陰陽道

【年表】平安時代の陰陽師たちの活動記録―醍醐天皇~朱雀天皇時代

陰陽師たちの活動年表醍醐天皇から村上天皇

平安時代の陰陽師たちの活動年表をわかりやすく簡単に解説します。醍醐天皇時代から朱雀天皇時代における陰陽師たちの活動年表を紹介しています。承平八年に起こった大地震について陰陽寮が占ったところ、東西で兵乱が起こる兆しだとわかりました。陰陽師たちは、平将門や藤原純友が兵乱を起こすことを予見していたのです。

出典:日付の記載がない項目は同日条に記載されています。

醍醐天皇時代

寛平十年/昌泰元年(898)

5月1日 陰陽寮が干ばつを占う

昌泰元年(898)5月1日己巳、陰陽寮は神祇官とともに雨がふらないことについて御卜を行った。また、七社において名僧に金剛般若経を読経させ、甘雨を祈った。(『扶桑略記』)
右大将菅原道真朝臣を遣わして仰ったことには「国土に久しく雨が降っていない。陰陽寮と神祇官をめして御卜を奉仕させるように」と。(『祈雨記』)

・同年5月8日丙子、祈雨のために十六社へ奉幣を行った。(『日本紀略』)
・同年5月15日癸未、祈雨のために伊勢大神宮へ奉幣を行った。(『日本紀略』)
・同年5月17日乙酉、石清水八幡宮・賀茂上下・稲荷・松尾・春日・住吉などの諸社及び興福寺に読経して雨を祈った。(『祈雨記』)

・同年5月9日丁丑、大雷雨があった。(『日本紀略』)
・同年5月16日甲申、雨が降った。(『祈雨記』)

延喜二年(902)

6月17日 陰陽寮が五龍祭を修する

延喜二年(902)6月17日辛卯、左大臣以下が陣に就いた。祈雨により、山陵使を定めた。
また、同じ事により、陰陽寮を召し、今日・明日より乾の方角において五龍祭を勤めるように仰せ下した。その場所は、鳴滝の北、十二月谷口である。(『扶桑略記』)

延喜四年(904)

7月8日 陰陽寮が五龍祭を修する

延喜四年(904)7月8日庚午、旱気が最も盛んであった。そこで陰陽寮に仰せ、北山十二月谷口において五龍祭を修させた。(『扶桑略記』)

延喜五年(905)

4月10日 陰陽寮が斎院御禊の日時を勘申する

延喜五年(905)4月10日、左大臣が陰陽寮の勘申した斎院御禊の日を奏上させたという。十八日と定めた。(『醍醐天皇御記』)

同年4月18日丙午、恭子内親王が鴨川で御禊を行い、野の宮に入った。(『西宮記』)

延喜六年(906)

8月7日 陰陽寮が牛の怪異を占う

延喜六年(906)8月7日戊子、紀伊国が言上したことには「去る4月18日、牝牛が出産しました。体に黒い斑があり、一つの頭に二つの顔が相分かれていました。左の顔は短く、右の顔は長くなっていました」と。陰陽寮が怪異を勘申した。(『日本紀略』)

延喜七年(907)

1月1日 御暦を内侍所に託して奏上する

延喜七年(907)1月1日戊寅、紫宸殿に出御しなかった。識子内親王が薨じられたので、朝政を聞かなかったのである。侍従以上を宜陽殿に召し、酒餞を下賜した。左大臣(藤原時平)が言ったことには「承和の日記によると『御暦は内侍所に託して奏上させた。氷様・腹赤は紫宸殿に列立した』ということでした。公卿が語りました。すぐに命じて、進物所に託させました」という。(『西宮記』)

延喜十年(910)

7月1日 陰陽寮が異物を占う

延喜十年(910)7月1日戊子、大和国が言上したことには「6月21日の午の刻頃、郡院の西路の河辺に異物が棄てられていました。その形は子牛のような体の人間で、二つの耳がありませんでした」という。陰陽寮にこれを占わせた。(『日本紀略』)

延喜十一年(911)

5月27日 千門が過状を進上する

延喜十一年(911)5月27日庚戌、暦博士千門が日蝕の誤りにより過状を進上した。(『扶桑略記』)

延喜十五年(915)

