近江国の反乱情勢が平氏にとって好転していき、最大の反平氏勢力は多くの悪僧がいて兵士すら組織している興福寺にほかならなかった。
背景
興福寺の衆徒が清盛と敵対
治承三年(1179)11月、興福寺の衆徒は平清盛によって追放された前関白藤原基房を都に返すよう要求し、蜂起した。
また、治承四年(1180)3月、興福寺の衆徒は幽閉されていた後白河法皇を擁して都を去ろうとしているとの噂が流れ、騒動になった。
興福寺の衆徒が以仁王の挙兵に加担
興福寺は鎮護国家の祈祷を担う権門寺院で、藤原氏の氏寺だった。
平清盛の娘盛子は近衛基通の養母であり、平氏一門は基通を身内として支持していたが、藤原長者としての基通は氏寺興福寺を守り抜かねばならない立場にあったので、平氏政権と摂関家との交渉は泥沼に陥った。
5月27日の公卿詮議で、平氏の意向を受けた源通親・藤原隆季・藤原実宗は、園城寺とともに藤原長者の制止を聞き入れなかった興福寺も追討すべきだと主張した。
朝廷は平重衡を派遣して謀反人の引き渡しを求めたが、園城寺がこれを拒んだので、重衡は園城寺を焼き討ちにした。
その後、朝廷は園城寺の僧へ厳正な処分をした。
だが、興福寺については近衛基通をはじめとした藤原氏の人々が強硬手段を取れないよう主張を譲らなかったので、興福寺の処遇は以仁王の安否を確認してから決定することとなった。
経過
興福寺の謀反鎮静化が難航
『平家物語』によると、「興福寺の衆徒が以仁王の反乱に加担したことは朝敵としての行動に値するため、興福寺も三井寺も滅ぼすべきだ」ということになった。
摂政藤原基通は興福寺の謀反を鎮静化するために有官の別当忠成を使者として派遣したが、興福寺の衆徒たちは使者の衣装を剥ぎ取って追い出した。この時、使者に同行した雑色二人も髻を切られている。(『百錬抄』治承四年〈1180〉5月25日条)
次の使者として右衛門佐親雅が派遣されたが、これも騒ぎになったので使者はあわてて都に帰った。
『平家物語』によると、興福寺の衆徒たちは大きな毬玉を作って「平相国(清盛)の頭」と名付け、「打て」「踏め」と暴言を吐いたという。
南都興福寺の衆徒が蜂起
12月、南都興福寺の衆徒が蜂起した。
源氏の武士が合流したとの噂も流れ(『玉葉』治承四年〈1180〉12月19日条)、その軍勢は6万騎という噂まで流れたので(『玉葉』同年12月27日条)、追討は容易ではないと考えられていた。
9日には”宮大衆”を名乗る勢力が平氏方の四郎房という悪僧の勢力を追い出し、上洛の準備を整えていると伝えられた。(『玉葉』治承四年〈1180〉12月9日条)
上洛を計画している衆徒は500人程だったが、源氏と手を組んで上洛しようとしたところを惣大衆によって制止されたという。
実際に、石川源氏の家督石川義基は南都の衆徒と連携して挙兵しようとしたが、家人源貞弘の裏切りにあい失敗している。(『警固中節会部類記』)
園城寺も滅ぼされる
12月11日、園城寺の僧が以仁王に従ったということで、平清盛は平重衡を園城寺の衆徒と合戦させた。南都も同様に滅ぼされるだろうとの報せが頼朝のもとに届いた。
頼朝が以仁王の令旨によって合戦を行ったため、衆徒も味方することを恐れた清盛が園城寺を攻めたという。(『吾妻鏡』治承四年〈1180〉12月11日条)
翌12日、園城寺は焼失した。
金堂をはじめ堂舎や塔廟、お経の巻物や顕密の聖教がほとんど灰燼に帰したという。(『吾妻鏡』治承四年〈1180〉12月12日条)
朝廷による焼き討ち
清盛による周到な準備
12月21日、清盛の外甥にあたる藤原隆親が河内守に任ぜられた。(『山槐記』)
22日には大和国・河内国の国衙に組織された武士たちに進軍するための通路を確保させた。(『玉葉』)
興福寺は以仁王・源頼政の挙兵にも加担していると見られていたので、今回は武力追討という処分が下された。
12月25日、平重衡を大将軍とする追討軍が南都へ向かい、27日に河内方面から襲撃したが、興福寺衆徒によって300人が射殺され、やむなく退却した。
一方、重衡の軍勢は南山城から攻め入り28日には奈良坂・般若寺の城郭を突破し、南都に侵入して火を放った。
火は重衡の想像以上に広がり、興福寺・東大寺の主要な堂舎が灰燼に帰した。
重衡は悪僧300人を梟首し、29日に49人の首を持って帰洛した。
こうして、畿内及びその周辺の反平氏勢力は消滅したのであった。
参考資料
- 川合 康「源平の内乱と公武政権 (日本中世の歴史) 」吉川弘文館、2009年
- 元木 泰雄「治承・寿永の内乱と平氏 (敗者の日本史) 」吉川弘文館、2013年
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