陰陽道のはじまりはいつ?
かつて、陰陽道は中国の陰陽五行説から生まれた技法を取り入れて日本流に改編・応用されたものと思われていた。
ところが、近年では「陰陽道」という言葉は中国では用いられておらず、陰陽道は中国にはない日本独自のものであり、単純に中国から来たものだとすることはできないと考えられるようになった。
一般にイメージされている陰陽師は主に安倍晴明らが活躍した10世紀以降の存在であり、それ以前の時代では"陰陽道"という言葉そのものが存在しなかった。
古墳時代
百済から技術者が派遣される
陰陽道が知られるようになるのは7世紀末以降だが、この頃から東アジア世界との交流の中で術数関連の知識が日本に伝来した。
欽明天皇の時代では百済から医博士・易博士・暦博士らが交代で派遣されていた。
継体天皇七年と十年、百済から五経博士が派遣される。
欽明天皇十四年(553)6月、五経博士交代の時期が来たため、新たに百済へ医博士・易博士・暦博士等の派遣と卜書・暦本・種々の薬物の送付を依頼している。(『日本書紀』欽明天皇十四年〈553〉6月条)
また、欽明天皇十五年(554)2月には、易博士施徳王道良・暦博士固徳王保孫・医博士奈率王有悛陀、採薬師施徳潘量豊・固徳丁有陀らが来朝した。(『日本書紀』欽明天皇十五年2月条)
『周書』によると百済は陰陽五行への理解が深く、宋の元嘉暦を用いたという。
また、『北史』百済伝でも陰陽五行の法を知るとあった。
飛鳥時代
百済から伝来した技術を学ぶ
推古天皇十年(602)冬、百済僧観勒が来朝して暦本・天文地理書・遁甲法術書を献上してきた。
朝廷では書生三・四人が選出され、これらの技術を観勒から教わった。陽胡史の祖玉陳は暦法、大友村主高聡は天文・遁甲の法、山背臣日立は方術を学んだ。(『日本書紀』推古天皇十年十月条)
広い意味では日本の陰陽道のはじまりともいえるが、この時代にはまだ陰陽師という職掌はなく、代わりに僧侶が技術を伝授されていた。
旻(みん)
舒明4年(632)、僧旻が25年に渡る留学を終えて随から帰国し、中大兄皇子や中臣鎌足に『周易』を伝授した。
舒明9年(637)2月、大星が雷のような音とともに東から西へ流れる天変が起こった。
人々はこの音を流星の音だとか地雷であると騒いだが、旻は天狗の吠声が雷のように聞こえただけだと言った。
舒明11年(639)1月、旻は西北に現れた長星について彗星であると判断し、彗星が現れると飢饉が起こると言った。
天狗は『史記』天官書に「天狗、状は大奔星の如し。声あり、その下れば地に止まり狗に類す」という記述があり、彗星は『天文要録』に「彗星西北に出ずれば大水、五穀収らず。人民大いに飢う」とある。旻が随で天文学を学び帰国したことを示している。
聖徳太子
聖徳太子は天皇を中心とする統治体制を作るべく、冠位十二階や十七条憲法を制定した。
これらの制度は儒教ではなく陰陽五行説に基づいた制度ではないかと指摘された。
冠位十二階
冠位十二階は、六種の徳目を大小二階に分けて合計十二階とする制度である。
筆頭に徳を置き、仁礼信義智の五常の徳目の序列となっている。
儒教に沿うならば下位の冠位の五行が上位の冠位の五行を次々に剋する相克の並びとなるが、聖徳太子の仁礼信義智は冠位の五行が次のものを生み出し調和循環する相生の並びとなっていた。
聖徳太子は『管子』という法家の思想書で説かれている五行説に依ったものではないかと考えられている。彼がつくろうとした天皇中心のピラミッド型政治体制は、まさしく法に基づく信賞必罰の政治によって中央集権体制を確立しようとした漢代の政治であった。
天武天皇
『日本書紀』によると天武天皇は天文・遁甲に精通しており、自ら式盤を操作して占うほどの腕前であったという。
壬申の乱の際、彼は黒雲の異変を見て「天下が二分されるしるしだが、最後には自分が天下を取るだろう」と占った。
