陰陽道

陰陽道の歴史―時代とともに変化する陰陽道・後編(鎌倉時代~)

鎌倉時代

武士階級が力を持ち始め、公家の総体的な地盤沈下に伴い武家は公家の行動規範を左右していた陰陽道をも取り込んでいく。

武家政権である鎌倉幕府の成立後、陰陽道は幕府を守護し存続させるために機能するようになる。
陰陽道を支配する立場でありながら逆に支配されてしまった公家とは異なり、武家は陰陽道を支配し続けていた。

彼らにとっては、敵に勝つための霊的攻撃や霊的防衛などに効果があり、自らの意向に従う宗教であればどのようなものでも良かったともいえる。

鎌倉時代でも安倍家は有力な人材を輩出し、幕府の支持を得て関東にも勢力を伸ばした。
一方、賀茂家は凋落傾向にあった。

鎌倉幕府の歴代将軍は皆、京都から陰陽師を呼び寄せてさまざまな祭祀や祈祷を行わせて政権の安定を図った。

源頼朝

討伐の決行日を陰陽道占術の達人である佐伯昌長に卜筮で占わせ、その日取りに合わせて決行した。

また、決行日の前夜に天曺地府祭を挙行している。
この儀式が士気を高め、当初劣勢とされていた頼朝は富士川の戦いに大勝、その勢いに乗じて平家を滅亡させるに至った。

天曺地府祭

天皇が一代一度に限って行う祭祀。
古代中国において、これを行わなければ真の皇帝にはなれないとされた封禅の儀に相当する重要な儀礼であった。

源実朝

承元元年(1207)、鎌倉に疫病が流行した際、源実朝は京都から陰陽師・安倍維範を呼び、疫病封じの呪術を行わせた。
承元4年(1210)、将軍家の安泰を祈祷させるために維範の父・資元にも泰山府君祭を奉斎させた。

さらに、専属の陰陽師として安倍泰貞を重用し、異変があるたびに属星祭を行わせた。

承久の乱

幕府は安倍親職などの錚々たる陰陽師を招集し、卜筮で占わせた。
幕府側が勝利するとの結果が出たので、陰陽師たちは密教修法を交えた前代未聞の100日間連続の天曺地府祭を執り行った。

朝廷側もまた宮廷陰陽師に幕府調伏の祭祀を行わせていたので、承久の乱は幕府と朝廷の戦いであったと同時に、陰陽師同士の対決でもあった。

蒙古襲来

鎌倉末期に突如として起こった蒙古襲来は陰陽道・密教・神道関係者を日夜祈祷調伏に狂奔させた。
神風によって元寇を凌いだものの、国防に膨大な負担を強いられることとなり、鎌倉幕府は滅亡の道を辿ったのであった。

室町時代

幕府の執権の場を京都に置き、朝廷もその支配圏内に置いたことから公家の伝統と結びつき、その影響を受けることとなった。
幕府や朝廷に支配されていた鎌倉時代までとは異なり、室町時代からは陰陽道が一般にも普及し始める。
陰陽道の秘伝写本が密かに出回るようになり、陰陽道を集成した書である『簠簋内伝』もこの時期に広まっている。

武家社会は内紛と策謀によって武力の分散化が進み、陰陽師は将軍家だけでなく守護大名や公卿のカウンセラー的な存在となる。
安倍家は土御門家を名乗るようになり勢力を保つ一方で、賀茂家は勘解由小路家を名乗ったが、直系の嗣子が殺害されたことによって後継が途絶えてしまった。
このことによって、土御門家が暦博士と天文博士を兼務するようになった。

また、陰陽道は華道や茶道などの芸事や歌舞伎などの芸能関係の成立に大きな影響を及ぼすとともに、思想面では両部神道、伊勢神道、吉田神道などの中世の神道各派の確率にも役割を果たした。

後醍醐天皇

後醍醐天皇は古代天皇の時代の親政復活を目指して、荼枳尼天法を修した。
一方で、加持力を高めるために異端系密教僧の円観や文観を従え、真言立川流の奥義に没頭した。
天皇の下では有象無象の陰陽師や芸能民たちが暗躍し、後醍醐天皇は建武の中興に成功する。

