資料室 文学

紫式部日記 その二 寛弘五年(1008)冬

寛弘五年、冬

二十三 初孫を抱いた道長

十月十日を過ぎても、中宮さまは御几帳台からお出ましにならない。
自分たちは東の母屋の西側にある御座おまし所にいて、夜も昼も様子を伺っている。

道長殿は、夜中にも早朝にもいらっしゃっては御乳母めのとの懐にいる若宮を探していらっしゃるが、乳母が安心して眠っているときは、ぐっすりと寝ていたのがはっと目をさますのは、とても気の毒な気持ちになる。
物心が付く前のお年頃なのに、ひとりご機嫌になって抱きかかえて可愛がられるのも、ごもっともですばらしいことだ。

ある時、若宮が困ったことをしそうになったところを、殿は直衣の紐を解いて御几帳台の後ろで火に炙って乾かした。

「ああ、若君の御尿に濡れるのは嬉しいことだなあ。濡れたところを炙っていると願いが叶ったような気分だ」とお喜びになる。
殿は中務宮具平ともひら親王家のことについてご熱心で、私をその宮家の縁者だと思って親しく接してくれるのだが、本心では思い悩むことが多かった。

二十四 土御門邸への行幸の日が近くなって

行幸が近くなったということで、道長殿は邸内を以前にもまして手入れしてきれいになさる。
世にも美しい菊の根株を探しては、掘り出して持ってくる。
色とりどりのもの、黄色が映えているもの、さまざまな特徴のあるものを植えているのが朝霧の絶え間から見渡されて、まことに若返ったような心地がするのはなぜだろう。

中国において、菊の花は不老長寿の仙薬だという言い伝えがある。


まして悩み事がもう少し人並みであれば、お洒落をして若々しく振る舞い、無常の世を過ごせるのに。
おめでたいことや興味深いことを見たり聞いたりするにつけても、只々心配事に気持ちが傾いてしまって憂鬱で、思いのほか嘆かわしい気持ちになることが多いのが、とても苦しい。

何とかして、今はやはりすべてを忘れてしまおう、考えすぎていてもどうしようもないし、罪深いことだなどと夜が明ければ物思いに耽って、池の水鳥たちが何の悩みもなさそうに戯れているのが見える。

水鳥を 水の上とや よそに見ん われも浮きたる 世をすぐしつつ
(水鳥たちが水の上で戯れているのを他人事とは思えない。自分も浮いたような日々を過ごしているのだから)

あの水鳥たちも、楽しそうに遊んでいるように見えても、本当はとても苦しいのだろうと思いを寄せる。

二十五 小少将の君との手紙のやり取り

小少将の君から送られてきた手紙の返事を書いていると、時雨がぽつぽつと降ってきて空が暗くなってきたので、手紙の使者も返事を催促する。

小少将の君は、紫式部が特に親しくしていた女房。

「私もと同じように、空の景色も落ち着かない様子です」と書いて、拙い歌を書き添えただろうか。
暗くなってきた頃に折り返し、たいそう濃くぼかして染めた紫色の紙に、

雲間なく ながむる空も かきくらし いかにしのぶる 時雨なるらむ
(絶え間なく物思いに耽って眺めている空も暗くなって雨が降り出しました。何を恋しく思って降る時雨だと思いますか。実は、この時雨はあなたを想って流す私の涙なのです)

書き送った歌も思い出せず、

ことわりの 時雨の空は 雲間あれど ながむる袖ぞ かわくまもなき
(季節柄、時雨の空には雲間もありますが、私の袖は涙に濡れて乾く間もありません)

二十六 土御門殿邸への行幸

行幸の当日、道長殿は新しく造られた船を引き寄せてご覧になる。
竜頭や鷁首げきしゅの生きた姿が想像できるほど、鮮やかで麗しい。
行幸は辰の刻(午前八時頃)にすることになり、まだ夜が明ける前から女房たちは化粧をして準備をする。
上達部かんだちめ御座おましは西の対屋なので、こちらはいつものように騒がしくない。
内侍督の御殿では、女房たちの着るものも念入りに整えているそうだ。

早朝、少将の君が里から帰参なさった。
同時に髪を削るなどした。
いつものように、辰の刻とはいっても日中になってしまうだろうと、怠け心からのんびりして、扇がとても平凡なので、他の人に言って持ってきてもらおうと待っているうちに、鼓の音が聞こえたので急いで参上する姿は見苦しい。

御輿をお迎え申し上げる船楽は、とても趣深い。
御輿を階に寄せるのを見ると、駕輿丁かよちょうはあのような卑しい身分でありながら階から昇ってたいそう苦しそうに伏せっているのは、自分と何の違いがあるのだろうか。
身分の高い人々に交じってすることにも限りがあるのだから、ほんとうに安らかな気持ちがしないと思いながら見る。