僧侶たちが還俗し、陰陽寮職に就く
持統天皇六年(692)、陰陽博士沙門法蔵(百済の人物で、天智朝の亡命者の一人)と道基が銀二十両を賜る。(『日本書紀』持統天皇六年二月丁未条)
陰陽寮
天武4年(675)1月、『日本書紀』に陰陽寮が大学寮諸学生や外薬寮と共に薬や珍異を天皇に進めたと記載がある。また、占星台(天文台)を建てたという記述もある。
天武13年(684)2月、広瀬王らと陰陽師が畿内に派遣され、都とする地の適否を占う。
奈良時代
陰陽寮の成立
大宝律令が制定され、律令国家が誕生した。
これに伴い、唐の太史局や太卜署などを参考に、陰陽寮が設置された。
そして、僧侶や尼僧が天体観測や占いをすることは禁じられ、彼らが行っていた諸術は陰陽寮に引き継がれた。
勅命を受けて、還俗する僧侶もいた。
・僧尼が天体観測を行い災祥を仮説して、国家及び民衆を惑わせたり、兵書を習い読み悪事を働いた場合は罰される。(『養老僧尼令1観玄象条』)
・僧尼が吉凶を占ったり、巫術を用いて病を治療するのなら、還俗しなければならない。(『養老僧尼令2卜相吉凶条』)
初めのうちは、天体に異変が見られたとき、災いを防ぐために用いられたのは陰陽道ではなく誦経が用いられることもあったが、次第に陰陽寮の官人が関わることが増えていく。
大史(陰陽寮)曰く、来年は水旱・疫病などの災に見舞われるというので、摩訶般若波羅蜜多経を読誦させることにした。(『続日本紀』天平宝字二年〈758〉8月18日条)
陰陽道存続の危機
太政官曰く、生徒たちは学習を始めてからずいぶん経つが、一向に習熟しない。陰陽・医術及び七曜・頒暦などの技術は国家を支える要となる技術であるのに、このままでは廃れてしまう。諸博士も年老いたが、技術を途絶えさせないために、弟子を取らせることにする。(『続日本紀』天平二年〈730〉三月辛亥条)
陰陽寮職員の官位
最も高位である陰陽頭でも貴族のうちで最も低い位階である従五位以下に留まっている。
次官の陰陽助はすでに貴族の範疇から外れ、陰陽博士や天文博士はさらに低い正七位以下、陰陽師は従七位上となっている。
ただし、晴明らの時代以降は陰陽道の重要性が認識されて重用されるとともに官位も上昇していく。
室町時代には高級貴族に値する三位にまで上り詰める。
吉備真備
天平6年(734)、留学生・下道真備(後の吉備真備)が唐から帰国。
真備は唐の現行暦法である大衍暦や測影鉄尺(東西南北の方位を測る機器)などの陰陽寮関連の器具などのあらゆる方面の文物を伝えた。
『私教類聚』
『私教類聚』は真備が子孫に残した教訓書である。
真備は「五行説や暦注の吉凶説、方角神の所在の太要は把握しておくべきだが、専業すべきではない」と述べている。
また、彼は北斉の顔之推の『顔氏家訓』を引用して「世に伝えて云う。陰陽を解する者は鬼の嫉むところ」と述べ、陰陽寮関連学術や術数の有用性を認めながらも、その術にのめり込むことの危うさを指摘している。
平安時代
延暦年間(782〜806)になると、祟りや怪異の記事が頻出する。
国家的な災いは神祇官と陰陽寮の両者が原因を占い、怪異は陰陽寮が占うことになっていた。
桓武天皇
百済系の高野新笠を生母とする桓武天皇は渡来氏族の血を引き、儒学や中国文化に通じていた。
即位後は『春秋公羊伝』『礼記』などの儒教経典の文章を利用し、郊祀(天帝を祀る中国式の大礼)を行うなど、唐の文化や制度の導入に務めた。
そして、その政策は平城・嵯峨・淳和の三天皇にも受け継がれることとなる。
しかし、三天皇は陰陽道的な禁忌・暦注の類をよく思わなかった。
平城天皇は、根拠のない偽りを唱える陰陽師に依拠するには足りないという理由から暦注を廃止した。
「日柄の吉凶によりさまざまな不都合が生じ、いい加減な卜占により多くの忌事が出来している。
