『日本霊異記』は、平安時代初期に書かれた最古の説話集。
著者は薬師寺の僧景戒
上・中・下の三巻あり、計116話が収録されている。
内容
昔、欽明天皇(磯城嶋の金刺宮を皇居として天下を治め、天国排開広庭天皇という名を贈られた人である)の御代に、美濃国大野郡の男が妻とするための美しい女を求めて、馬に乗って出かけた。
偶然にも、男は広野で美しい女に出会った。
その女は、男に馴れ馴れしく懐いてきたので、男は目配せして「お嬢さん、どこへ行くのかな」と尋ねた。
「良き縁を求めてぶらぶらしているのです」女は答えた。
男が「私の妻になりませんか」と言うと、女は承諾した。
男は女を家に連れてきて夫婦となり、一緒に暮らした。
まもなく、女は一人の男子を産んだ。
一方、その家で飼われていた犬も12月25日に子犬を産んだ。
子犬は妻に向かうたびにいきり立って睨みつけ、牙をむき出しにして吠えた。
妻は恐れおののいて、夫に「この犬を打ち殺してください」と頼んだ。
けれども、夫は犬をかわいそうに思ってできなかった。
二、三月の頃、蓄えていた米が尽きたとき、妻は米つき女たちに間食を出そうとして踏臼小屋に入った。
すると、母犬が妻を食おうとして追いかけてきて、吠えついた。
妻は驚き怖気づいて、野干の姿となって籠の上に登っていった。
夫はこれを見て、「おまえは私の子を産んだのだ。私は忘れぬ。いつでもここに来て一緒に寝よう」と言った。
こうして、夫の言葉を覚えていた野干は、家に来ては泊まっていった。
そういうわけで、この女は「支都禰(来つ寝)」と名付けられた。
ある時、その妻が桃色の裳を履いて艶めかしいようすでやって来て、また裳の裾を引きずって去っていった。
夫は去りゆく妻の顔を見て、恋しく思い歌を詠んだ。
恋は皆 我が上に落ちぬ たまかぎる はろかに見えて 去にし子ゆえに
(この世のありとあらゆる恋が自分の身に降りかかったようだ。ほんの少しだけ姿を見せて、去っていってしまった人のせいで)
そうして、二人の間に生まれた子を「岐都禰」と名付けた。
それから、その子の姓を「狐の直」とした。
この子はとても力持ちで、鳥が飛んでいるかのように走るのが速かった。
美濃国で「狐の直」の由来となった話である。