御帳台の西側に帝の御座を設けて、南の廂の東の間に御椅子を立てている。
そこから一部屋隔てて東にあたる境に、北と南の端に御簾を掛けて仕切り、女房たちが控えている。
南の柱のもとから簾を少し引き上げて、内侍が二人出てくる。
その日の髪を上げた美しい姿は、美しい唐絵からえのようだ。
左衛門の内侍が御佩刀を取る。
青色の無紋の唐衣を着て、裾濃すそごの裳を付け、領巾ひれ裾帯くんたい浮線綾ふせんりょう櫨緂はじだんに染めている。
上着は菊の五重襲、掻練かいねりは紅色で、その姿や振る舞い、扇から少し外れて見える横顔は華やかで清らかである。

弁の内侍は御璽みしるし(三種の神器の一つ、八尺瓊勾玉)が入ったはこを持つ。
紅に葡萄染えびぞめの織物のうちぎ、裳、唐衣は前の左衛門の内侍と同じである。
とても小柄で美しい人が遠慮がちに少し恥ずかしそうにしていて、心苦しそうに見えた。
扇をはじめとして、左衛門の内侍よりよい趣向をしているように思う。
領巾は楝緂。
夢のように練り歩くようすや装いは、昔天から降りてきたという天女の姿もこのようなものだったのだろうかと思うほどだ。

近衛司は、たいそうその場にふさわしい姿をして御輿のことなどに従事しており、とても輝いている。
藤中将は御佩刀などを取って内侍に伝え渡す。

二十七 行幸に奉仕する女房たち

御簾の中を見渡すと、禁色きんじきを許されている女房たちはいつものように青色や赤色の唐衣に地摺の裳を付け、上着はみな蘇芳の織物を纏っている。
ただ、馬の中将だけは葡萄染の上着である。
打物などは、紅葉の濃いものと薄いものを取り混ぜたようにして、内側に着る衣などは、例によってクチナシの濃いものと薄いもの、紫苑色、裏の青い菊襲、もしくは三重襲などを、それぞれ思い思いに用いている。

綾織物を許されていない女房で、例の年配の女房たちは、無紋の青色もしくは蘇芳色などをみな五重襲で、襲などは綾織を用いている。
大海の摺り裳の水色は華やかで色鮮やかで、腰には多くの人が固紋を用いていた。
袿は菊の三重襲あるいは五重襲で、織物は用いていない。
若い人は菊の五重襲の上に、思い思いに唐衣を着ていた。
上は白く、青色の上を蘇芳色にして、単衣に青色を用いている人もいた。
表に薄い蘇芳色を用いて、下に向かって濃い蘇芳色を着て、その下に白を交ぜているのも、みな配色に趣のあるものだけが際立って見える。
なんとも言いようがないほど珍しく、仰々しい扇などが見える。

くつろいでいる時は整っていない顔立ちの人が入り混じっているのも見分けられるが、一生懸命に着飾り化粧をして互いに負けまいとしているのは、美しい女絵によく似ていて、年齢の程が年配の人と若い人とで髪が少し衰えているさまやまだ盛りだくさんかどうかが見渡される。
そうして、扇の上から出ている額つきがふしぎにも人の顔かたちを上品にも下品にも見せるようなものだ。
このような中で優れているように見える人は、この上なく美しい人なのだろう。

かねてから、帝付きの女房で中宮さまにもお仕えしている五人の女房がこちらに参集して控えている。
内侍が二人、命婦が二人、御給仕担当が一人。
御膳を差し上げるということで、筑前の命婦と左京の命婦が一髻の髪を上げて、内侍が出入りする隅の柱のもとから出てくる。
ちょっとした天女だ。
道長殿は若宮をお抱き申し上げなさって、御前にお連れ申し上げなさる。
帝がお抱き取りになるときに若宮が少しだけお泣きになるお声が、とても可愛らしい。

弁の宰相の君が、御佩刀を持参して控えている。
母屋の中戸から西の方の、殿の北の方がいらっしゃる方に若宮をお連れなさる。
帝が御簾の外にお出ましになってから、宰相の君はこちらに戻り、
「とても目立ってしまい、きまりの悪い思いをしました」と、ほんとうに頬を赤らめてお座りになっているときのお顔は、きめ細やかで美しい。
衣の色合いも、ほかの人よりも着こなしていらっしゃった。

