大河兼任の乱は、文治五年(1189)12月から翌年3月までのあいだ、東北地方で行われた鎌倉幕府と奥州藤原氏残党の大河兼任らによる合戦である。
経過
葛西清重を奥州総奉行に任命
文治五年(1189)9月22日、源頼朝は葛西清重を奥州総奉行に任じた。(『吾妻鏡』同日条)
9月24日、頼朝は清重に平泉郡内の検非違所を管轄するよう命じた。(『吾妻鏡』同日条)
検非違所は、国内の違法行為を取り締まる機関。
大河兼任らの叛逆
12月、奥州の藤原泰衡の郎従だった大河兼任らは幕府への叛逆を企て、源義経や木曽義仲の嫡男義高を騙り各地に出没した。
さらに、兼任は自分の子供と七千余騎の軍勢を率いて鎌倉へ出陣した。
ところが、秋田大方で志加を渡ろうとした際に氷が割れて五千余人が溺死してしまった。
『吾妻鏡』では、氷が割れて多数の兵が被害に遭ったことを「天罰を受けた」と評している。(『吾妻鏡』文治六年〈1190〉1月6日条)
それでも兼任は主人の敵を討つと言って進軍し、由利維平・宇佐美実政ら御家人や雑色を討ち取った。
文治六年(1190)1月6日、御家人たちが派遣した飛脚が鎌倉に到着し、頼朝に兼任の叛逆について報告した。(『吾妻鏡』同日条)
軍勢を派遣
1月7日、頼朝は御家人となっていた兼任の弟忠季に奥州へ下向するよう命じた。
道中、忠季は兼任叛逆の噂を聞きつけ、頼朝への忠節を示すために鎌倉に戻った。
忠季の兄新田三郎入道も弟同様に鎌倉に参上し、兼任の叛逆を報告した。
頼朝は奥州へ軍勢を派遣することに決め、相模国以西の御家人に出陣するよう命じた。(『吾妻鏡』同日条)
1月8日、頼朝は軍勢を二手に分け、千葉常胤率いる東海道軍と比企能員率いる東山道軍が出陣した。(『吾妻鏡』同日条)
上野国・信濃国の御家人たちが加わる
1月13日、頼朝は上野国・信濃国の御家人へ奥州で反乱を起こしている大河兼任らを鎮圧するよう命じた。
それから足利義兼を追討使として派遣し、千葉胤正を大将軍に指名した。
胤正の申し出によって、葛西清重へ胤正とともに戦うよう手紙を送った。
奥州に所領を持つ者たちも出陣した。(『吾妻鏡』同日条)
兼任らと戦う
清重の飛脚
1月18日、清重が派遣した飛脚から兼任と御家人の合戦が始まったとの報告があった。
橘公業・宇佐美実政・大見家秀・石岡友景らが討ち取られ、由利維平は兼任の襲撃を受けて逃亡したと報告した。
清重が派遣した飛脚は二人いたが、うち一人は病気のため途中で休んでいるということだった。(『吾妻鏡』同日条)
しかし、普段から橘公業と由利維平と橘公業の考え方をよく知っていた頼朝は、維平が討たれ、公業が逃亡したのではないかと推察した。
その言葉通り、19日にやってきたもうひとりの飛脚は公業が逃亡し、維平が討たれたと報告した。聞いていた人々はみな感嘆したという。(『吾妻鏡』同年1月18~19日条)
1月27日、橘公業は兼任の包囲から離れて作戦を練ろうとしていたところ、仲間から讒言があったと聞いて鎌倉に参上した。(『吾妻鏡』同日条)
1月29日、頼朝は維平の行為は考えが足りず、公業の深い考えが正しかったのではないかと考えた。
そこで奥州へ使者を派遣し、合戦の間は皆でよくよく話し合って作戦を決めるよう命じた。(『吾妻鏡』同日条)
合戦について諸々のことを決める
2月5日、頼朝は合戦の検分を行うために奥州へ雑色を派遣した。
また、御家人たちだけで合戦が収束しないようであれば自分が出陣すると御家人たちに伝えた。
さらに、敵のいる場所を襲い、捕えたものは身分にかかわらず全員鎌倉へ連れてくるよう命じた。(『吾妻鏡』同日条)
2月6日、奥州の飛脚が鎌倉に戻ってきた。
兼任らが集まってきていると言うので、彼らの処遇をどうするか定めた。
頼朝は「叛逆者たちは基本的に死罪にするが、自ら降伏してきたものは刑を軽くする」という方針を定めた。(『吾妻鏡』同日条)
兼任の敗走
2月12日、鎌倉から派遣された御家人と兼任らが奥州で合戦を行った。
兼任が五百余騎を率いて平泉の衣川で合戦になった。
兼任らは北上川を渡って多宇末井の掛橋にある山に籠もって防戦したが、結局敗走して行方をくらました。
兼任らの郎従たちは降伏してきた者もいたが、処刑された者もいた。(『吾妻鏡』同日条)
2月23日、千葉胤正・葛西清重・堀親家らが飛脚を派遣し、合戦の結果を報告した。(『吾妻鏡』同日条)
兼任の行方
3月10日、大河兼任は花山・千福・山本などを通って亀山を越えた。
栗原寺に着いた兼任は錦の脛巾を着て帯刀していたので、これを不審に思った樵夫らに取り囲まれて斧で討たれてしまった。
樵夫らが胤正に報告したので、首実検を行ったという。(『吾妻鏡』同日条)