『日本後紀』弘仁元年九月二十八日条 より
また、干支による占いがあれば、歳星の位置による禁忌の説があり、五辰に発する天の下す恩沢の日があれば、四仲を行く将軍による禁忌もある。これらはいずれも卜占の雑書に由来するもので、正しいことを説く書物が出典となっていない。賢い聖人の言葉に従い、すべて吉凶関係の註記(暦注)は暦から除去せよ」
だが、病弱であった平城天皇は在位わずか3年で皇位を弟の嵯峨天皇に譲った。
嵯峨天皇は空海が持ち帰った密教には心を寄せる一方で、陰陽道に対しては懐疑的であったが、公卿たちの強い要望により弘仁元年(810)、具注暦の暦注を元に戻した。
嵯峨天皇の後継となった淳和天皇もまた、合理的な考えの持ち主であった。
彼は子息の恒貞親王に『礼記』から「葬は蔵すことなり。人に見せないものである」という言葉を引用し、散骨葬の指示をしていた。
予聞く。人没して精魂天に帰る。而して空しく冢墓存し、鬼物憑く。終に乃ち祟りをなし、長く後類をのこす。今よろしく骨を砕き粉となして、これを山中に散ずべし。
『続日本後紀』承和七年五月辛巳条
淳和天皇は自分の死後、祟りになったと言われないようにするための遺言であった。
彼は災害や怪異はあくまでも天の戒めであり、政治的な問題だと考えていたからである。
近臣の藤原吉野は天皇の散骨や山陵を作らない例はないと反対したが、淳和天王は兄・嵯峨上皇の裁可を被るべきであると命じて没した。
淳和の遺言通り、彼の遺骨は都の西にある大原西山嶺上に撒かれ、祟りとして史料に現れることもなかった。
しかし、有力公卿、とくに藤原北家の良房が陰陽道禁忌を推進した。
藤原氏による政治の私物化・専制化の中核となっていく家系。
後に天皇の外戚となって摂関政治をほしいままにし、近衛家・鷹司家・九条家・二条家・一条家の五摂家へ発展していく。晴明が仕えた藤原道長も、この北家の出身である。
藤原良房
嵯峨天皇は自分の葬儀や周忌について「自分の本命日だからといって、寅の日を避けてはならない」と遺詔していたが、承和10年(843)7月15日の周忌斎会がちょうど寅の日となった。
そこで、嵯峨院の本命日である寅の日を開けたほうがよいと主張する禁忌重視派と嵯峨院の遺詔に従い斎会を行うべきだと主張する嵯峨側近たちが対立した。最終的には禁忌重視派の主張が通り嵯峨天皇の意向は無視されてしまったのだが、この背景には藤原北家の良房の意向があったと考えられている。
さらに良房は、物の怪の出現を亡者の祟りとするのは謂れのないことであると言った嵯峨天皇の遺誡を否定するために文章博士の春澄宿禰善縄と大内記の菅原是善らに命じ、嵯峨天皇の第二皇子である仁明天皇に嵯峨院の遺誡を排すべきだと奏上させた。
こうして「神霊や物の怪などの祟りは実在する脅威で、その原因を探るために行う卜定や寮占は正当なものである」というのが朝廷の公式見解となり、陰陽道が栄えるための下地が整ったのであった。
早良親王の祟り
延暦4年(785)9月、桓武天皇の弟・早良親王は桓武の腹心で長岡京造営の責任者だった藤原種継の暗殺事件に連座し、皇太子を廃された。
その後、早良親王は淡路国に配流される途中で絶食し命を絶つ。
だが、彼の没後に桓武夫人・藤原旅子、母・高野新笠、皇后・藤原乙牟漏、夫人・坂上又子などの近親の死が続き、早良親王に替わって皇太子となっていた安殿親王の病気が早良の祟りによるものであるとされ、早良親王は怨霊神として恐れられた。
延暦19年(809)7月、桓武は早良親王を崇道天皇と追称する。
そして井上内親王を皇后に復して両者の墓を山稜とし、寺院を建立して怨魂を慰めた。
このように災いが怨霊の仕業とされると、頻繁に卜占が行われるようになった。
淳和天皇の時代以降、それらは『怪異』あるいは『物の怪』と称されるようになる。
