『紫式部日記』は紫式部が宮仕えをしていた寛弘五年(1008)秋~寛弘6年(1009)正月、寛弘七年(1010)正月のできごとを記した日記。
全2巻。
寛弘五年(1008) 秋
一 土御門殿邸の初秋
秋のにおいが色濃くなってきて、土御門邸の風情は格別なものになった。
池の周りの木々の梢も、遣水のほとりの草むらもそれぞれ一面に色づいて、空の色鮮やかさに引き立てられて僧たちの読経の声もよりいっそう趣深く感じる。
涼しくなっていく風の中、いつものように絶え間なく流れる遣水の音が読経の音に入り混じって、一晩中区別がつかないように聞こえてくる。
中宮さまもお側に仕える女中たちの雑談を聞きながら、身重で苦しいはずなのに、何事もないように振る舞っているのは今更言うまでもないけれど、つらい世の慰めには、このようなお方にお仕え申すべきだったのだと、普段とは打って変わって比べようがないほどすべてを忘れられるのも、ある意味ふしぎなことだ。
この時期、中宮(藤原彰子)は懐妊して9ヶ月目だった。寛弘五年7月16日から藤原道長の邸宅である土御門殿に里帰りしていた。
僧たちが読経を唱えていたのは、中宮の安産祈願のため。
二 五壇の御修法
まだ夜明け前の月が雲間に隠れ、木の下が暗い時間だというのに、
「御格子をお上げしましょうよ」
「女官はまだ来ていないでしょう」
「女蔵人、おまえが上げなさい」
などと女房たちが言い合っているうちに後夜の鉦が鳴り響いて、五壇の御修法が始まった。
我も我もと唱える僧たちの声が遠くから、あるいは近くから聞こえてくるのは仰々しくて尊いものだ。
五壇の御修法は、中央と東西南北の壇にそれぞれ五大明王を祀って安産を祈願する加持祈祷を行うもの。
観音院の僧正が東の対屋から二十人の伴僧を引き連れて、加持祈祷のために寝殿に渡る足音がぞろぞろと鳴っているのさえ、他の行事の様子とはちがう。
法住寺の座主は馬場の御殿、へんち寺(浄土寺)の僧都は文殿へと、おそろいの浄衣を着て立派な唐橋を渡って木々の間を分けて帰っていく様子もずっと見ていたいと思えて、感慨深いものだ。
さいさ阿闍梨も大威徳明王を敬って腰をかがめている。
人々が出仕してきて、夜も明けた。
三 道長との女郎花の歌の贈答
渡殿の戸口の部屋から外を見ていると、ほのかに霧がかかっている朝で露もまだ落ちていない時なのに、道長殿はもう外を歩いていて、
御随身()を呼んで遣水を払わせた。
橋の南に女郎花がたくさん咲いている中から一枝折って、几帳の上から差して覗かせている様子はこちらが見ても恥ずかしくなるほど立派なのに対して、自分の寝起きの顔のひどさを痛感した。
「これ(女郎花)の歌が遅くなってはいけない」と言うのをいいことに、硯のところに身を寄せた。
女郎花 さかりの色を 見るからに 露の分きける 身こそ知らるれ
(朝露に濡れて美しく咲いている女郎花の色を見たせいで、露が分け隔てをして美しく染めてくれない自分の身が思いやられます)
道長殿は「ああ、早いな」と微笑んで、硯を取り寄せた。
白露は 分きてもおかじ 女郎花 心からにや 色の染むらむ
(白露は分け隔てて落ちているわけではないでしょう。女郎花の心のあり方が、このような美しい色の花を咲かせているのですよ)
四 殿の子息・三位の君の素晴らしい振る舞い
静かな夕暮れに宰相の君(藤原豊子)と話していると、道長殿の子息三位の君(藤原頼通)が簾の端を引き上げて腰を下ろした。
年の割に落ち着いており、奥ゆかしいご様子で、
「女性にとって、気立てよく振る舞うことは難しいようです」と男女にまつわる世間話を落ち着いてお話になるご様子は、まだ幼くて未熟だと人々が蔑むのはよくないことだと、恥ずかしくなるほど思う。
