出典:日付の記載がない項目は同日条に記載されています。
醍醐天皇時代
延長二年(924)
12月29日 陰陽寮が追儺に使用する道具を渡す
12月29日、追儺の儀において、陰陽寮は桃弓・葦矢・桃枝を群寮に分け与えた。(『吏部王記』)
延長四年(926)
8月5日 陰陽寮が神祇官とともに霖雨の祟りについて占う
8月5日、陰陽寮は神祇官とともに霖雨の祟りについて占った。住吉・魚住の二社が止雨のための祈祷を行った。(『貞信公記抄』)
延長八年(930)
6月9日 陰陽寮が大極殿における鳥の怪異について占う
6月9日辛丑、陰陽寮は大極殿で発生した鳥の怪異について占った。(『扶桑略記』)
8月12日 陰陽寮が鳩の怪異について占う
8月12日癸卯、陰陽寮は鳩の怪異について占った。(『扶桑略記』)
9月16日 陰陽寮が鳥の怪異について占う
9月16日丙子、陰陽寮は鳥の怪異について占った。(『扶桑略記』)
朱雀天皇時代
延長九年/承平元年(931)
4月11日 陰陽寮が内裏の触穢について占う
4月11日、陰陽寮は神祇官とともに内裏の触穢について占った。(『貞信公記』)
9月29日 代明親王が紙筆を求め、藤原晴見の署する所を書く
9月29日、代明親王が紙筆を求め、密かに彼の家の誦経文を書き、陰陽頭藤原晴見署した所を書いた。(『醍醐寺雑事記』)
11月3日 御暦奏が行われる
11月3日丙戌、御暦奏が行われた。
11月1日に日食があったので廃務となり、御暦奏は3日に延期されていた。(『年中行事抄』)
承平二年(932)
1月29日 陰陽寮が鹿の怪異について占う
1月29日辛亥、陰陽寮は辰の刻に承明門へ入ってきた鹿の怪異について占った。(『貞信公記』『扶桑略記』)
承平五年(935)
11月1日 御暦奏
11月1日壬辰、御暦奏が行われた。(『九條殿記』『政事要略』)
承平六年(936)
10月11日 葛木茂経が翌年の謬暦を大春日弘範に作らせることを申請する
10月11日丙寅、権暦博士葛木茂経は翌年の謬暦を暦博士大春日弘範に造進させることを申請した。(『日本紀略』)
承平七年(937)
10月2日 暦博士二名が翌年の暦について勘問を受ける
10月2日辛巳、暦博士二名が召され、翌年の暦について所論を勘問された。(『日本紀略』)
10月13日 太宰府に唐暦を進上させる
10月13日壬辰、太宰府に今年と翌年の唐暦を進めさせた。(『日本紀略』)
承平八年/天慶元年(938)
4月15日 陰陽寮が地震について吉凶を占う
4月15日、大地震が起こり多数の建物が倒壊した。死者が出たことによって触穢となり、賀茂祭が中止された。
陰陽寮が地震について占ったところ、東西に兵革があるということだった。(国史大系-『扶桑略記』)
東では平将門の乱、西では藤原純友の乱が発生している。
8月7日 陰陽寮が鷲の怪異について占う
8月7日辛巳、陰陽寮が鷲の怪異について占った。(『本朝世紀』)
10月19日 葛木茂経が造進した暦本が用いられることになる
10月19日、葛木茂経が造進した暦本が用いられることになった。(『貞信公記抄』『本朝世紀』)
11月1日 御暦奏が延引される
11月1日甲辰、暦本が定まらないことにより、御暦奏が延引された。(『本朝世紀』)
11月9日 陰陽寮が暦を奏上しなかったことについて過状を求められる
11月9日壬子、陰陽寮は暦を奏上しなかったことについて過状を求められた。(『本朝世紀』)
天慶二年(939)
1月1日 陰陽官人が遅参する
1月1日、陰陽官人が南殿に遅参した。(『貞信公記』)
