建久六年(1195)、源頼朝は建久元年(1190)以来の希望であった娘大姫の入内を進めるために奔走した。
頼朝の大姫入内計画
丹後局と対面し大姫の入内を依頼
建久六年(1195)3月16日の晩、源頼朝は宣陽門院の御所六条殿を訪れた。(『吾妻鏡』建久六年〈1195〉3月16日条)
宣陽門院は後白河院と高階栄子(丹後局)との間に生まれた第六皇女。建久二年より院号宣下を受けて宣陽門院と名乗るようになった。
だが、頼朝の真の目的は宣陽門院ではなく、その生母丹後局との対面だったと思われる。
当時、丹後局や宣陽門院別当の源通親は九条兼実に対抗する勢力の中心人物であり、頼朝は彼らに大姫入内の仲介を依頼していた。
3月29日、頼朝は丹後局を六波羅の邸宅に招き、政子と大姫を引き合わせた。
また、銀作の蒔筥に砂金三百両を納め、白綾三十端で載せる台を飾ったものを贈った。
大友能直と八田朝重が引き出物を渡す役となり、付き従った諸大夫や侍たちにも同じく引き出物を渡したという。(『吾妻鏡』建久六年〈1195〉3月29日条)
一方、大姫の入内に非協力的だった九条兼実に頼朝が贈ったのは馬二頭だけであった。(『玉葉』建久六年〈1195〉4月1日条)
6月25日、頼朝は鎌倉へ帰る途中で東海道の国々を幕府の権力基盤として固め、自らの後継者を頼家と周知させるために美濃国青墓・尾張国萱津・遠江国橋本・駿河国黄瀬川などの宿駅で守護や在庁官人たちを集めて、国府の官人たちが新任国司を国境まで出迎えた。
大姫を後鳥羽の后妃に推薦
『愚管抄』によると、頼朝は大姫を後鳥羽に進上して后妃にしたいと申し出た。
建久七年の政変
建久七年(1196)11月24日、九条兼実の娘中宮任子が内裏から退出させられ、25日には兼実も関白を罷免された。
26日、兼実の弟慈円も天台座主・法務権僧正・護持僧を辞して隠居した。
『三長記』によると、九条家を訪れた者は頼朝に処罰されるとの噂が流れたという。
大姫の病死
頼朝の奔走も空しく、建久八年(1197)大姫は病で没した。
だが、『愚管抄』によれば「頼朝は京都の情勢を聞き、さらに次の娘(乙姫)を連れて上洛したいと漏らしたという」と記されており、なおも自分の娘を入内させることを諦めていなかったようだ。
乙姫の入内失敗
大姫が病没してしまったことにより頼朝は次女の乙姫を入内させようとしたが、この計画も源通親によって打ち砕かれた。
建久九年(1198)1月11日、後鳥羽天皇は為仁に譲位した。
『玉葉』同年1月7日条によると頼朝は幼い天皇の践祚には賛同できないと申し立てたが、後鳥羽の綸旨で強く求められたので承諾せざるを得なかったという。
さらに為仁が選ばれた理由として、通親が外戚として威光を振るうためだったと記していることから、譲位を主導したのは通親と思われる。
頼朝が娘の入内にこだわった理由
朝廷との関係を安定させるため説
建久七年当時、頼朝は50歳であったので自分亡き後の事を考え朝幕関係を安定させようとしたと考えられる。
頼家率いる幕府と大姫が后妃である朝廷を婚戚関係によって安定させ、良好な関係を築くことができる。
参考資料
- リスト1
- 川合 康「源平の内乱と公武政権 (日本中世の歴史) 」吉川弘文館、2009年
- 坂井 孝一「源氏将軍断絶 なぜ頼朝の血は三代で途絶えたか」PHP研究所、2020年