文密奏を奏上させる
9月22日、天文博士県奉平が天文密奏を行わせた。(『権記』)
10月6日 県奉平が藤原実資から表衣を預かる
10月6日乙卯、県奉平は藤原実資から檜皮色の五重の表衣を預かった。(『小右記』)
10月25日 昌子内親王遷御に際し賀茂光栄が反閇を奉仕する
10月25日甲戌、昌子内親王の遷御に際して賀茂光栄は反閇を奉仕した。(『小右記』)
10月26日 陰陽寮が読経の吉日吉時を勘申する
10月26日、陰陽寮は読経を行う吉日吉時を勘申した。→29日巳の刻となった。(『権記』同年10月25日条)
11月5日 県奉平が藤原行成に祓を奉仕する
11月5日の朝、県奉平は藤原行成の祓を行った。(『権記』)
11月27日 県奉平が昌子内親王の還宮について勘申する
11月27日丙午、県奉平は昌子内親王の還宮の吉日を勘申した。12月5日に行うべきだということになった。(『小右記』)
11月29日 賀茂光栄が昌子内親王の還宮について勘申する
11月29日戊申、県奉平の勘申した12月5日は吉日だが、この日の朝、藤原実資は「その日に還宮を行ってはいけない」という夢のお告げがあった。そこで賀茂光栄が勘申したところ、12月7日がよいということになった。(『小右記』)
12月2日 惟宗正邦が昌子内親王の入棺・湯殿・御出を勘申する
12月2日辛亥の明け方、陰陽博士惟宗正邦が昌子内親王の入棺・湯殿・御出について勘申した。この日は重日にあたるので、勘文は提出しなかった。辰の刻に棺を作り始めて子の刻に湯を奉り入棺し、観音院に移すことになった。(『小右記』)
12月5日 陰陽寮が政始の吉日を勘申する
12月5日、陰陽寮は政始の吉日を勘申した。8日となった。(『権記』)
12月9日 県奉平が一条天皇の眼病を占う
12月9日戌午、県奉平が一条天皇の眼病について占ったところ、祟りがあるということだった。(『権記』)
長保二年(1000)
2月23日 安倍吉昌が天文密奏を奏上する
2月23日辛未の夕方、安倍吉昌は日蝕の天文密奏を奏上した。(『権記』)
3月1日 陰陽寮が中務省に日蝕の日は廃務だと伝える
3月1日戌寅、日蝕があった。藤原行成曰く日蝕の日は廃務のため結政所に参らなかった。陰陽寮が中務省に報告したが、中務省から太政官には伝わっていなかったので、源道方らは結政所に参った。(『権記』)
4月7日 県奉平が天文密奏を奏上する
4月7日甲寅、県奉平が天文密奏を奏上した。火事に気をつけなければならないということだった。(『権記』)
4月9日 県奉平が藤原行成の解除を行う
4月9日丙辰、県奉平は鴨川の河原にて藤原行成の解除を行った。(『権記』)
5月14日 賀茂光栄が東三条院殿上のことを停止する日を勘申する
5月14日庚寅、賀茂光栄は東三条院殿上のことを停止する日を勘申した。今日がその吉日となった。(『権記』)
7月9日 賀茂光栄が賀茂光国へ歴道を伝授するよう命じられる
7月9日甲申、勅命により、藤原行成は賀茂光栄を召して賀茂光国に歴道を伝授するよう命じた。光栄は「本来であれば子息に継がせるべきですが、光国は最もふさわしいです。陰陽助あるいは博士に欠員が出たときに任じましょうか」と言った。(『権記』)
8月18日 陰陽寮・安倍晴明・賀茂光栄が内裏遷御に伺候することになる
8月18日壬戌、陰陽寮・安倍晴明・賀茂光栄は内裏遷御に伺候することになった。(『権記』)
9月21日 陰陽寮が安鎮法と七十天供の吉日を勘申する
9月21日乙未、藤原行成は藤原説孝を介して陰陽寮に安鎮法と七十天供の吉日を勘申させた。安鎮法が9月29日、七十天供が10月1日となった。だが、29日は国忌のため占い直した。(『修法要抄』)
9月26日 秦正邦が暦道博士の任命を求める
9月26日庚子の朝、陰陽頭秦正邦が暦道博士を任命してほしいと要求した。本来、暦博士の任命は除目の際に行われるものだが、吉日がないため、すぐに任命した。(『権記』)
長保三年(1001)
1月16日 賀茂光栄が御修法の日を勘申する
1月16日戊子、賀茂光栄が御修法の吉日を勘申した。
→21日癸巳が吉日となった。(『権記』)
2月16日 陰陽寮が勘申した臨時仁王会の日時勘文が奏上される
2月16日戊午、陰陽寮が勘申した臨時仁王会の日時勘文が奏上された。(『権記』)