6月24日 陰陽寮が五龍祭を行う

延喜十五年(915)6月24日癸丑、神泉苑において五日間に渡り阿闍梨観賢など僧二十口が請雨経法を修した。また、陰陽寮が甘雨を祈るために五龍祭を行った。(『日本紀略』)

8月17日 陰陽寮が鳥の怪異を占う

延喜十五年(915)8月17日乙巳、右中弁藤良基が外記を召して仰って言ったことには「昨日、鳥が時奏の杭をくわえて抜いた。陰陽寮に占わせるように」と。(『扶桑略記』)

延喜十七年(917)

12月?日 陰陽寮が荷前の日時を勘申する

延喜十七年(917)12月(日未詳)、陰陽寮が十三日を定め申した。疑いがあるので、使者を右大臣の家に遣わし、定め申させた。申して言ったことには「仰せの旨のようであれば、すでにその疑いがあります。必ず陰陽寮に仰せ、かの十三日の他に重ねて吉日を選び申させるように」という。すぐに陰陽頭房満を召し、選び申させた。申して言ったことには「十三日の他に吉日はありません。すこぶるよろしい日は戌の日に当たります。戌の日は、祀ってはいけません」という。けれども、十三日を改めて戌の日に行われた。(『九条殿記』)

12月17日 陰陽寮の漏刻の水が凍る

延喜十七年(917)12月17日壬戌、陰陽寮は時刻が変わったことを申さなかった。漏刻の水が凍結していたことによる。(『日本紀略』)

12月26日 日蝕についての議論が行われる

延喜十七年(917)12月26日辛未、右大臣(藤原忠平)が参入し、暦博士(葛木)宗公が申した明年正月一日の日蝕のことによって朝拝を停止するということについて、権暦博士(大春日)弘範が日蝕は起こらないと申した。(『扶桑略記』)

延喜十八年(918)1月1日乙亥、日蝕のため、朝賀・宴会は停止となった。(『日本紀略』)

12月27日 造暦の異論

延喜十七年(917)12月27日壬申、今日、暦博士葛木宗公・大春日弘範を陣頭に召し、来たる正月一日の日蝕の有無について両人に異論があった。宗公は日蝕があることを定めた。(『日本紀略』)

葛木宗公が経説に依ることを申した。(大春日)弘範が会昌革に依ることを申した。経説に依るべきことを定めた。(『北山抄』)

12月28日 葛木宗公が来年の日蝕について述べる

延喜十七年(917)12月28日癸酉、右大臣(藤原忠平)が参入し、暦博士を召した。(葛木)宗公が申した日蝕のことによる。(『扶桑略記』)

延喜十八年(918)

12月22日 日蝕についての議論が行われる

延喜十八年(918)12月22日、暦博士を陣頭に召し、日蝕のことを議論させた。
(大春日)弘範の申したところは、ただ前代の儒者の草文により、正文がない。そこで、(葛木)宗公の申したことに従った。(『貞信公記抄』)

12月28日 葛木宗公が夜間の日蝕について述べる

延喜十八年(918)12月28日、(葛木)宗公が申したことにより、夜刻の日蝕は廃務にすべきではないとの状があった。明経・紀伝の博士が勘申した。そこで中務省に伝えた。諸儒を陣頭に召して(欠字)申させた。(『貞信公記抄』)

延喜十九年(919)

5月28日 七献上章祭

延喜十九年(919)5月28日甲午、七献上章祭が行われた。(『貞信公記抄』)

延喜二十年(920)

1月2日 御暦を内侍所に託す

延喜二十年(920)1月2日、宴会があった。ただし、雨儀を用いた。御暦は内侍所に託した。(『貞信公記抄』)

10月28日 陰陽寮が御卜を行う

延喜二十年(920)10月28日丙戌、承明門の東脇に納められている御匙辛櫃が三度振動した。そこで、陰陽寮に御卜を行なわせた。(『扶桑略記』)

11月1日 御暦奏

延喜二十年(920)11月1日、上(醍醐天皇)が紫宸殿にいらっしゃった。御暦を奏上したのは、恒例のとおりであった。(『貞信公記抄』)

延長元年(922)

6月9日 藤原義柄が天文道を習う

延長元年(922)6月9日壬午、藤原義柄に天文道を習わせることになった。(『符宣抄』)

延長二年(924)

5月24日 大和国の過状について

延長二年(924)5月24日辛酉、相明朝臣が来て言ったことには「大和の過状は須らくなお責めるべきです。また、交替させてはなりません」ということだ。「これは頭朝臣が仰せを伝えるところである」という。忠行を召し、これを伝えた。(『貞信公記抄』)