だが、足利尊氏が謀反をおこして京都を制圧したことによって、後醍醐天皇は吉野へ退いた。

足利義満

足利義満の時代、安賀両家は従三位に昇進する。
陰陽道は晴明14代目の嫡孫・安倍有世の系統、晴明13代の嫡孫・安倍泰宣、賀茂氏嫡流の賀茂在弘の系統の二家三系が突出していた。
特に、安倍有世は陰陽家で初めて義満の御所への昇殿を許された。これは、義満が天命を受けて政治をできる王であることを示す意図があったと考えられている。
有世は幕府と朝廷のために占いや祭祀を執り行い、名声を博した。

戦国時代

戦国時代は武家と公家のみならず、陰陽師にとっても混沌の時代であった。
戦国武将たちは陰陽道を士気を高めるための方策として用いた。

織田信長

織田信長は陰陽道を政治方策として利用し、弟民部の娘と土御門久脩を結婚させている。
この久脩は豊臣秀次の祈願を受けたことから豊臣秀吉に弾圧され、家伝の陰陽道史料のほとんどを失って没落した。

豊臣秀吉

豊臣秀次が起こした騒動に土御門家が加担したとして、尾張国に配流されることとなった。
この時、晴明以来の家伝書(『簠簋内伝』と思われる)を失い、現在世間で用いられているものは土御門家では偽書だということになっている。
そして、陰陽道は国家を蝕むものだという考えから陰陽道の職は尽く廃止された。
古来から続いてきた宮廷陰陽道は、この時一時的に断絶した。

徳川家康

徳川家康は陰陽道を最も政治的・宗教的に活用した人物である。
関ヶ原の戦いの後、土御門家は用がある度に京都と若狭を往復していたが、土御門家久脩が京都に戻ったことによって梅小路村に住居を構えることとなった。
家康は久脩に七日間に渡る大規模な天曹地府祭を行わせ、土御門家は再び権力を取り戻した。
さらに、家康は途絶していた勘解由小路家の代わりに幸徳井家当主友景を採用し再興した。

土御門神道の成立

土御門家は幸徳井家を圧して陰陽道の実験を握り、土御門神道を形成した。

江戸時代

陰陽道宗家の政治的影響力は絶たれ、幕藩体制を補翼する存在に留まった。
一方、陰陽道は全盛を迎え陰陽道の本流が民間に流れた。
民間陰陽師たちは諸国を巡回して暦や方角の吉凶を教え、加持祈祷によって一般庶民の支持を得た。

土御門家は幕府と朝廷から諸国の陰陽師を統轄する総元締の地位を公認され、大いに繁栄した。
天和3年(1683)の綱吉の代、徳川幕府が『諸国陰陽師支配』を認める朱印状を土御門家に与えたのである。

「御当家(土御門家)による諸国陰陽道御支配の儀は、往古より累代に渡って知られていることで、鹿苑院義満公のときに土御門に御教書をお下しなさった。諸国陰陽道管領職の御証文を頂戴して以来、土御門家ではこれを歴代の御役儀としてきたが、管領の範囲は手広く、遠国の中には政道が行き届かないところもあって、一旦は衰微するに至った。そこで天和年中に関東で御吟味の上、ふたたび綸旨と御朱印を改めて成し下されたのである。すなわち、

霊元院様御綸旨
常憲院様(徳川綱吉)御朱印

を成しくだされ、諸国陰陽道一円を念入りに調べるよう仰せいだされたのである。

「陰陽道取締条々」より

明治時代〜現在

明治3年、明治維新により近代化を進める政府によって、陰陽寮は廃止された。
土御門家の陰陽道は終焉の時を迎え、宮中祭祀に根付いていた陰陽道の要素も取り除かれ、明治創出の新しい神道が生み出される。

しかし、民間陰陽道はさまざまな分野に潜り込み、それらの底流のひとつとなって現在に至るのである。

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