『物の怪』は怪異のことで、不可解な自然現象の類。『物の気』は特定の死霊や生霊の祟りのことである。
怪異を特定の”モノ”が指し示す災いの前兆とする認識から、怪異を物の怪と呼ぶようになった。
陰陽道の隆盛
律令制の崩壊が進み、藤原北家が勢力を拡大していく過程で陰陽道の官僚的活動もその性格を変え、宮廷人の教養的有識的教養へ発展していった。
9世紀半ば〜10世紀にかけて、陰陽師のイメージを形成した「占いによって怪異などの原因を解明し、対応する祭祀呪法を行う」という活動が本格化していき、陰陽師は貴族社会を支える呪術師として定着していく。
また、公卿たちは祭祀だけでなく年中行事や冠婚葬祭においても陰陽師による日時の勘申を求めた。
日々具注暦の吉凶注を生活の指針としていた平安貴族たちは、何事も陰陽師の占いで決めようとしていたので、陰陽家は貴族たちにとってなくてはならない存在となった。
陰陽道の隆盛は現職の陰陽師に限らず、かつて陰陽師や陰陽博士として勤務していたが他の役所に転じた者たちも陰陽師として重用する流れを生み出した。
蔵人所陰陽師
陰陽寮から独立した天皇直属の陰陽師。
陰陽師の中でも傑出した者が選出され、天皇および天皇家の直属機関である蔵人所に勤務した。
天皇の代替わりごとに新たに選出される。
天暦年中(947〜957)、村上天皇の蔵人所陰陽師となった平野茂樹が史料上における初の蔵人所陰陽師である。
平野以降は晴明が一条天皇の蔵人所陰陽師となり、晴明以後も諸天皇の代替わりごとに蔵人所陰陽師が選任されたが、これらは皆安倍氏または賀茂氏の上臈陰陽師が独占していた。
また、天皇だけでなく、藤原氏などの高位の公卿も上臈陰陽師を重用した。
民間陰陽師
上記のような官人陰陽師とは別に民間の陰陽師も存在した。
呪術や占いを得意とする密教系の僧侶が民間陰陽師として活動していたのではないかと考えられている。
彼らは民間を仕事の場としているため表舞台には登場しないが、さまざまな説話が残されている。
太一式盤の焼失
安倍家・賀茂家による陰陽道支配体制の確立
寛仁2年(1018)に安倍章親が天文博士に任ぜられ、安倍氏が天文博士と権天文博士を独占するようになる。
次いで賀茂氏が暦博士と権暦博士を独占し、安倍家と賀茂家が陰陽博士を専有としたことによって陰陽道・天文道・暦道が安倍家と賀茂家によって独占された。
安賀両家(安倍家と賀茂家)による陰陽道の独占が始まってから鎌倉時代に至るまでの約140年間の陰陽頭は賀茂氏が10名、安倍氏が4名であった。
しかし、鎌倉時代に入ると賀茂氏が12〜13名、安倍氏が17名となり、勢力が逆転する。そして、鎌倉時代から江戸時代にかけては安賀両家から安倍氏(土御門氏)に一極集中していく。
安倍氏が陰陽道を独占する過程で、安倍泰親は晴明以来の傑出した陰陽師といわれた。
安倍泰親
「この泰親は、晴明五代の苗裔をうけて、天文は淵源を極め、推条掌をさすが如し。一事も違わざりければ、指神子よぞ申ける。雷の落ち懸かりたりしかども、雷火の為に狩衣の袖は焼けながら、その身は恙も無りけり。上代にも末代にも有がたかりし泰親なり。」
『平家物語』巻三
泰親の実力は神子の域に達していたとまでいわれた。
承安4年(1174)6月、泰親邸に落雷があったが当の泰親は雷による被害を受けることなく、狩衣の袖が焼けただけであった。
また、康治2年(1143)12月、泰山府君祭が行われる予定であったが雪が降っていた。
ところが、泰親が川原で祈ると雪が晴れたので、泰親を重用していた藤原頼長は感激したという。
参考資料
「陰陽道の本―日本史の闇を貫く秘儀・占術の系譜」 (NEW SIGHT MOOK Books Esoterica 6) 学研プラス、1993年
山下克明「陰陽道の発見」NHK出版 、2010年
藤巻一保 「秘説 陰陽道 」戎光祥出版、2019年