二十八 御前の管弦と舞楽

日が暮れていくにつれて、楽の音はとても趣深いものになる。
上達部が帝の御前にお仕えしている。
万歳楽や太平楽、賀殿などの舞曲なども、長慶子ちょうげいしを退出する時の音楽として演奏しながら、楽船が築山つきやまの向こうの水路を漕いでいくとき、遠くにいくにつれて笛の音も、鼓の音も、松風も木立ての奥から吹き合わせて、とても風情がある。

とてもよく手入れがなされた遣水が心地よく流れ、池のさざ波たちが揺れ、何となく肌寒いのに、帝は御あこめをただ二枚ほどお召しになっているだけだ。
左京の命婦は寒いと感じているから、帝にご同情申し上げているのを女房たちがひそひそと笑う。
筑前の命婦は「亡き女院様が生きておられたときは、このお邸への行幸は度々あったことでした。その時は……、あの時は……」
などと思い出して言うのを、縁起でもないことが起こってしまいそうなので、煩わしく思って特別相手にせず、几帳を隔てているようだ。
「ああ、その時はどのようであったのでしょう」などとでも言う人がいたら、ほろりと涙がこぼれてしまいそうだ。

御前での管弦の演奏が始まり、とても趣深く思っているところに、若宮のお声が可愛らしく聞こえなさる。
右大臣(藤原顕光)が、
「万歳楽が若宮のお声によく似合って聞こえます」とお褒め申し上げなさる。
左衛門督などは、
「万歳、千秋」
と声を合わせて朗詠し、主の道長殿は、
「ああ、これまでの行幸をどうして名誉なことだと思っていたのだろうか。
このように素晴らしい行幸があったのに」
と酔いに紛れてお泣きになる。
言うまでもないことだけれども、ご自身でも感じ入っている様子がほんとうに素晴らしかった。

殿は、あちらへお出ましになる。
帝は御簾の内側にお入りになり、右大臣を御前に呼び寄せ、筆をとってお書きになる。
中宮職の役人やお邸の家司のしかるべき人々すべてに、位階を加える。
頭の弁に命じて案内を奏上させられたようだ。

新たな若宮の親王宣下のお祝いのために、藤原氏の上達部たちは連れ立って拝舞なさる。
同じ藤原氏でありながら門流が分かれている人々は、その列に加わらなかった。
次に、親王家の別当になった右衛門督は中宮の大夫で、中宮権亮は加階した侍従の宰相で、次々に人々がお礼の舞踏をした。
帝は中宮さまの御帳台にお入りになって程なく、
「夜もたいそう更けました。御輿を寄せます」と大声で言うので、御帳台からお出ましになった。

二十九 行幸翌日の御前

翌朝、内裏からの使者が朝霧もまだ晴れないうちにやって来た。
寝過ごして見ずに終わってしまった。
今日、初めて若宮の御髪を剃り申し上げなさる。
特に行幸の後に、ということでこのようにした。

また、その日、若宮の家司、別当、侍人などを務める人が決まった。
前もって聞いていなかったので、悔しいことが多い。
日頃の中宮さまのお部屋のしつらいは、普段とは違って質素になっていたが、いつも通りに改めて、御前のようすはとてもすばらしいものになった。
ここ数年の間、待ち遠しくお思いになっていた若宮のご誕生が叶って、夜が明けると殿の北の方も参上なさって、若宮をお世話申し上げなさるその華やかさは、とても格別なものだ。

三十 夕暮れの月が美しいときに

日が暮れて月がとても美しく輝いているときに、中宮の亮が女房に会って特別な喜びを啓上してもらおうというのだろうか、妻戸の渡りも御湯殿の湯気で濡れ、女房のいる気配もなかったので、こちらの渡殿の東の端にいる宮の内侍の部屋に立ち寄って、
「こちらでしょうか」と案内なさる。
宰相は中の間に寄って、まだ閉ざされていない格子の上を押し上げて、
「いらっしゃいますか」などと尋ねたのだが、返事がないと、中宮の大夫の、
「こちらでしょうか」と仰るのに対しても、聞こえないかのようにしているのも仰々しいようなので、ちょっとした返事などをする。
満足そうなご様子だ。

「私へのお返事はしないで、中宮の大夫を特別に扱い申し上げる。
もっともなことですが、良いことではありませんよ。
このようなところで上下の身分を区別するなんて」と非難なさる。

「今日の尊さ」などと、声麗しく詠う。
夜が更けていくにつれて月が明るくなり、
「格子を下半分を取り外しなさい」と責めなさるが、へりくだって上達部が入り込むのも、このようなところと言いながらも見苦しいし、若い女房なら物事の分別を知らないように振る舞うのも許されるだろうけども、どうしてそんなふざけたことができるのだろうかと思うと、格子を外さない。

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