こちらと打ち解ける前に「多かる野辺に……」と口ずさんで立ち去っていくさまは、まるで物語に現れる素敵な殿方のようだった。
「多かる野辺に……」……「女郎花 多かる野辺に 宿りせば あやなくあだの 名をやたちなむ」(『古今和歌集』巻第四 秋歌上、小野美材)。意味は「女郎花がたくさん咲いている野辺で眠れば、いわれのない浮名を流されてしまうだろう」。
このようにちょっとしたことでもふと思い出されることもあれば、その時は面白かったことでも時が経つと忘れてしまうこともあるのは、ふしぎなものだ。
五 播磨守による負碁の饗応
碁の勝負に負けた播磨守が(勝った人に)贈り物をした日、私はほんの少しお暇していたのだが、後で御盤の様子を見に行くと、脚が優雅に飾り立てられており、州浜の周りの水面が描かれていたところには次の歌が書き交ぜられていた。
紀の国の しららの浜に ひろふてふ この石こそは いはほともなれ
(紀の国の白良の浜で拾うというこの碁石こそ、末永く大きな巌になるだろう)
扇なども、風情のあるものをその時の人々は持っていた。
六 八月二十日過ぎの宿直のようす
八月二十日を過ぎた頃、上達部や殿上人などで、しかるべき人々は宿直することが多くなり、橋の上や対屋の簀子などでみな仮眠を取りつつ、たわいもなく管弦の演奏に興じて夜を明かす。
琴や笛などの楽器には心もとない若い人たちが読経争いや今様歌などをしているのも、その場にふさわしいもので趣があった。
中宮の大夫(藤原斉信)・左の宰相の中将(源経房)・兵衛の督(源済政)・美濃の少将(源憲定)らが管弦を演奏する夜もある。
けれども、道長殿に思うところがあるのか、正式に管弦を演奏させることはない。
ここ数年の間に里下がりをした人々が宮中での生活を思い起こして集まってくるのは騒がしくて、その時は静かになることがない。
七 八月二十六日、弁の宰相の昼寝のようす
二十六日、薫物の調合が終わって(中宮さまは)人々にもお配りになった。
お香を丸めていた女房たちも、大勢集まって座っていた。
中宮の御前から部屋に戻る途中で、弁の宰相の君の戸口を覗いてみると、お昼寝なさっていた。
萩や紫苑など、さまざまな色の衣の上に濃い紅の打ち目が格別な小袿を纏い、衣の中に顔を入れて、硯の箱を枕代わりにしてお休みになっている額のあたりは、たいそう可愛らしくて艶めかしい。
絵に描いた姫君のようだったので、口元を覆っている衣を取って
「物語に出てくる女性のようでしたね」と言うと、弁の宰相の君は私を見上げて、
「なんてことをなさるのですか。寝ている人を軽々しく起こさないでください」と言って、少し起き上がりなさったお顔はちょっとだけ赤く染まっていて、きめ細やかで美しかった。
普段から美しい人には、また一段と美しく見えるときがあるのだ。
八 九月九日、菊の綿の歌
九日、菊の綿を兵部の君が持ってきて、
「これは、道長殿の北の方からあなたへの贈り物です。『しっかりと老いを除きなさい』とおっしゃっておりました」と言うので、
菊の露 わかゆばかりに 袖ふれて 花のあるじに 千代はゆづらむ
(この菊の露は、自分は袖に触れる程度の量に留めて、千年の齢は花の持ち主であるあなたさま(北の方)にお譲りいたします)
と返歌を贈ろうとすると、
「北の方はあちらにお帰りになりました」と言ったので、返歌の必要がなくなって手元に留めた。
九月九日は重陽の日(菊の節句)である。
九 九日の夜、御前にて
その日の夜、中宮の御前に参上したところ、月が美しく輝いていて、端の方の御簾の下から裳の裾などが少しだけ出ているところに、小少将の君や大納言の君などが控えていらっしゃる。