「忠行」が賀茂忠行を指すのかは不明。

12月29日 追儺

延長二年(924)12月29日、雪が降った。親王・公卿・侍従が承明門の東廊の外の平座に着座した。
亥一刻、承明門を開いた。陰陽寮が桃弓・葦矢・桃枝を群官に配った。親王以下は深沓を履き、壇上から儺人に従って南庭に入り立った。終わって、それぞれ差された方の門に従って出た。この夜、諸卿が言ったことには「追儺に雨儀はない」という。(『西宮記』)

延長三年(925)

月日未詳 氏江一人が勘申する

延長三年(925)、故太政大臣(藤原忠平)は左大臣であった。陰陽頭氏江一人を大臣の家に召し、勘申させた。(『九条殿記』)

延長四年(926)

3月7日 定心院・四王院の解文について

延長四年(926)3月7日癸亥、藤原忠平は空慧の定心院・運昭の四王院の解文を申させることについて忠行に仰った。(『貞信公記抄』)

「忠行」が賀茂忠行を指すのかは不明。

4月21日 陰陽寮が諸社奉幣の日時を勘申する

延長四年(926)4月21日、左大臣が官奏を奏上した。仰って言ったことには「諸社に奉幣し、年穀及び天下平安のことを祈るように」という。大臣が陰陽寮の選び申した奉幣の日時の文を奏上した。二十五日を選んだ。しかし、重日であった。そこで、来月四日に改めた。(『西宮記』)

延長四年4月21日は辛亥にあたる。重日とは、暦において陽が重なる巳の日と、陰が重なる亥の日であり、この日に凶事を行うのは避けられた。

同年5月4日己未、十八社に奉幣したという。(『醍醐天皇御記』)

8月5日 陰陽寮が神祇官とともに霖雨の祟りについて占う

延長四年(926)8月5日、神祇官・陰陽寮等を召し、雨が止まない祟りを占わせた。(『貞信公記抄』)

延長八年(930)

6月9日 陰陽寮が大極殿における鳥の怪異について占う

6月9日辛丑、陰陽寮は大極殿で発生した鳥の怪異について占った。(『扶桑略記』)

7月24日 助教十市部良佐に天文奏を進めさせる

延長八年(930)7月24日乙酉、左大弁藤原朝臣邦基が伝え、左大臣(藤原忠平)が勅を奉り、助教従五位下十市部良佐に天文奏を進めさせるよう宣旨が下された。(『類聚符宣抄』)

8月12日 陰陽寮が鳩の怪異について占う

8月12日癸卯、陰陽寮は鳩の怪異について占った。(『扶桑略記』)

9月16日 陰陽寮が鳥の怪異について占う

9月16日丙子、陰陽寮は鳥の怪異について占った。(『扶桑略記』)

朱雀天皇時代

延長九年/承平元年(931)

2月7日 藤原時柄が天文道を学習する

延長九年(931)2月7日、藤原時柄に天文道を学ばせることになった。(『日本紀略』)

4月11日 陰陽寮が内裏の触穢について占う

4月11日、神祇官・陰陽寮に穢気が禁中に入ったか否かを占い申させた。しかし穢は無く、同じく占い申した。これは中明がかの寮から昨朝参入したことによって疑いがあったので、占ったのである。(『貞信公記抄』)

9月29日 代明親王が紙筆を求め、藤原晴見の署する所を書く

9月29日、代明親王が紙筆を求め、密かに彼の家の誦経文を書き、陰陽頭藤原晴見の署した所を書いた。(『醍醐寺雑事記』)

11月2日 御暦奏の延期

承平元年(931)11月2日、外記公鑑が来て言ったことには「今日は御暦を奏上しなければなりません。ところが、上卿はみな物忌によって参入しません。これを如何しましょう」という。殿上(朱雀天皇)もまた、御物忌である。必ず内侍所に伺候しなければならない。明日、状を奏上させることを伝えた。(『貞信公記抄』)

11月3日 御暦奏が行われる

11月3日丙戌、御暦奏が行われた。

11月1日に日食があったので廃務となり、御暦奏は3日に延期されていた。(『年中行事抄』)

承平二年(932)

