妖怪

玉藻前伝説

白面金毛九尾の狐は、殷(中国)、天竺(インド)、そして日本の平安王朝を股にかけて悪事を働いた妖狐である。

中国

殷(妲己)

殷の紂王は悪知恵の働く男で、天下において自分に及ぶものはいないと驕り、酒と女が大好きな暴君だった。
彼は妲己(妲は字、己は姓)を寵愛し、彼女の言うことであれば何でも聞き入れた。
紂王と妲己による酒池肉林の生活に反発した諸侯もいたが、紂王はさらに刑罰を重くして炮烙の刑を設けた。

炮烙の刑

銅の柱に油を塗り、炭火を下に焚いて、その上を罪人に渡らせ焚死させる刑罰。

紂王は費中に政をとらせたが、彼はおべっかが上手で利を好んだため、民衆からは不評であった。
そこで悪来が用いられたが、悪口が多かったため諸侯はますます紂王から遠ざかった。
諸侯はひそかに徳を収め善政を行っていた西伯に帰服するようになっていった。
西伯の力が徐々に大きくなるにつれ、紂王は権勢を失っていった。
西伯が亡くなり周の武王が東征してくると、殷に背いた諸侯の多くが周軍についた。
敗れた紂王は宝玉で飾った着物を着て火に飛び込んで死んだ。
武王は紂王の頭を切り落とし、妲己も殺した。

インド(華陽夫人)

天竺(インド)の天羅国に班足王という王がいた。
狐は華陽夫人という美女に化けて班足王が祀る塚の神となり、彼をたぶらかして千人の王の首を切らせた。

9月の中旬、太子が官人を引き連れて花園を遊覧していた時に、狐が一匹眠っていた。
太子の放った矢が狐の額をかすったので、狐は驚いて逃げていった。
実は、この狐こそが華陽夫人の正体だった。

負傷した華陽夫人は病に臥せて食事も取らなかったので、痩せ細っていくばかりであった。
太子は耆婆という数代の名医に華陽夫人の病気を診させた。
すると、耆婆は「華陽夫人の脈は人間の脈ではない。おそらくは、野狐の類でしょう。早くこの女から離れなさい」と申し上げた。
しかし、華陽夫人は耆婆が太子に横恋慕して嘘をついていると訴えその場を逃れた。

その夜、耆婆が疲れてまどろんでいたところに、夢なのか現実なのか、
「金鳳山という山へ行き、薬王樹を取ってきなさい。これを華陽夫人に見せたら正体を顕し立ち去るだろう」というお告げを聞いた。
さっそく耆婆が薬王樹を取ってきて華陽夫人の前に差し出すと、たちまち狐の姿になって逃げ去った。

月岡芳年 和漢百物語(7)「華陽夫人」

日本

久寿元年(1154)の春、鳥羽上皇の前に化性前と名乗る美しい女性が現れた。
彼女はたちまち上皇の寵愛を一身に集めるようになった。
彼女は美しいだけでなく、四書五経(『大学』『中庸』『論語』『孟子』の四書と『易』『書』『詩』『礼』『春秋』の五部の経書)や仏法・管弦、世法などにも精通しており、貴族たちから何かを問われればどのようなことでも直ちに正確かつ適切に解答し、人々を驚嘆させた。

鳥羽上皇の年齢

当時の天皇は近衛天皇(16歳)で、実権は退位した鳥羽上皇(52歳)が握っていた院政期にあたる。

ある日、秋の名残を惜しんで清涼殿で詩歌管弦の催しがあった時、嵐が吹き荒れ灯火か消えて辺りが暗闇となった。
その時、上皇の側にいた化性前の身体から朝日のような光が放たれ、殿中が明るくなった。
これを見た大臣公家は彼女を怪しんだが、上皇は「身体から光を放つとは、よほど前世で善行を重ねたに違いない」と感激し、化性前の名を”玉藻の前”と改めさせた。

ところが、上皇の健康に異常が生じるようになった。
当初はたいした病ではないだろうと思われていたが、病は日ごとに重くなっていった。
典薬頭(侍医長)の下、上皇の病は邪気のしわざであるため自分の手には負えないとの診断が下った。
だが、その”邪気”が誰によるものなのかはわからないという。
実際は玉藻の前が密かにはなっていた邪気のせいで、上皇は玉藻の前と交わりを重ねる度に精気を吸われていたのだった。