7月2日 陰陽寮が五龍祭を行う
7月2日辛丑、陰陽寮は祈雨のために五龍祭を行った。(『貞信公記』)
同日に、祈雨のために龍穴社への奉幣が行われている。(『貞信公記』)
天慶四年(941)
7月17日 賀茂保憲が翌年の御暦および頒暦本を作成する
7月17日乙亥、暦博士大春日弘範は暦生賀茂保憲とともに翌年の御暦ならびに頒暦本を造進した。(『符宣抄』)
11月1日 御暦と頒暦が進上される
11月1日丁巳、御暦の奏上と頒暦の奏上が行われる予定だったが、天皇が出御されなかったので、頒暦は外記省に進上し、御暦は内侍に託して奏上した。料紙が足りなかったので、十一巻だけを造進した。(『本朝世紀』)
天慶五年(942)
4月10日 陰陽寮が伊賀国・出雲国の怪異について占う/陰陽寮が諸々の行事を行う吉日を勘申する
4月10日癸亥、陰陽寮は神祇官とともに撰国史所において伊賀国・出雲国の怪異について占った。
また、陰陽寮は伊勢大神宮に諸社奉幣使を派遣する吉日、賀茂行幸の吉日、宇佐八幡使を派遣する吉日、廣瀬龍田祭を行う吉日を勘申した。伊勢大神宮は4月14日、廣瀬龍田祭は4月26日、宇佐八幡使は4月27日、賀茂行幸は4月29日となった。(『本朝世紀』)
天慶七年(944)
9月14日 陰陽寮が季御読経の日時を勘申する
9月14日、陰陽寮は季御読経を行う日時を勘申した。(『九暦』)
天慶八年(945)
2月6日 平野義樹が斬草祭を奉仕する
2月6日、陰陽允平野義樹が斬草祭を奉仕した。(『吏部王記』)
7月2日 陰陽寮が干ばつについて吉凶を占う
7月2日、陰陽寮と神祇官は久しく雨が降っていない干ばつについて祟りの有無を占った。(『貞信公記』)
7月5日 陰陽寮の勘申によって祈雨奉幣が定められる
7月5日己未、陰陽寮の勘申によって賀茂・稲荷二社への祈雨が定められた。(『貞信公記』)
8月29日 陰陽寮が止雨使発遣の神社について占う
8月29日壬辰、陰陽寮は止雨使発遣の神社について占った。(『本朝世紀』)
11月1日 御暦奏
11月1日甲午、朱雀天皇は物忌のため出御されなかったので、御暦奏は内侍所に付された。(『本朝世紀』)
天慶九年(946)
3月8日 陰陽寮が季御読経を行う吉日を勘申する
3月8日、陰陽寮は春季御読経を行う吉日を勘申した。(『小右記』長和二年〈1013〉7月3日条)
村上天皇時代
天慶九年(946)
10月28日 陰陽寮が出宮の時間を勘申する
10月28日乙酉、陰陽寮は出宮の時間を午二刻と勘申した。(『九暦』)
天暦二年(948)
3月20日 陰陽寮が清涼殿への遷御を行う吉日を勘申する
3月20日、陰陽寮は清涼殿への遷御を行う吉日を勘申した。
→4月9日となった。(『貞信公記』)
9月20日 陰陽寮が降雨の祟りについて吉凶を占う
9月20日、陰陽寮は神祇官とともに降雨が頻繁に起こることについて吉凶を占った。坤艮の方角にある神社に不浄の気があるということだった。重ねて占って言うには、八幡宮で放生会を行わなかったことによる祟りだという。(『九暦』)
11月1日 御暦奏
11月1日丙午、御暦奏が行われた。(『日本紀略』)
天暦三年(949)
6月14日 陰陽寮の井戸から死体が発見される
6月14日丙戌、陰陽寮の井戸から死体が見つかった。井戸の水は汲み上げられ、その穢は宮中に及んだ。(『日本紀略』)井戸に落ちたのは女童だった。(『九條殿記』『九暦』)
7月29日 陰陽寮が軒廊御卜に参上しない
7月29日、軒廊御卜の時間に陰陽寮は参上しなかった。(『九暦』)
