史実よりも伝承としての性質を優先しているからか、登場人物が官職についていた時期が史実とは異なっていたり、諸本によって内容に差異がある。
『平家物語』より「鵺」
源頼政は摂津源氏源頼光から五代目にあたり、源頼綱の孫で源仲政の子である。
保元の乱で後白河天皇方として先陣を務めたが、これといった恩賞も賜らなかった。
平治の乱でも源氏一門を捨てて天皇のために戦ったが、ろくな恩賞がもらえなかった。
大内裏の警固を長らく務めていたが、昇殿を許されることはなかった。
年月だけが過ぎた後、述懐として詠んだ和歌が評価されてようやく昇殿を許された。
実際に源頼政が昇殿を許されたのは仁安元年(1166)12月である。
人知れず 大内山の やまもりは 木がくれてのみ 月をみるかな
(大内山の山守である私は、誰にも知られることなくこっそりと木陰から月を見ている)
昇殿を許された頼政はしばらく正下四位だったが、三位になることを目指した。
のぼるべき たよりなき身は 木のもとにしいを拾ひて 世をわたるかな
(木の上に上る手立てもない我が身は、木の下に落ちている椎の実を拾って世を渡っている)
そうして、三位になった。
頼政が従三位になったのは治承二年である。ただし、従三位に叙された理由は和歌が評価されたことによるものではなく、平清盛の推薦である。(『玉葉』治承二年12月24日条)
やがて頼政は出家して源三位入道と称し、この年75歳になった。
治承三年11月28日に頼政は出家した。
頼政の生涯においての武勲は、近衛天皇が在位していた仁平の頃のことだ。
天皇は毎晩何かに怯え、大いに驚かれていた。
優秀な高僧・貴僧に命じて大法・秘法を加持祈祷させたが、効果はなかった。
問題のことが起こるのは丑の刻で、東三条の森の方から黒雲が一村立ち上って御殿を覆うと、天皇はうなされた。
そこで、公卿僉議が開かれた。
さる寛治の頃に堀河天皇が在位していたときも、このように天皇を怖がらせるようなことがあった。
当時の将軍源義家朝臣は紫宸殿の広縁に控えていたが、お悩みのことが起こる時間になると魔除けとして弓の弦を三度鳴らして、高らかに
「我は前陸奥守源義家なり」と名乗ったので、その場にいた人々はみな震え上がり天皇の苦しみも治った。
そんなわけでこの先例に倣い、武士に天皇を警固させることになった。
源平両家の武士から頼政を選出した。このとき、頼政はまだ兵庫頭だった。
頼政は「昔から朝廷に武士を置くのは、謀反の賊徒を退け勅命に背く者を滅ぼすためです。目に見えない化生の者を退治せよという命令は未だ承ったことがありません」と申したが、勅定だったので召集に応じて参上した。
頼政は信頼している郎等で、遠江国の住人井早太にほろの風切で剥いだ矢を背負わせてただ一人だけ連れて行った。
頼政は二重の狩衣を着て、山鳥の尾で剥いだ尖り矢を二本、滋籐の弓に取り添えて、紫宸殿の広縁に控えた。
頼政が矢を二本持ったのは、当時はまだ左少弁だった雅頼卿が「化生退治には頼政が適任です」と推薦したからで、一本目の矢で怪異を射損じたらなら二本目の矢で雅頼の首の骨を射るためである。
日頃から人が言っていたとおり、お悩みの時間になると東三条の森の方から一村の黒雲が立ち上って御殿の上を覆った。
頼政がきっと黒雲を見上げると、雲の中に他とは違う怪しげな雲が見えた。
これを射損じれば、天下に名を知らしめることができるだろうとは思わなかった。
けれども矢を取って番え、「南無八幡大菩薩」と念じてひょうと矢を放った。
手応えがあったのか、雲に当たり、「仕留めたぞ」と矢叫びを上げた。
井早太が走ってきて、落ちてくる怪異を捕まえて九回続けて刺し通した。
このとき、宮廷の人々は篝火をもってこれを見たが、頭は猿、体は狸、尾は蛇、手足は虎の姿をしていて、鵺のような鳴き声をしていた。
「恐ろしい」という言葉では形容しがたいものだった。
天皇はたいそう感心して、褒賞として頼政に獅子王という御剣を授けた。
宇治の左大臣が取り次いで頼政に渡そうと御前の階段を半分ほど下りたところ、4月10日余りのことだったのでホトトギスが二声三声鳴きながら空を通り過ぎていった。
それを見た左大臣は、
ほととぎす 名をも雲井にあぐるかな
(あのホトトギスが雲間に鳴いて名をあげたように、あなたも宮中に武勇の名をあげたのだ)
と詠んだので、頼政は右膝を付き左袖を広げ、月を横目に見ながら、
弓はり月のいるにまかせて
(弦月が入った闇空を弓に任せて射ただけです)と返し、御剣を賜って退出した。
「弓矢の腕は並ぶもののない武勇の者であるだけでなく、歌道にも通じているのだなあ」とみな感心して、賞賛した。
化生のものは、丸木をくり抜いた船に入れて流された。