上皇の病は邪気によるものだと判断が下ったので陰陽頭の安倍泰成を召して占わせたところ、泰成は「上皇の病は生命に関わる病なので、ただちに調伏のご祈祷をするべきだ」と申し上げた。
廷臣たちは大いに驚き南山北嶺、貴僧高僧、能化徳行の人々を召して七日間の祈祷を行わせたが、効果はなかった。
そこで宿曜師や陰陽師を召して上皇の病が治らない理由を尋ねたところ、泰成が「玉藻の前のしわざです。彼女を追い出せば上皇の病はたちまち治るでしょう」と申し上げた。
泰成曰く、玉藻の前は天竺から日本に渡り、下野国那須野に棲む800歳を超えた二尾の狐が美女に化けたものだという。
しかし上皇は泰成を信用しなかったので、病はますます重くなった。
評定の結果、泰成の「泰山府君祭を行い玉藻の前に幣取りの役をさせれば、正体を現すだろう」という進言を受け入れ、泰山府君祭を執り行うことになった。
玉藻の前は「なぜ私が身分の低い者が担う幣取りの役をしなければならないのか」と強く拒絶したが、大臣たちが説得して彼女を幣取り役にさせた。

泰成が祭文を読んでいると、玉藻の前が突然姿を消した。
こうして玉藻の前は妖狐であったことがわかり、上皇の病は平癒した。

豊国三代『安倍泰成調伏妖怪図』

妖狐討伐

東国の武将・上総介広常三浦介義明に那須野に逃げた妖狐退治の院宣が下った。
討伐隊が那須野に入ると、草むらの中から巨大な二尾の狐が走り出すのが見えた。
武士たちは射止めようとしたが、狐は巧みに矢をかいくぐり逃げ去ってしまった。

上総介と三浦介は今の技術では狐を仕留めることが出来ないと考え、故郷に戻り策を練ることにした。
上総介は鞠をつけて走らせた馬を射る訓練を、三浦介は狐に似た犬を走らせて射る訓練を行った。

しかし妖狐を退治することは出来ず、二人は「南無帰命頂礼、伊勢天照太神宮。百王守護八幡大菩薩。殊に宇都宮大明神。日光権現。願わくは明日のうちに、この狐を狩りとらせ給れ」と祈った。

殺生石へ

ある夜、三浦介の夢に20歳程の美女が現れた。
美女は涙を流しながら「我すでに願ひ満ちて、望みたりぬると思ふ所に、今汝に命を失はれんずとす。しかるべくは我を助けよ。しからば子々孫にいたるまで守りの神になるべし」と嘆願した。

狐が弱っている証だと悟った三浦介は夜明け前から家の子郎党を引き連れて狩りを始めた。
朝日が出る頃になって狐が走ってきたので、三浦介は狐に向かって矢を放った。
狐の遺骸は京に運ばれ、院の叡覧の後にうつぼ舟に乗せて流された。

狐の遺骸の腹からは宝物とも言うべきたくさんの宝物が出てきた。
上皇は仏舎利の入った黄金の壺、三浦介は狐の額から出てきた夜を昼の如く明るくする白い球と尾先から出た二つの針を受け取った。
三浦介は二つの針のうち白い方を自分の取り分とし、赤い方は三浦介の氏寺である清隆寺に収めたという。

犬追物の起源

三浦介が犬を狐に見立てて弓矢の訓練を行ったことから、犬追物の起源であるともいわれる。

玄翁和尚

玄翁和尚こと玄翁心昭は関東・東北・山陽地方において曹洞宗の普及に力を入れていた禅僧である。

玄翁和尚が那須野原を通りかかった時、道のほとりに大きな苔むした石があった。
和尚がその傍らで休んでいると、女房が来て「これは那須野原の殺生石といって、人間は言わずもがな鳥獣まで命を奪うとても恐ろしい石です。早く立ち去ってください」と言われた。
和尚が「なぜこの石は殺生をするのか」と尋ねると、女房は玉藻の前の執念(怨霊)が石となったものだと言った。

和尚が石に向かって衣鉢を授け花を手向けて、焼香や説法をすると、石は粉々に砕けて玉藻の魂も成仏した。

その後、和尚は奥州会津郡墨川の万願寺に居留した。

祀られた玉藻の魂

『那須記』には成仏した玉藻の魂は稲荷神社に神として祀り上げられたという話が残っている。

明徳元年(1390)正月のある日、三浦介の子孫である角田庄右衛門綱利が那須野に狩りにでかけたとき、一人の美女に出会った。
女を追って歩いていくと、突然鬼となって虚空に上がろうとしたので、庄右衛門は三浦氏重代の刀で鬼を切った。鬼の正体は玉藻の前で、自分を討ち取った三浦介の子孫に報復しようとして鬼となったのであった。

