平安時代

南都焼討

近江国の反乱情勢が平氏にとって好転していき、最大の反平氏勢力は多くの悪僧がいて兵士すら組織している興福寺にほかならなかった。

南都焼討

南都興福寺の衆徒が蜂起

12月、南都興福寺の衆徒が蜂起した。
源氏の武士が合流したとの噂も流れ(『玉葉』治承四年〈1180〉12月19日条)、その軍勢は6万騎という噂まで流れたので(『玉葉』同年12月27日条)、追討は容易ではないと考えられていた。

9日には”宮大衆”を名乗る勢力が平氏方の四郎房という悪僧の勢力を追い出し、上洛の準備を整えていると伝えられた。(『玉葉』治承四年〈1180〉12月9日条)
上洛を計画している衆徒は500人程だったが、源氏と手を組んで上洛しようとしたところを惣大衆によって制止されたという。

実際に、石川源氏の家督石川義基は南都の衆徒と連携して挙兵しようとしたが、家人源貞弘の裏切りにあい失敗している。(『警固中節会部類記』)

園城寺も滅ぼされる

12月11日、園城寺おんじょうじの僧が以仁王に従ったということで、平清盛は平重衡を園城寺の衆徒と合戦させた。南都も同様に滅ぼされるだろうとの報せが頼朝のもとに届いた。
頼朝が以仁王の令旨によって合戦を行ったため、衆徒も味方することを恐れた清盛が園城寺を攻めたという。(『吾妻鏡』治承四年〈1180〉12月11日条)

翌12日、園城寺は焼失した。
金堂をはじめ堂舎や塔廟、お経の巻物や顕密の聖教がほとんど灰燼に帰したという。(『吾妻鏡』治承四年〈1180〉12月12日条)

朝廷による焼き討ち

清盛による周到な準備

12月21日、清盛の外甥にあたる藤原隆親が河内守に任ぜられた。(『山槐記』)
22日には大和国・河内国の国衙に組織された武士たちに進軍するための通路を確保させた。(『玉葉』)

興福寺は以仁王・源頼政の挙兵にも加担していると見られていたので、今回は武力追討という処分が下された。

12月25日、平重衡を大将軍とする追討軍が南都へ向かい、27日に河内方面から襲撃したが、興福寺衆徒によって300人が射殺され、やむなく退却した。

一方、重衡の軍勢は南山城から攻め入り28日には奈良坂・般若寺の城郭を突破し、南都に侵入して火を放った。
火は重衡の想像以上に広がり、興福寺・東大寺の主要な堂舎が灰燼に帰した。

重衡は悪僧300人を梟首し、29日に49人の首を持って帰洛した。

こうして、畿内及びその周辺の反平氏勢力は消滅したのであった。

参考資料

  • 川合 康「源平の内乱と公武政権 (日本中世の歴史) 」吉川弘文館、2009年
  • 元木 泰雄「治承・寿永の内乱と平氏 (敗者の日本史) 」吉川弘文館、2013年
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やみみん

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