1月29日 陰陽寮が鹿の怪異について占う

承平二年(932)1月29日辛亥、辰の刻、鹿が中陪に入った。しかし、陰陽寮が占い申して言ったことには「怪ではありません」という。(『貞信公記』『扶桑略記』)

12月28日 大春日弘範の位記が改められる

承平二年(932)12月28日、内印があった。
暦博士(大春日)弘範の位記が改められた。今日、職曹司に渡りこのことを行った。(『貞信公記抄』)

承平五年(935)

11月1日 御暦奏

承平五年(935)11月1日壬辰、天が晴れた。午時、殿(藤原忠平)に参った。仰って言ったことには「『御暦奏により、紫宸殿に出御する』ということだ。しかし、私は体調が悪く参入するに堪えない。ただし、闈司奏・諸衛番奏の後に勅答がある。また、承和の前例では天皇が御酒を三巡した後、本殿にお帰りになった。親王・公卿は左近陣において数度盃を交わし、酔った。この前例を以て行われるのは如何であろう。また、勅答、闈司奏の後に仰って言ったことには『番奏を申させよ』という。勅答は『置け』という。もし次いでがあればこのことを右大臣に語り申せ」という。すぐに内裏に参り、御消息の趣旨を大臣に申そうとした。予(藤原師輔)が未だ参らない前に、大臣は権左中弁公忠朝臣を差し遣わし、大殿に奉られる御消息の趣旨に言ったことには「今日、もしくは必ず出御するべきであろうか。そうであるならば、行われなければならない雑事は如何であろう。処分を蒙るために入れ奉る」という。御報に言ったことには「必ず早く参入しなければならない。しかし、体調がすぐれないため、参入することができない。ただし、今日のことは旧例によって行われるように」という。(『九条殿記』)

12月22日 陰陽寮が伊勢斎王を卜定する

承平五年(935)12月22日、陰陽寮が伊勢斎王を卜定すべきことについて勘申し終えた。藤原忠平は、天平勝宝・天長の例により、前斎王が入京した後で定めるべき状を仰せた。(『貞信公記』)

承平六年(936)

10月11日 葛木茂経が翌年の謬暦を大春日弘範に作らせることを申請する

10月11日丙寅、権暦博士葛木茂経は翌年の謬暦を暦博士大春日弘範に造進させることを申請した。(『日本紀略』)

承平七年(937)

10月2日 暦博士二名が翌年の暦について勘問を受ける

承平七年(937)10月2日辛巳、右大臣が左仗に着し、暦博士二人を召して来年の暦について勘問した。申したことは同じではなかった。(『日本紀略』)

10月13日 太宰府に唐暦を進上させる

承平七年(937)10月13日壬辰、太宰府に伝えて、大唐の今年と来年の暦本を進上させた。(『日本紀略』)

承平八年/天慶元年(938)

4月15日 陰陽寮が地震について吉凶を占う

4月15日、大地震が起こり多数の建物が倒壊した。死者が出たことによって触穢となり、賀茂祭が中止された。
陰陽寮が地震について占ったところ、東西に兵革があるということだった。(『扶桑略記』)

東では平将門の乱、西では藤原純友の乱が発生している。

8月7日 陰陽寮が鷲の怪異について占う

天慶元年(938)8月7日辛巳、大極殿の上に鷺が集まっていたので、陰陽寮を召して勘申させた。申して言ったことには「失火があります」と。蔵人に諸所の火を慎むよう召し仰せた。(『本朝世紀』『貞信公記抄』)

8月23日 陰陽寮が御禊の日時を勘申する

天慶元年(938)8月23日丁酉、刻が移ってから大納言平伊望が参入し、左近衛陣の座に着した。また、太政大臣(藤原忠平)が職曹司に参入し、伊勢斎王は来月七日に大神宮へ向かう予定であったが、陽成院の穢が宮中に及んだことにより、神祇官を召して軒廊御卜をさせた。申して言った。「穢により、来月七日の御禊は延期すべきです」。また、陰陽寮を召して日時を勘申させた。来月十五日になった。(『本朝世紀』)

同年9月15日己未、葛野川において斎王御禊が修せられた。(『本朝世紀』)