11月1日 御暦奏
11月1日癸未、御暦奏が行われた。(『日本紀略』)
天暦四年(950)
5月24日 平野茂樹が障りを称して参上しない
5月24日寅の刻、憲平親王(後の冷泉天皇)が誕生した。源高明は陰陽助平野茂樹を召して雑事を行う吉日を勘申させようとしたが、茂樹は障りがあると言って参上しなかった。そこで、茂樹宅において勘申させた。
御臍緒ならびに御哺乳の日時:今日辛酉時辰二刻もしくは午時午二刻
御湯殿調度の日時:今日辰二刻
御沐浴の日時:今日戌二刻(沐浴の水は卯方から汲み、御船は甲方を用いる)
初着給御衣の日時:26日癸亥 時巳二刻もしくは午二刻、28日乙丑 時午二刻もしくは酉二刻 黄色の衣を用いる
6月25日 陰陽師が行幸の吉日を勘申することになる
6月25日、陰陽師等を召して行幸の吉日を勘申させることになった。(『御産部類記』)
7月10日 平野茂樹が反閇を奉仕する
7月10日、藤原師輔が東一条第に移った。陰陽助平野茂樹が反閇を奉仕した。(『九暦』『御産部類記』)
7月26日 陰陽寮が御殿祭・御井祭・鎮祭・御前所神・政始の日時を勘申する
7月26日辛卯、陰陽寮は御殿祭・御井祭・鎮祭・御前所神・政始の日時を勘申した。(『九暦』『御産部類記』)
7月30日 陰陽寮が儲弐を立てる日を勘申する
7月30日、陰陽寮は儲弐を立てる日を勘申した。→8月9日となった。(『九暦』『御産部類記』)
10月17日 賀茂保憲と大春日益満が造暦の異論を問われる
10月17日辛亥、暦博士賀茂保憲と大春日益光らが左大臣藤原実頼に召されて、造暦の異論について問われた。(『西宮記』『北山抄』)
12月8日 陰陽寮が荷前定の吉日を勘申する
12月8日、陰陽寮は荷前定の吉日を勘申した。
→13日となった。(『九暦』同年12月12日条)
天暦六年(952)
4月27日 賀茂保憲が所帯の栄爵を父忠行に譲ってほしいと頼む
4月27日壬子、暦博士賀茂保憲は所帯の栄爵(従五位下)を父忠行に譲ってほしいと頼んだ。(『本朝文粋』)
天暦七年(953)
この年、陰陽寮において火災があった。(『百錬抄』)
2月12日 陰陽寮が京中の火災について占う
2月12日壬戌、京中(藍園町)で火災があり、神祇官高倉に延焼した。陰陽寮は焼亡による祟りを占った。(『扶桑略記』)
天暦九年(955)
11月1日 御暦奏
11月1日、雨儀であったため、御暦奏は内侍所に託された。(『権記』正暦四年〈993〉11月1日条)
天徳元年(957)
8月17日 賀茂保憲が絹二疋を賜る
8月17日、陰陽頭賀茂保憲は坊城第の凶事を鎮めたことによって絹二疋を賜った。(『九暦抄』)
11月1日 御暦奏
11月1日癸未、御暦奏が行われた。(『日本紀略』)
天徳四年(960)
4月22日 賀茂保憲が天文博士になる
4月22日辛卯、陰陽頭賀茂保憲は天文博士になった。(『扶桑略記』)
5月13日 陰陽寮が軒廊御卜を行う
5月13日辛亥、炎旱によって、陰陽寮は神祇官とともに軒廊御卜を行った。(『祈雨日記』)
7月25日 陰陽寮が雩祭を行う
7月25日癸亥、陰陽寮は神泉苑において雩祭を行った。(『日本紀略』)
10月22日 賀茂保憲らが職曹司から冷泉院への遷御の可否を勘申する
10月22日戊子、天文博士賀茂保憲らが職曹司から冷泉院への遷御の可否について勘申した。(『西宮抄』『陰陽新書』『水左記』)
11月2日 御暦奏
11月2日戊戌、御暦奏が行われた。(『日本紀略』)
11月1日には、伊勢・石清水・賀茂・松尾・平野・石上の六社へ奉幣が行われた。(『西宮記』)