香炉で先日の薫物を取り出し、焚かせてみられる。
御前の趣深い様子や、蔦の色が十分に染まっていないことなどを口々に話し合っているうちに、中宮さまはいつもより具合が悪そうなご様子でいらっしゃるので、加持祈祷の時間だということもあって、心が落ち着かないまま部屋に入る。
人に呼ばれたので部屋に戻って、少し休もうと思っていたのだが、そのまま眠ってしまった。
夜中頃から、人々が騒いで大声を出している。
十 十日、夜明け前
十日の、まだ夜が明ける前に部屋の模様替えを行う。
中宮さまは御産所用の白いご几帳台にお移りになる。
道長殿をはじめ子息・四位五位の方々が慌ただしくなり、ご几帳台の垂れ布を掛けたり、寝具を持ち運んでいる様子は、とても騒がしかった。
その日、中宮さまはとても不安そうなご様子で、目を覚ましたかと思えばまた眠りについて一日をお過ごしになった。
中宮さまに憑いている物の怪どもを追い出し憑坐に移すため、僧たちがこの上もない大声で祈祷を行った。
ここ数ヶ月、道長殿の邸内に控えていた僧たちは言わずもがな、山々寺々から修験者たちが一人残らず参上して集い、三世の仏もどのようにして空を翔けて来るのだろうと思われた。
陰陽師もできる限り集めて、八百万の神々にも届いていないはずがないと思えた。
ご誦経の使者たちが騒々しく声を立てて、その夜も明けた。
ご几帳台の東面には、内裏の女房が集まって控えていた。
西では、物の怪を移された憑坐の人々が屏風を引きめぐらして囲まれ、その入口にはご几帳台を立てて、修験者がそれぞれ大声で祈祷した。
南では、高貴な僧正や僧都がひしめき合って不動明王の生きながらのお姿を喚び出すのではないかという程の気迫で、声が枯れる位の大声で祈祷をしていたのは、とてもすばらしいと思った。
北の御障子とご几帳台の間のとても狭いところに、後で数えて見てわかったのだが、四十人余りの人々が少しも身動きできない状態でのぼせ上がり、どうしていいのかわからない。
今、里から参上してくる人々はなかなか中に入れられず、裳の裾や衣の袖をどうしたらよいのかわからない。
然るべき年配の女房などは、人に気付かれないように泣きながらどうしたらよいか悩んでいる。
十一 十一日の夜明けの加持祈祷
十一日の夜明け、北の御障子を二部屋開けて北廂にお移りになる。
御簾などを掛ける余裕もないので、ご几帳を重ねて、その中にいらっしゃる。
僧正や定澄僧都、法務僧都などが控えて加持祈祷を行う。
院源僧都は昨日お書きになった御願書にありがたい言葉を書き加えて読み上げ続けているのは、身にしみて尊く、この上もなく頼もしいと思っているのに加えて、
道長殿が僧都の声に合わせて仏を念じていらっしゃるのも頼もしいので、大丈夫だと思ってはいても、
ひどく悲しい気持ちで、みな涙を堪えられず、
「泣いてはいけない」
などとお互いに言いながらも、涙を押さえられなかった。
人が大勢混み合っていては、中宮さまのご体調もすぐれないだろうということで、南面や東面に出てもらって、お側にいるべき人だけがこの二間にお仕えする。
道長殿の北の方・讃岐の宰相の君、内蔵の命婦、ご几帳の内側に仁和寺の僧都の君、三井寺の内供の君も召し入れた。
道長殿が万事に渡って大声で指示を出しているので、僧たちの声がかき消されてしまうほどだ。
もう一間にいた人々は、大納言の君・小少将の君・宮の内侍・弁の内侍・中務の君・大輔の命婦・大式部のおもとで、この方は道長殿の宣旨女房である。
彼らはみな中宮さまに長らくお仕えしてきた人々なので心配に思っているのはもっともなことだが、中宮さまに仕えて間もない自分でも、例えようもないほど大変なことだと、只々思うばかりであった。