10月17日 造暦の異論

天慶元年(938)10月17日庚寅、天が晴れた。また、大納言(平)伊望卿は今日諸卿とともに明年の暦本が同じではないことについて定められた。その故は、博士大春日朝臣弘範が造り進めた暦の日数は三百八十三日で正月小、二月大、三月小、四月大、五月小、六月小、七月大、閏七月小、八月大、九月小、十月大、十一月小、十二月大であった。
権(暦)博士葛木茂経が進めた暦本では、三百八十四日で正月大、二月大、三月小、四月大、五月小、六月小、七月大、閏七月小、八月大、九月小、十月大、十一月小、十二月大であった。
弘範朝臣は癸卯を今年十二月の晦日とし、甲辰を明年正月の朔日とした。すぐに申して言ったことには「正月朔日には日蝕があります。正見するでしょう。そこで、退き定めました」という。
茂経宿禰は壬寅を今年十二月の晦日とし、癸卯を明年正月の朔日とした。すぐに申して言ったことには「彼の朔日に正見はありません。更に、進退しません。月は陽暦に在ります。たとえ蝕があったとしても、日の入りは酉初一分、初は酉一刻です。正見することはありません。ましてまた、月は陽暦に在ります」という。(『本朝世紀』)

10月19日 葛木茂経が造進した暦本が用いられることになる

天慶元年(938)10月19日壬辰、陰陽寮の暦博士二人が異論のことを申した。(葛木)茂経の本を用いることにした。民部卿(平伊望)がこれを行った。(『貞信公記抄』)

11月1日 御暦奏が延引される

天慶元年(938)11月1日甲辰、晴れ。今日は御暦奏の日であったが、暦本が一定しないため延期となった。(『本朝世紀』)

11月4日 御暦奏の過状

天慶元年(938)11月4日丙午、大納言平伊望が大外記三統公忠に仰って言った。「去る一日、陰陽寮は御暦を奏さなかった。これは彼の寮の過失である。十月十九日に(葛木)茂経の本を用いるとの宣旨が下されていた。徒然に日々を送り、期日を待ってこのことを申した。召問すべきだが、今日は日が暮れたので、召問に堪えない。」。(『本朝世紀』)

11月7日 御暦奏の過状

天慶元年(938)11月7日庚戌、午の刻、大納言平伊望が宜陽殿の西廂の座に着した。弁官の申文があった。また、大外記三統公忠は陰陽寮が去る一日に御暦を奏さなかったことについての勘文を奏覧し、良久上卿に仰って言った。「早く彼の寮に過状を進めさせるように」。(『本朝世紀』)

11月9日 陰陽寮が暦を奏上しなかったことについて過状を求められる

天慶元年(938)11月9日壬子、陰陽寮が朔日に御暦を奏さなかったことについての過状を進めた。御暦預助出雲惟香・少属中臣嘉真の両人が加署した。上卿が大外記三統公忠に仰って言ったことには「すぐに一官の加署を進めるように」。陰陽寮大属平野茂樹を召して返給した。(『本朝世紀』)

12月1日 御暦奏

天慶元年(938)12月1日甲戌、中務省が御暦を奏上するために、陰陽寮を率いた。暦博士等がこれに伺候した。
陰陽権助文宿禰武兼、権暦博士葛木宿禰茂経、陰陽大属平野茂樹、少属中臣嘉真等である。諸卿は参らなかった。そこで、召使をして納言以上に事情を申させた。酉四刻、大納言平伊望卿が参入した。(『本朝世紀』)

12月15日 月蝕

天慶元年(938)12月15日戊子、雪が降った。卯の刻、中納言藤原実頼・参議紀淑光が着し、除目のことがあった。今夜、亥の刻に月食があった。まず権暦博士外従五位下葛木茂経が勘文を進めた。「今年の十二月十五日戊子の夜、月が五分の四半強蝕まれる。亥初刻に一分、亥一刻に三分、亥二刻に四分蝕む」。月は陽暦にあり、東北から起こり、正北で甚だしくなり、西北へ戻る。ただし五分の四はわずかに三分の一に及び、その蝕は甚だ少ない。天道の玄には遠いが、術の妙を経て寸分も違わない。時の好事者である。件の勘文により、夜通し効験があった。ほんのわずかな差異もない勘文であった。茂経は賢い有識者である。(『本朝世紀』)

天慶二年(939)

1月1日 陰陽官人が遅参する

天慶二年(939)1月1日癸卯、朱雀天皇が紫宸殿にお出ましになった。諸司に緩怠があった。左近は当色がないと称し、遅く開門した。陰陽寮の官人が遅参した。このようなことにより、刀禰は遅引した。(『貞信公記抄』)