庄右衛門の報告を受けた足利氏満は、能登国総持寺の峩山和尚に玉藻の前の調伏を依頼した。
峩山に派遣された弟子の大徹は那須野の山の中に向かい、七尺ばかりの石に手をあてて、石が法力に服したことを確認すると本国に戻った。

一方その頃、会津にいた玄翁和尚は殺生石を引導すべしとの夢のお告げを受けて那須野に向かい、杖で石頭を打った。
石は三つに割れて霊魂が出てきたので和尚は霊魂も打った。和尚は消え失せた霊魂を供養し、篠原稲荷大明神として祀った。

玉藻の身から出た針

相国寺の瑞渓周鳳の日記『臥雲日件録抜尤』享徳二年(1543)2月25日条にある玉藻前伝承によると、玉藻の前を射止めたのは三浦介ではなく上総介ということになっている。
さらに、狐の尾から得た二本の針はどちらも源頼朝に献上されたと述べられている。

尾に二針あり。上総介これを頼朝に与ふ。頼朝これを得、ついに天下を定む。上総介また源家の士也。

『臥雲日件録』享徳二年(1543)2月25日条 より

玉藻の前のモデルとされる人物

美福門院得子

『昔語質屋庫』(1810年)五「九尾の狐の装」で滝沢馬琴は次のように述べている。

七十四代の帝、鳥羽院の美福門院を寵させ給ふの余り、内外の事みな後宮の進退によらせ給ひしかば、世のそしりも多く、人の恨みも深くして、終に保元の播乱となりぬ。これらの事をいはんとて……玉藻前といふ妖怪を作り設けしなり。

『昔語質屋庫』(1810年)五「九尾の狐の装」 より

美福門院は鳥羽上皇の寵愛を受け、彼の死後は相当な力をふるった。

この当時、前関白・藤原忠実と彼の次男で左大臣の藤原頼長は、忠実の長男である関白・藤原忠通と権力闘争を繰り広げていた。

久寿二年(1155)近衛天皇が病で亡くなり、崇徳上皇は自ら重祚するか嫡子の重仁親王を次の天皇に立てようとした。
このとき、鳥羽上皇の后であった美福門院得子と忠通が近衛天皇の霊に憑依された口寄せ巫女が「数年前、忠実・頼長親子が私(近衛天皇)を呪詛するために愛宕山の天狗像の目に釘を打った。そのせいで私は死んだのだ」と語ったという噂を上皇に話した。
こうして、忠実親子は院から遠ざけられることとなった。
さらにその翌年、上皇も亡くなったことにより、忠通の父・藤原忠実と弟・藤原頼長は崇徳上皇と結び、忠通と美福門院は後白河天皇を擁して武士を集め、保元の乱勃発に繋がっていく。

一方、玉藻の前が御所に現れたのは久寿元年で、討伐隊に退治されたのが翌年の久寿二年である。
また、忠実は荼枳尼天法によって政界復帰を果たしたともいわれているため、こうした伝承から玉藻前伝説が生まれた、とも考えられている。

玉藻前伝説と荼枳尼天信仰

荼枳尼天信仰は伏見稲荷神社を東寺が支配下に置いたことで広まった、という考えも研究者によって指摘されている。

東寺

東寺を中心とする真言僧徒は狐を”辰狐王菩薩”として神仏化し、天照大神に比定した。 高僧たちの間では辰狐王菩薩(=荼枳尼天)を王法守護と王法破壊の両義的な側面を持つ神であると考えられていた。

祇園女御

祇園女御は白河院の愛妾だったが、平清盛を身ごもったまま平忠盛に賜った。
仏舎利相承系譜によれば清盛は祇園女御の妹の子で、祇園女御が白河院所有の仏舎利を鳥羽院または清盛に渡したという説がある。

参考資料

書籍

  • 司馬遷(著)、小竹文夫(訳)「史記〈1〉本紀 」ちくま学芸文庫、1995年
  • 小松和彦「日本妖怪異聞録」講談社学術文庫、2007

  • 月岡芳年「和漢百物語 (謎解き浮世絵叢書」二玄社、2011

  • 中村禎里「狐の日本史 古代・中世びとの祈りと呪術」戎光祥出版、2017

Webサイト

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