また、この後ろに立てた几帳の外側に、尚侍の中務の乳母・姫君の少納言の乳母・姫君の小式部の乳母などが押し入ってきて、二つの几帳の後ろの狭い通路は誰も通れなくなってしまった。
行き来したり身動きしている人は、顔の区別がつかない。
道長殿のご子息。宰相の中将・四位の少将などは言うまでもなく、左の宰相の中将・中宮の大夫など、普段は関わりの薄い人々でさえご几帳の上から何かあると覗いてきて、腫れた目などを見られても、恥ずかしくなる気持ちは忘れ去っていた。
頭上には散米が雪のように降りかかり、しわだらけになった衣の見苦しさを後になって思い出すと、可笑しかった。
十二 中宮の出産
中宮さまの頭頂の御髪をお剃り申し上げ、道長殿が身を清めている間に、途方に暮れた心地でこれはいったいどうしたことだと驚き悲嘆に暮れていたその時、安らかにご出産なさって、
後のことはこれからというのに、あれほど広い母屋・南の廂の間・高欄のあたりまでぎゅうぎゅう詰めになっていた僧も俗人ももう一度念誦して、額をついた。
東面にいる女房たちは殿上人に入り混じって、小中将の君が左の頭の中将と顔を見合わせて途方に暮れている様子は、後になって人々が言い出して笑ったという。
小中将の君はお化粧などもきちんとしておりで艶めかしい人で、この日も夜明けにお化粧をしたのだが、泣きはらした顔は所々涙に濡れてひどいことになっていた。
宰相の君のお顔が普段と違っているのは、とてもめずらしいことだった。
まして私の顔はどのようであっただろうか。
けれども、その時に見た人の様子をお互いに覚えていなかったのは、ありがたいことだった。
いよいよご出産なさるというときに、物の怪の妬み罵る声などの不気味さよ。
源の蔵人には心誉阿闍梨、兵衛の蔵人にはそうそという方、右近の蔵人には法住寺の律師、宮の内侍の局にはちそう阿闍梨をそれぞれ担当させていたのだが、物の怪に引き倒されてとても気の毒であったので、念覚阿闍梨を召し加えて大声で祈祷する。
ちそう阿闍梨の効験が薄いのではなく、物の怪がひどく強かったのだ。
宰相の君の招禱人として叡効を添えると、一晩中大声で祈禱して夜を明かして、声も枯れてしまった。
物の怪を乗り移らせるために呼び出した女房たちも、誰も移らないで騒いでいた。
十三 人々の安堵
お昼ごろに子がお生まれになり、晴れた空に朝日が昇るような心地がした。
母子ともに健康でいらっしゃることの嬉しさは何物にも代えがたいものなのだから、男子でいらっしゃった喜びは格別だ。
昨日は涙に暮れて、今朝は秋の霧に泣いていた女房なども、みな自室に戻って休息をとる。
中宮さまには経験豊富な女房たちが付いており、このような事態に適任の人々が仕えている。
道長殿も北の方もあちらの部屋にお移りになって、数ヶ月間御修法や読経に勤しんで昨日今日召集された僧たちにお布施をお与えになったり、医者や陰陽師などでそれぞれ効験のあったものにご褒美をお与えになり、内部では御湯殿の儀式をかねてからご準備させていた。
女房の部屋という部屋には大きな袋や包を持った人々が行き来し、唐衣の縫い物、裳、ひき結び・螺鈿の縫い物などをやりすぎではないかという程のものをひき隠して、
「扇がまだ届いておりませんね」などと言葉を交わし合って化粧し、身支度を整えている。
十四 道長殿と周囲の人々の満足げなご様子
いつものように渡殿から眺めていると、妻戸の前に中宮の大夫や春宮の大夫たち、その他の上達部が大勢お仕えしている。
道長殿がお出ましになり、ここ数日間木の葉に埋もれていた遣水の手入れをさせて、人々も心地よさそうにしていた。