3月22日 兵乱の祈祷について

天慶二年(939)3月22日、藤原忠平は惟香・武兼を召して兵乱を祈ることについて問うた。武兼が申して言った。「太一式祭がもっともよろしいでしょう」。忠平は奉仕すべき状を仰せた。(『貞信公記抄』)

5月16日 太一式祭

天慶二年(939)5月16日丁巳、八省院において太一式祭が修された。(『貞信公記抄』)

6月15日 陰陽寮が祈雨について感応の優劣を占う

天慶二年(939)6月15日乙酉、陰陽寮を召して御卜が行われた。祈雨の御読経・御修法について、感応の優劣を占った。(『本朝世紀』)

6月21日 群盗追捕

天慶二年(939)6月21日辛卯、政があった。相模権介是茂、武蔵権介小野諸興、上野権介藤条らに件の国々の群盗を追捕するよう官符を下した。上野の符の捺印が漏れていたので、外記が上卿にこのことを申して結政印を請うた。また、東海・東山道・丹波国ならびに山陽・西海などの府国へ神仏に祈り警固を勤めるよう五通の官符に捺印した。件の官符は、去る十五日に三ヶ所で虹があったことについて御卜を行ったところ、東西で兵革があると奏したからである。(『本朝世紀』)

6月29日 葛木茂経が日食の予定を申す

天慶二年(939)6月29日己亥、また、暦博士葛木茂経が来月一日に日食があることを太政大臣家(藤原忠平)に申した。(『本朝世紀』)

同年7月1日庚子、日蝕があった。廃務になった。(『本朝世紀』)
※『日本紀略』同日条には、「日蝕があった。廃務になった。申の刻より始まり、その時は見えなかった。あるいは言ったことには『食さなかった』という」とある。

7月2日 陰陽寮が五龍祭を行う

天慶二年(939)7月2日辛丑、祈雨のため、陰陽寮に五龍祭を修させた。また、龍穴社へ奉幣し、読経させた。未の刻に雷雨があった。(『貞信公記抄』)

同日に、祈雨のために龍穴社への奉幣が行われている。(『貞信公記』)

7月8日 祈雨について

天慶二年(939)7月8日、藤原忠平が相職をして民部卿平伊望に告げさせて言った。「祈雨のことを改めて定め行う」。晩頭、藤原忠平は外記公忠を遣わし、神祇官・陰陽寮の占文を送って言った。「左右、命に従う」。報告して言った。「前回の祈りに入れなかった諸社へ祈り申すように」。(『貞信公記抄』)

閏7月2日 陰陽寮が怪異を占う

天慶二年(939)閏7月2日辛未、卯の刻、内印の盤上に蛇が蟠居した。陰陽寮が申して言った。「口舌の病患があります」。今夜、東五条興大寺上道東南の辺りで失火があった。美作掾藤原公茂の邸宅であった。(『本朝世紀』)

11月1日 御暦奏

天慶二年(939)11月1日戊辰、諸卿が宜陽殿に着座し、御暦が奏された。(『本朝世紀』)

12月5日 陰陽助惟香らが高机を持参する

天慶二年(939)12月5日辛丑、陰陽助惟香が陰陽允・陰陽属などを率いて、新暦を置く高机を持ってきて言ったことには「三宮に准うよう宣旨がありました」ということだ。藤原忠平はその由を聞いたが、はっきりとは答えなかった。(『貞信公記抄』)

12月30日 藤原忠平が賀茂忠行を召す/追儺

天慶二年(939)12月30日丙寅、藤原忠平は賀茂忠行を召し、もし功があれば殊に賞すること、貞救師を講じて長谷寺の御立願のことを仰った。(『貞信公記抄』)

また、公卿が参入し、追儺・大祓が通例通り行われた。(『本朝世紀』)

天慶三年(940)

1月1日 七曜暦奏

天慶三年(940)1月1日丁卯、御杖ならびに御暦奏はみな内侍所に託された。腹赤奏はなかった。(『園太暦』)

天慶四年(941)

7月17日 賀茂保憲が翌年の御暦および頒暦本を作成する

7月17日乙亥、暦博士大春日弘範は暦生賀茂保憲とともに翌年の御暦ならびに頒暦本を造進した。(『符宣抄』)

8月7日 陰陽寮の勘文が奏聞される

天慶四年(941)8月7日甲午、陰陽寮の勘文の奏聞があった。(『九暦』)

