内容
五十三 左衛門の内侍に付けられたあだ名
左衛門の内侍という人がいます。
わけもなく私のことをよく思っていなかったのを知らずに過ごしていると、憂鬱になる陰口がたくさん聞こえてきました。
帝が『源氏物語』を人にお読ませになりながらお聞きになっていたときに、
「この人(紫式部)は、日本紀を読んでいるのだろう。まことに学識があるようだ」と仰せになったのを、内侍は当てずっぽうに、
「学識があることをひどく鼻にかけている」と殿上人などに言いふらして、「日本紀の御局」とあだ名を付けたのは、とても滑稽でした。
実家の侍女たちの前ですら包み隠しているのに、宮中のような公の場で学識をひけらかすわけがないでしょう。
私の弟の式部の丞(惟規)という人がまだ子供だった頃は読書をしていたのを横で聞き習っていましたが、その人は理解するのが遅かったり、すぐ忘れてしまうことがあったのを、私は自分でもふしぎなほど物覚えが早かったので、読書に熱心だった父は、
「男子に生まれなかったのが残念だ」と、いつも嘆いていました。
それなのに、「男でさえ学識を鼻にかけるような人は、どうでしょうか。出世はしないようですよ」と、次第に人が言うのを耳にするようになってからは、「一」という文字すら書いていないので、まったく勉強をしていないのです。
昔読んだ本などは目にも留めなくなっていたのですが、このようなあだ名を付けられていたことを聞いて、どんな人が伝え聞いて憎むのだろうと、恥ずかしくてご屏風の上に書いてある文字すら読まないようにしていたのに、中宮さまの御前で『白氏文集』の所々を読ませなさったりして、漢詩の方面のことを知りたそうにしていたので、女房たちのいぬ間にこっそりと一昨年の夏頃から『新楽府』という本二巻を、きちんとではないですがお教えしており、隠しています。
中宮さまもお隠しになっていましたが、道長殿も帝もその様子にお気づきになって、立派に書かせなさった何冊もの本を献上してくれました。
まことに、このように私に読ませなさったりすることを、また、あの口うるさい内侍はまだ聞きつけていないでしょう。
このことを知ったら、どんな悪口を言うのだろうかと、まったく世の中というものは煩わしくて嫌になります。
五十四 出家への思い
さあ、もう言葉を慎むのはやめましょう。
誰かがとやかく言っても、ひたすら阿弥陀仏を信じてお経を習いましょう。
世の中の煩わしいことはすべてほんの少しも気にならなくなったので、出家して尼になっても仏道の修行を怠ることはありません。
ただひたすら世間に背中を向けて出家したとしても、お迎えの雲に乗る前に迷いが生じてしまうかもしれません。
それゆえ、躊躇しているのです。
年齢も、出家の適齢になってきました。
ひどく今より老いぼれて、目が霞んでしまってお経も読めず、気力もなくなってきているので、思慮深い人の真似事をしているようですが、今はもうひたすらこんなことばかり考えています。
私のような罪深い人は、きっと極楽往生も叶わないでしょう。
前世の罪が思い知られることばかり多いものですから、何かにつけて悲しくなります。
五十五 手紙の結び
お手紙には書き続けられないことを、良いことも悪いことも、世の中で起こっているできごと、我が身の上の憂いでも、残さずお話ししましょう。
感心しない人のことを念頭に置いて申し上げるとしても、こんなに書いてよいものでしょうか。
けれど、あなた様も退屈でいらっしゃるでしょうし、また、私のどうしようもない心の内をご覧ください。
そして、思っていることでこれほど無益なことが多くなくとも、お書きになってください。拝見いたしましょう。
もしもこの手紙が誰かに見られてしまったら、大変なことになってしまうでしょう。
聞き耳を立てている人は多いのです。
この春、不要になった手紙はみな破って燃やしたり、雛遊びの人形の家を作るのに使ってしまったので、誰の手紙も残っておらず、紙にはわざわざ書くまいと思っているのも、目立たないようにしているのです。
特に雑な扱い方をしているわけではなく、敢えてそうしたのです。
手紙をご覧になったらすぐにお返しください。
読みにくいところや文字を落としたところもありましょう。
そこは気にせず、読み飛ばしてください。
このように世間の人々から何か言われることを気にしながら最後に結びとして書くことは、我が身を捨てきれない執着心が何とも深いことです。
どうすればいいのでしょうか。