心の中では思うことがある人も、この時ばかりは気持ちも和らぐような雰囲気で、中宮の大夫はとりわけ笑顔をお見せになるわけではないけれども、誰よりも嬉しく思う気持ちが自然と顔にでるのも道理というものだ。
右の宰相の中将は、権中納言と他愛もない話をして対屋の簀子にお座りになっていた。
十五 内裏より御佩刀を賜る
内裏から御佩刀を持って参上した頭の中将頼定は、今日伊勢神宮への奉幣使で、帰ってきたときに昇殿できないので、(道長殿は)立ったまま母子ともに健康でいらっしゃると奏上させなさる。
禄などもお与えになったらしいが、私は見ていない。
御佩刀は、皇子の誕生を祝って帝から賜る刀である。
若君のおへその緒を切る役目は、道長殿の北の方がおやりになる。
ご乳付役には橘の三位。ご乳母には以前より仕えていて心をお許しになっている方ということで、大左衛門のおもとがお仕え申し上げる。
この方は備中守むねときの朝臣の娘で、蔵人の弁の妻である。
十六 御湯殿の儀式
御湯殿の儀式は酉の刻(午後六時頃)に行われるそうだ。
中宮職の下級役人たちが火を灯して、緑色の袍の上に白い衣を着てお湯を運んでいく。
その桶や据えている台などは、みな白い布で覆われている。
尾張守近光と中宮の侍長仲信が桶を担いで、御簾のところまで運んでいく。
水を取る役である清子の命婦と播磨の二人が桶を取り次いで、お湯の温度を確かめたのち水を加えてちょうどいい温度にして、大木工と馬の女房二人が水を汲み入れて十六の瓫に入れて、余った分は湯船に流す。
羅の上着に縑の裳、唐衣、頭に釵子を差して、白い元結をしている。
髪のかたちが美しく映えていて、風情がある。
御湯殿の役は宰相の君、お迎えの湯は大納言の君が担う。
湯巻を着ている姿は普段とちがって、まことに趣深い。
若宮は道長殿がお抱きになり、小少将の君が御佩刀、中宮の内侍が虎の頭を取って先導を務める。
唐衣には松の実の紋様、海賦で織られた裳は大海の摺り目を型取っている。
腰は薄物で、唐草の刺繍がされている。
少将の君の裳には秋の草むらや蝶、鳥などが銀色の糸で刺繍されていて、きらきらと輝いている。
織物を飾り立てるには限りがあって思うままにいかないので、腰だけを独特な装飾にしているのだろう。
道長殿のご子息お二人、源少将などは散米を投げて大声で「我こそ高く打ち鳴らそう」と競って騒ぐ。
浄土寺の僧都は護身のために控えていらっしゃるのだが、散米が頭や目に当たりそうになって扇で防ごうとするのを、若い女房たちに笑われる。
読書博士、蔵人の弁広業は高欄のところに立って『史記』の一巻を読む。
弦を鳴らす者は二十人おり、五位十人と六位十人が二列に並んでいる。
読書博士は、御湯殿の儀式において漢籍の祝いの一節を読み上げる役目。
夜の御湯殿の儀式といっても、形だけのものを繰り返し行う。儀式は前回と同じである。
読書の博士のみ以前とはちがうようだ。
伊勢守致時の博士というそうだ。
いつもの孝経だった。
また、孝周は『史記』文帝の巻を読むようだった。
七日間、交替で務めた。
十七 女房たちの服装
すべてのものが曇りなく白一色になっている中宮さまの御前では、女房の容姿や顔色でさえはっきりと見えているのを見渡すと、美しい墨絵の人物に髪などを下ろしたように見える。
いっそうきまりが悪く恥ずかしい気持ちになるので、昼間は御前に顔を出さない。
のんびりとしていて、東の対屋の部屋から御前へ参る女房たちを見れば、禁色を許された人々は織物の唐衣に同じ織物の袿を着ているので、なかなか麗しいのだが、どのような思いでそのような組み合わせをしているのかわからない。