応和元年(961)
閏3月22日 陰陽寮(賀茂保憲)が神祇官とともに宇佐使発病の吉凶を占う
閏3月22日乙酉、宇佐使が発病したので、陰陽寮は神祇官とともに吉凶を占った。
石清水八幡宮に奉幣して、宇佐使を改めて派遣することになった。(『西宮記』)
『北山抄』では、神祇官と天文博士賀茂保憲となっている。
6月21日 陰陽寮が神祇官とともに旱炎について占う
6月21日癸丑、陰陽寮は神祇官とともに旱炎について占った。(『祈雨記』)
10月19日 賀茂保憲が勘文を進上する
10月19日、天文博士賀茂保憲は本命日についての勘文を進上した。(『覚禅抄』)
10月26日 陰陽寮が版位造進の日時を勘申する
10月26日丙辰、陰陽頭秦宿禰らは版位造進の日時を勘申した。(『園太暦』)
応和二年(962)
7月10日 賀茂保憲らが天変を奏上する
7月10日乙丑、天文博士賀茂保憲、助教以忠らが9日に月が心前星を犯したと奏上した。(『日本紀略』)
8月4日 賀茂保憲が天変を奏上する
8月4日己丑、天文博士賀茂保憲は去る7月30日に黒雲と鎮星の天変について奏上した。(『日本紀略』)
8月18日 賀茂保憲が補多楽堂の地を鎮謝する
8月18日癸卯、天文博士賀茂保憲が補多楽堂の地を鎮謝した。(『日本紀略』)
12月22日 賀茂保憲が革令期事について勘申する
12月22日丙子、天文博士賀茂保憲は応和四年の革令期事について勘申した。(『革暦之事』『応和四年甲子革令勘文)
応和四年は甲子の年にあたるが、甲子の年は変革が起こりやすいと考えられていた。甲子革令ともいう。
応和三年(963)
1月20日 陰陽寮が石清水八幡宮正殿造立の日時を勘申する/正座移動の吉凶を占う
1月20日癸酉、陰陽寮が石清水八幡宮正殿造立の日時を勘申し、正座移動の吉凶を占った。(『石清水文書』『小右記』)
7月13日 賀茂保憲が五龍祭を修する
7月13日庚申、天文博士賀茂保憲は祈雨のために五龍祭を修した。(『祈雨記』『祈雨日記』)
応和四年/康保元年(964)
3月9日 陰陽寮が日本記を講じる日時を勘申する
3月9日乙酉、陰陽寮は日本記を講じる日時を勘申した。4月20日乙丑、4月28日癸酉になった。(『日本紀略』)
6月23日 賀茂保憲が属星祭を修する
6月23日丁卯、天文博士賀茂保憲は八省院において三日三晩属星祭を修した。(『革暦類』)
6月27日 賀茂保憲が大歳祭を修する
6月27日辛未、天文博士賀茂保憲は大歳祭を修した。(『革暦類』)
7月7日 陰陽寮が御読経の日時を勘申する
7月7日庚辰、陰陽属保遠が御読経の日時を勘申した。(『西宮記』)
8月21日 賀茂保憲が海若祭を修する
8月21日甲子、天文博士賀茂保憲は摂津国難波浦において海若祭を修した。(『革暦類』)
9月9日 賀茂保憲が行幸の日を勘申する
9月9日辛巳、天文博士賀茂保憲は行幸の吉日を勘申した。(『陰陽略記』)
康保二年(965)
2月27日 陰陽寮が出羽国の天変について吉凶を占う
2月27日戊辰、出羽国が「1月8日の未時に白虹が見えた」と言上したので、陰陽寮が吉凶を占った。(『日本紀略』)
康保三年(966)
1月9日 賀茂保憲が天文密奏を行う
1月9日乙亥、天文博士賀茂保憲は去る8日に月が昴星を犯した天変について天文密奏を行った。(『日本紀略』)
康保四年(967)
この年、陰陽博士賀茂道光・賀茂光宗が蔵人所に召された。(『禁秘抄』)
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