11月1日 御暦と頒暦が進上される

11月1日丁巳、御暦の奏上と頒暦の奏上が行われる予定だったが、天皇が出御されなかったので、頒暦は外記省に進上し、御暦は内侍に託して奏上した。料紙が足りなかったので、十一巻だけを造進した。(『本朝世紀』)

天慶五年(942)

3月16日 陰陽寮が臨時御読経の日時を勘申する

天慶五年(942)3月16日庚午、臨時御読経の僧を請うことと日時を定めることになった。
陰陽寮が日時を勘申した結果、来たる25日巳二刻に発願し、28日巳二刻に結願することになった。(『本朝世紀』)

同年3月25日乙卯、この日、仁寿殿において臨時御読経が行われた。発願は巳二点。(『本朝世紀』)

3月19日 天文家が天変・地震の吉凶を占う

天慶五年(942)3月19日癸酉、天変・地震により天文陰陽道が勘申したところ、兵事・水旱の災いの兆しがあり、巽・乾の方角に兵革・疾疫の兆しがあると申した。そこで、神祇官において祭主大中臣頼基が祓を行った。(『本朝世紀』)

閏3月20日 陰陽寮が仁王会の日時を勘申する

天慶五年(942)閏3月20日癸卯、午後、大納言藤原実頼・参議伴保平宿禰・源庶明が参入し、宜陽殿の座に著した。仁王会の日時が定められた。陰陽寮が来たる26日に修されるべきだと勘申した。(『本朝世紀』)

閏3月26日己酉、仁王会が修された。巳二刻に発願し、申二刻に結願した。(『本朝世紀』)

4月10日 陰陽寮が伊賀国・出雲国の怪異について占う/陰陽寮が諸々の行事を行う吉日を勘申する

4月10日癸亥、陰陽寮は神祇官とともに撰国史所において伊賀国・出雲国の怪異について占った。
また、陰陽寮は伊勢大神宮に諸社奉幣使を派遣する吉日、賀茂行幸の吉日、宇佐八幡使を派遣する吉日、廣瀬龍田祭を行う吉日を勘申した。伊勢大神宮は4月14日、廣瀬龍田祭は4月16日、宇佐八幡使は4月27日、賀茂行幸は4月29日となった。(『本朝世紀』)

伊勢大神宮奉幣:東国・南海の賊徒を平定したため(『日本紀略』天慶五年〈942〉4月14日条)
宇佐八幡使発遣:東西の賊徒を討伐・平定したことに対する報賽(『日本紀略』同年4月27日条)
賀茂社行幸:兵乱平和の報賽(『日本紀略』同年4月29日条)

4月14日丁卯、伊勢大神宮などの奉幣が行われた。(『日本紀略』)
4月16日己巳、廣瀬龍田祭が行われた。(『日本紀略』)
4月27日庚辰、宇佐八幡宮、香椎廟に奉幣使が発遣された。(『日本紀略』)
4月29日壬午、朱雀天皇が賀茂社へお出かけになった。(『日本紀略』)

天慶六年(943)

5月?日 陰陽寮が五龍祭を修する

この月、石清水・賀茂上・賀茂下・松尾・平野・稲荷・春日・大原野・住吉・大神・比叡の11社で御読経が行われた。それぞれ僧十口を率いた。また、五龍祭を行った。(『北山抄』)

5月27日 陰陽寮が使者を先皇后陵に派遣する日時を勘申する

天慶六年(943)5月27日甲辰、陰陽寮が使者を先皇后陵に遣わす日時を勘申した。(『九暦』)

天慶七年(944)

9月14日 陰陽寮が季御読経の日時を勘申する

天慶七年(944)9月14日、陰陽寮は季御読経を行う日時を勘申した。(『九暦』)

天慶八年(945)

1月5日 陰陽頭文武兼が右大臣大饗に召される

天慶八年(945)1月5日壬寅、朝陰り、晩に晴れた。早朝、(藤原師輔は)殿に参った。巳の刻に退出した。
今日、右大臣(藤原実頼)の大饗があった。午の刻、かの殿〈小野家〉に向かった。請客使内蔵頭朝忠朝臣が帰って来た。「左大臣(藤原仲平)は固い御物忌により、消息を申すことができない」という。
未の刻、納言以下が座を起った。西中門から入り、南庭に列立した。参義以上の一列、弁・少納言の一列、外記・史の一列である。大夫外記もこの列にいた。ならびに北面東上〈大納言が一客であった時、主人と共に昇った。また、後に昇った。〉これより前、主人大臣が南階の東掖に立った。立ち定まり、共に拝礼した。
主人が答拝し、共に会釈して立った。(中略)しばらくして、陰陽頭文宿禰武兼・散位六人部宿禰三常を召した。(『九条殿記』)