禁色を許されぬ女房たちも、少し年上の女房はみっともない姿を見せないようにと何ともいえない美しい三重五重の袿に織物の上着を羽織り、さらにその上には無紋の唐衣をさり気なく纏って重ね袿には綾や羅を用いている人もいる。
扇など、見た目には派手すぎず、地味すぎないようにしている。
気の利いた言葉を扇に書いて申し合わせでもしたかのようになっているのも、それぞれが思ったことを書いているのだと思っていたが、同じぐらいの年齢の人同士は同じような趣向になっているのはおもしろいものだと見比べている。
女房たちの互いに負けたくないという心が露わになっている。
裳、唐衣の刺繍はもちろん、袖口に飾りを付け、裳の縫い目には銀色の糸を伏せ組みのようにして、箔を飾って綾の文にすえる扇どもの様子は、ただ月が輝く夜に雪深き山を眺めているような心地がして、きらきらと眩しくてはっきりと見渡せず、鏡を掛けているかのようだ。
十八 九月十三日夜、誕生三日目の御産養
若宮のご誕生から三日目になる夜は、中宮職が大夫をはじめとして御産養に奉仕する。
御産養は、生まれてから三日・五日・七日・九日目の夜に行われる祝いの儀式。
右衛門の督は中宮様のご食膳を担当する。
沈の懸盤(沈木で作った食器台)や白銀のお皿などは、詳しくは見ていない。
源中納言と藤宰相は若宮の御衣や御襁褓、衣筥の折立、入帷子、包、覆、下机など、いつものように同じ白一色であるが、その作り方には女房たちの趣向が見えつつ心を尽くしていた。
近江守源高雅は、その他全般的なことを担当したのだろうか。
東の対屋の西の廂の間は上達部の座で、北を上座にして二列に並べ、南の廂の間には、殿上人の座が西を上座にしている。
白綾のご屏風を母屋の御簾に沿って、外向きに立てて並べている。
十九 九月十五日夜、五日目の道長主催の御産養
御誕生から五日目の夜は、道長殿主催の御産養が行われる。
十五日の月が曇りなく美しいので、池の水際近くに篝火を木の下に灯しながら、屯食を立てて並べている。
身分の卑しい男たちが喋りながら歩いている様子まで、晴れがましい顔をしている。
主殿寮の役人が立ち並んでいるようすも忙しなく、昼のように明るいので、あちらこちらの岩の陰や木の下に集まっている上達部の随身たちのような人さえも、各々話しているのは、このような世の中に光のような男子がご誕生なさったことを陰ながら心待ちにしていたけれども、念願叶って得意げな顔で何となく笑みがこぼれ、満足そうだ。
まして土御門邸の人々は、もの数にも入らない五位の者たちも、そこはかとなく腰をかがめて会釈しながらすれ違い、忙しそうにして祝いの時に遭った顔つきである。
中宮さまに御前をお出ししようと、八人の女房がみな白い色の装束を着て、髪を上げ、白い元結をして白い御盤を持って続いている。
今夜の御給仕役は中宮の内侍で、たいそう堂々として美しいお姿に元結をした髪の垂れ具合はいつもよりも素敵で、扇に隠れていない横顔などはとても美しかった。
髪上げをした女房は、源式部(加賀守源重文の娘)、小左衛門(故備中守橘道時の娘)、小兵衛(左京大夫源明理の娘)、大輔(伊勢斎主大中臣輔親の娘)、大馬(左衛門大輔藤原頼信の娘)、小馬(左衛門高階道順の娘)、小兵部(蔵人藤原庶政の娘)、小木工(木工允平文義と言う人の娘)である。
若くて美しい女房ばかりで、向かい合い座って並んでいたのはたいそう見応えがあった。
いつもは御膳をお出しになる際に髪を上げているのだが、このようなめでたい機会だからといって道長殿がしかるべき女房たちをお選びになったというのに、つらい、不安だ、悲しみのあまり泣いてしまう者までおり、不吉なさまに見えた。