源頼朝が伊豆国で流人として暮らしていた頃、安達盛長はふしぎな夢を見た。
『延慶本平家物語』『源平盛衰記』『源平闘諍録』『曽我物語』に見られる。
なお、『曽我物語』では盛長だけでなく頼朝と政子も霊夢を見るので、「夢判断」が「夢競べ」になっている。
『源平盛衰記』
ある夜、安達盛長はふしぎな夢を見た。
兵衛佐(頼朝)が足柄山の矢倉嶽に腰掛けて、左足は外が浜を踏み、右足は鬼界島を踏み、両脇から太陽と月が現れて光り輝いている。
矢倉嶽(矢倉岳)は、神奈川県南足柄市にある山。
外が浜は現在の青森県にあたる地域の陸奥湾沿岸である。
伊法法師が黄金のとっくりを手に持って進み出て、盛綱が銀の四角いお盆と金の盃を携えて進み寄り、盛長が銚子を手にとって酒を勧めると、兵衛佐はそれを三度飲んだ。
ここで、盛長は目が覚めた。
盛長は夢で見たことを頼朝に話した。
景義は「その夢は、佐殿が征夷大将軍として天下を治めることを表す最上の吉夢である。太陽は天皇、月は上皇を表す。両脇から出た光が並んでいるのは、天皇が将軍の勢いに押されて東は外が浜、西は鬼界島まで支配するということだ。酒は一度寄った後に酔いが醒め、本心になる。
早くて三ヶ月、遅くても三年後には夢のお告げの通りになるだろう」と話した。
北条時政は世間を恐れて、一度は政子を山木兼隆のもとへ嫁がせようとしたが、兵衛佐の深い志を見て頼りにするようになる。
兵衛佐もまた、賢人で謀略に長けていたので、大事を成し遂げるには時政を頼らなければならないとわかっていたので、北条の館を離れなかった。
『曽我物語』
あれはいつ頃だっただろうか。
高倉天皇の時代、治承二年戊戌に伊豆山で祈願して、その年の11月までは夫婦ともに深く祈願したからだろうか、北条館から手紙が届くことも増えて月日が過ぎていったので、心の憂いも少しは忘れられた。
こうしていたところに、相模国の住人で懐島平権守景義という武士がいた。
鎌倉景政の子孫である。
兵衛佐と北の方(政子)は伊豆山の密厳院へ密かに通っていると聞き、気の毒なことだと思って「一晩泊まりに行こう」と伊豆山の御所に参上した。
その夜は、安達盛長と同じ部屋で眠りについた。
夜明け前、盛長は目を覚まして佐殿の御前に参上し、ふしぎな夢を見たと話した。
「今晩、夢の中で佐殿にとってめでたいお告げを蒙りました。
佐殿は足柄山の矢倉岳にお出かけになり、伊法法師は銀のとっくりを抱え、実近は畳を敷き、盛綱は黄金の四角いお盆に銀の盃を載せ、私は銀の銚子に酒を入れて佐殿に奉りました。
佐殿は酒を三度お飲みになった後、箱根へ参上なさいました。
佐殿は、左足で奥州の外が浜を踏み、右足で西国の鬼界ヶ島を踏んでいました。
両脇に太陽と月を宿し、小さな松三本を飾りとして、南に向かって歩いていくところを夢で見ました」
これを聞いた佐殿は大いに喜んだ。
「私も夜明けに吉夢を見た。
二羽の鳩が飛んできて、私の髻に巣を作り子供を産んで育てている夢は、八幡大菩薩がお守りくださるのではないかと頼もしく思ったものだ」
北の方もふしぎな夢を見たことを話した。
「私も、今晩ふしぎなお告げを蒙りました。
権現の御宝殿から八咫の唐の鏡を賜って、袂にしまって石橋を下っていたところに、あまりにふしぎなことだと思ったので箱の蓋を開けて見ました。
すると、日本の六十余州がみな鏡に映っていたので、佐殿に向かって『権現からこのようなめでたい宝を授かりました』と言うと、『その鏡は私のためのものではない。女性のためのものだから、私が関わるものではない』と言って、二人で石橋に向かい、坂を下っていきました」
人々はこれを聞いて、
「いずれもめでたい夢だ。これほど熱心に祈りを捧げたのだから、権現が願いを聞き入れてくださったのだろう」とみな感動した。
そうであったからだろうか、鎌倉殿の治世の後、その後を継ぐ二位殿の治世として承久の乱では朝廷に勝利した。
女性の身であったけれども、深い信心を持っていたのですぐにご利益を蒙ったのだ。
だから、『平家物語』に『曽我物語』を添えて唐土に渡した時も、唐人はこれを見て「日本は小さな国だけれども、このような賢い女性がいるのだなあ」と感動したという。
さて、景義が進み出て、
「皆様の夢を聞いて、誠にめでたいことだと思います。
佐殿や北の方様の夢についてあれこれ申すことはいたしませんが、盛長の夢について、私が夢合わせをしましょう。
まず、佐殿が足柄山の矢倉岳にお出かけになるのを見たのは、足柄明神の第二王子矢矧大明神のご利益で怨敵を倒し、ご先祖八幡殿の跡を継いで東国を従わせ、西国を平定し、北州を後ろ盾にして、南海を征服し、そのうちに住まいを占めるというお告げです。
次に、酒を三度お飲みになったのは、今は酒によっているような状態ですが、遅くて三年、早くて三ヶ月以内に宿願を果たし、心苦の酔いを醒ますというお告げです。
左足で外が浜を踏んでいるのは、東は残す所なく藤原秀衡の館まで支配するというお告げです。
右足で鬼界ヶ島を踏んでいるのは、佐殿に攻められ平家は都落ちして四国・西国に逃げ下り、ついには滅亡して西は残すところなく支配するというお告げです。
両脇に太陽と月を宿しているのは、天皇・上皇の後見として日本の大将軍になるというお告げです。
小さな松を三本飾りにしているのは、ご子孫三代まで天下に繁栄するというお告げです。
八幡大菩薩・足柄大明神・富士浅間大菩薩・二所の権現・三島大明神のご加護は疑いようのないお告げです」
佐殿は大いに喜び、
「夢のお告げが本当ならば、盛長には夢の褒美を与えよう。
景義には夢あわせの引き出物を与えよう」と言った。
次の日、景義は休暇をもらって相模国へ帰った。