2月6日 平野義樹が斬草祭を奉仕する

2月6日、陰陽允平野義樹が斬草祭を奉仕した。(『吏部王記』)

7月2日 陰陽寮が干ばつについて吉凶を占う

天慶八年(945)7月2日丙申、大納言藤原師輔が仰せを奉った。「神祇官・陰陽寮に御卜をさせよ。雨が降らなくなって久しい。もしや、祟りがあるのではないか」と。(『貞信公記抄』)

7月5日 陰陽寮の勘申によって祈雨奉幣が定められる

天慶八年(945)7月5日己亥、陰陽寮が占い申したことにより、賀茂・稲荷の二社に奉幣し、雨を祈った。大納言藤原師輔がこれを行った。(『貞信公記抄』)

同年7月12日、甘雨が降った。(『貞信公記抄』)

7月19日 明経得業生が天文道を学習することになる

天慶八年(945)7月19日癸丑、明経得業生十市部以忠に天文宣旨が下された。弁官がこれを奉った。主計頭兼助教左京権亮良佐宿禰の息子である。去る延長八年七月十四日の宣旨で天文奏者に進んだ。そこで申文を奉り、以忠を薦めた。大納言(藤原師輔)が大外記三統宿禰公忠を召し、問うて言ったことには「天文道を習わせる宣旨について、外記が奉るのか、弁官が奉るのか」と。公忠宿禰が申して言ったことには「藤原三仁、同義柄、同時柄の天文宣旨は弁官が承りました」という。この申文は、蔵人頭左近中将藤原師尹が大納言に給わった。(『本朝世紀』)

8月29日 陰陽寮が止雨使発遣の神社について占う

天慶八年(945)8月29日壬辰、権少外記賀茂安国を召し、8月・9月に止雨使を神社に発遣した例を勘申するように仰せがあった。年々の日記を引くと、先例があった。そこで陰陽寮を召し、止雨使を発遣する神社を占わせた。(『本朝世紀』)

9月8日 平野茂樹が藤原忠平の着服日を勘申する

天慶八年(945)9月8日辛丑、家の中で裁縫した。戌の刻、着服した。(平野)茂樹が選び申した。物忌によるものである。(『貞信公記抄』)

11月1日 御暦奏

天慶八年(945)11月1日甲午、朱雀天皇が紫宸殿にお出ましになった。御暦奏が行われた。御物忌によりお出ましにならなかった。中納言藤原顕忠は蔵人左衛門尉平善理に奏させた。内侍所に託すよう勅答があった。上卿が外記三統宿禰公忠を召し、御暦を内侍所に託すよう仰せられた。(『本朝世紀』)

12月30日 追儺

天慶八年(945)12月30日壬辰、朱雀門において大祓が修された。例年通り追儺が行われた。(『本朝世紀』)

天慶九年(946)

3月8日 陰陽寮が季御読経を行う吉日を勘申する

天慶九年(946)3月8日、陰陽寮は春季御読経を行う吉日を勘申した。(『小右記』長和二年〈1013〉7月3日条)

同年3月20日辛亥、季御読経が始まった。(『日本紀略』)
同年3月23日、季御読経が結願した。(『日本紀略』)
※『貞信公記抄』には、3月15日丙午に春季御読経が始まったとある。

陰陽師たちの活動年表

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淳和天皇-宇多天皇天長三年(826)-延喜二十年(920)

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醍醐天皇-朱雀天皇延長元年(922)-天慶九年(946)

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村上天皇天慶九年(946)4月20日-康保四年(967)5月25日

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冷泉天皇-花山天皇康保四年(967)5月25日-寛和二年(986)6月23日

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一条天皇寛和二年(986)6月23日-寛弘八年(1011)6月13日

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三条天皇寛弘八年(1011)6月13日-長和五年(1016)1月29日

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後一条天皇-後朱雀天皇長和五年(1016)-長暦三年(1039)

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