2月19日 賀茂光栄が勘申した仁王会の日時について話し合いが行われ、3月10日に定められる
2月19日辛酉、賀茂光栄は仁王会の吉日を2月28日庚午と勘申したが、その日は凶日といわれている日だったので、3月10日に行うことになった。(『権記』)
3月4日 安倍吉平が一条天皇が除服を行う日時を勘申する
3月4日丙子、陰陽助安倍吉平は一条天皇が除服を行う吉日吉時を勘申した。3月10日壬午の寅の刻になった。(『権記』)
3月25日 陰陽寮の日時勘文が奏上される
3月25日丁酉、蔵人弁によって陰陽寮の日時勘文が奏上された。(『権記』)
5月19日 陰陽寮が神祇官の祈祷と諸社の祈祷を行う日時を勘申する
5月19日庚寅、陰陽寮は神祇官の祈祷と諸社の祈祷を行う吉日吉時を勘申した。神祇官の祈祷が5月21日、諸社の祈祷が5月24日になった。(『権記』)
11月1日 御暦奏
11月1日、御暦奏が行われた。(『小記目録』)
12月4日 陰陽寮か勘申した広瀬祭の日時勘文が奏上される
12月4日、陰陽寮が広瀬祭を行う吉日吉時(閏12月4日)の日時勘文が奏上された。(『権記』)
長保五年(1003)
2月16日 県奉平が藤原行成の祓を行う
2月16日丙子の酉の刻、県奉平は藤原行成の服喪を明けさせるための祓を行った。(『権記』)
3月9日 賀茂光栄が敦康親王に上巳祓を奉仕する
3月9日乙巳、賀茂光栄が中御門大路の末において敦康親王に上巳祓を奉仕した。(『権記』)
8月29日 賀茂光栄が敦康親王に御祓を奉仕する
8月29日丙戌、敦康親王が病を患っていたので、賀茂光栄は御祓を奉仕した。(『権記』)
長保六年/寛弘元年(1004)
2月21日 県奉平が河臨祓を行う
2月21日乙亥、県奉平が藤原行成の命で河臨祓を行った。(『権記』)
8月14日 賀茂光栄が本命元辰祭を行う
8月14日丙寅、賀茂光栄は藤原道長に命じられて本命元辰祭を行った。(『御堂関白記』)
8月28日 県奉平が藤原行成とその妻に祓を行う
8月28日庚辰、県奉平が藤原行成とその妻のために祓を行った。(『権記』)
9月22日 賀茂光栄が敦康親王に御祓を奉仕する
9月22日癸卯の酉の刻、賀茂光栄が敦康親王に御祓を奉仕した。(『権記』)
閏9月15日 賀茂光栄が本命祭を行う
閏9月15日丙寅、賀茂光栄は藤原道長に命じられて本命祭を行った。(『御堂関白記』)
11月1日 御暦奏
11月1日辛亥、御暦奏が行われた。藤原斉信が上卿を務めた。(『権記』)
寛弘二年(1005)
1月4日 「陰陽師」が藤原頼通の病を占う
1月4日癸丑、陰陽師(詳細不明)が藤原頼通の病について占った。病は急に治らないので、慎まなければならないということだった。(『小右記』)
2月18日 県奉平が泰山府君祭を行う
2月18日丙申、県奉平が泰山府君祭を行った。(『小右記』)
4月7日 県奉平が藤原行成の解除を行う
4月7日甲申、県奉平は藤原行成の解除を行った。(『権記』)
6月13日 陰陽寮が賀茂社における鵄の怪異について占う
6月13日己丑、陰陽寮は賀茂社における鵄の怪異について占った。東と南東の方角で戦いが起こるということだった。(『権記』)
7月21日 「陰陽師」が藤原道長の命で卜占を行う
7月21日丁卯、藤原道長が陰陽師(詳細不明)に卜占を行わせたところ、重い物忌ということだった。(『御堂関白記』)
9月16日 陰陽寮が東大寺における白鷺と狐の争いの怪異について占う
9月16日辛酉、東大寺が去る13日に白鷺と狐の争闘があったと報告してきた。陰陽寮が吉凶を占ったところ、疫病または火事があるということだった。(『日本紀略』『西宮記』)
10月29日 賀茂光栄らが八島にて御祓を行う/賀茂光栄が敦康親王に御祓を奉仕する
10月29日甲辰、賀茂光栄が中宮に、惟宗正邦が藤原道長に、秦文高が道長の女方のために御祓を行った。(『御堂関白記』)また、賀茂光栄が八島において敦康親王に御禊を奉仕した。(『権記』)
11月22日 陰陽寮が神祇官とともに内裏火災の祟りについて勘申する
11月22日丙寅、陰陽寮は神祇官とともに内裏における火災の祟りについて勘申した。(『小右記』)
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