神事にあたって穢れを嫌い、神のために斎戒すること。
元々、陰陽道とは無関係の慣習であったが、平安中期には意味が変わって「縁起の悪いことが起こった時に陰陽師に占わせ、陰陽師の指示に従って一定期間家に籠もる」ことを物忌と言うようになった。
悪い夢を見たり、身の回りで不可解な出来事があった依頼主が陰陽師に占ってもらう。
その占いの結果によっては、「物忌」といって一定期間籠居していた。
目的
貴族の主な関心事である「失せ物・火事・口舌(争論)・病事」を占うために行われた。
いろいろな物忌
本人または家族が病気になってから七日目
◆(藤原)嬉子が病を患ってから七日になるので、物忌のため籠居した。(『御堂関白記』長和四年〈1015〉9月6日条)
◆藤原教通の娘が病を患って今日で七日目になる。祖父の藤原公任が物忌のため籠居した。(『小右記』長和五年〈1016〉4月29日条)
死後七日目・十三日目
不吉な夢を見た
不吉な夢を見た場合、凶事を防ぐために籠もる。
ある人の夢想があったので、物忌のため籠居した。(『御堂関白記』寛弘八年〈1011〉11月7日丙子条)
産穢のため
産穢は七日間とされている。
老婆が来て「おめでたいことじゃ。このばばは年老いてこのような田舎に住む身だから、物忌もしないのだよ。七日の間はこのままいらっしゃってからお戻りなさい」と言って……(『今昔物語集』巻二十七第十五話)
端午の節句
五月五日の端午の節句には、物忌のしるしとして髪飾りを付ける風習があったようだ。
若い人々は菖蒲の櫛をさし、物忌の札を付けたりして……(『枕草子』三七段「節は……」)
物忌の順序
- 依頼主が陰陽師に相談する
- 陰陽師が依頼主を占う
- 占いの結果を見て陰陽師が物忌の要否を判断する
- 物忌が必要と判断された場合は、依頼主が物忌を行う
陰陽師が依頼主を占う
まず、陰陽師が六壬によって依頼主を占う。
陰陽師が物忌か必要か判断する
平安中期以降、物忌の原因となった怪異はどのような意味を持っているのか、物忌は必要か否か、物忌の期間の判断はすべて陰陽師の手に委ねられていた。
また、怪異・凶夢への不安や恐れを和らげるために大きな役割を果たしたのも陰陽道であった。
依頼主が物忌を行う
外界との接触は禁止
物忌を行う者の家では門戸を固く閉ざし、門前に『物忌の札(その家に物忌中の者が居ることを外から来た人に示すための札)』を立てた。
人の出入りは禁じられ、物品や手紙のやり取りもすることができなかった。
なお、自宅を離れて物忌をすることもあった。
今は昔、能登国鳳至郡に、鳳至の孫という者が住んでいた。
その者がまだ貧しく、生活も苦しかったころ、家に怪異があったので、陰陽師にその吉凶を尋ねた。
陰陽師が占って言うには「病ごとがあるでしょう。厳重に慎まなければいけません。下手に出ると命を落としますよ」ということだった。
鳳至の孫は大いに怖がり、陰陽師の教えに従って怪異があった場所を離れて物忌をしようとしたが、物忌のために頼れる宿もなければ、ちょうどよい場所もなく「家の中にいたら、家が倒れて下敷きになってしまうかもしれない。家を離れて、海辺の浜へ行き、そこにいよう。山際なら山崩れの心配があるし、木が倒れてきて押しつぶされるかもしれない」
と考えた。そうして物忌の日になって、一番鶏の鳴き声が聞こえたので、身近に置いていた従者を一人だけ連れて、家を出て、浜辺に向かった。(『今昔物語集』巻二十六第十二話)
『枕草子』一三九において、他所で物忌を行うのは「つれづれなるもの」としている。また、一四〇では、そのつれづれなさを紛らわすものとして、話のおもしろい男が訪ねてきたときは、たとえ物忌中でも家に入れたくなるという。
諷誦を修する
- 永観三年(985)3月20日甲子、藤原実資は物忌のため諷誦を修した。(『小右記』)
家の中でも行動を慎む
物忌を行う者は家の中で簾の内側に籠もって行動を慎むことになっていた。
簾には「物忌」と書かれた柳の木の小片または小さな紙片が取り付けられた。これらの小札は、物忌中の者の冠や烏帽子にも取り付けられたという。
小札は『しのぶ草(別名:ことなし草)』の茎に縫い付けられたといわれ、これは物忌の目的である「凶事を避けること」に対して無事を意味する「ことなし」に期待を寄せていたと考えられている。
物忌期間の終了
物忌を終えることを「物忌が開く」という。
物忌が開けた。公卿が十人ほどやって来た。晴れていたが、気分が優れなかったので外出はしなかった。(『御堂関白記』長和二年〈1013〉1月30日壬戌条)
物忌期間中に外出する例
- 長保元年(999)7月8日戊子、一条天皇は物忌期間中だったが、北対へ遷御した。(『小右記』)
貴族社会における物忌
平安貴族がすべての物忌を原則どおりに行うと正常な社会生活を送ることができなくなってしまうため、彼らは重要な物忌とそうでないものを区別して前者だけを行っていた。
その物忌の重要性を判断していたのが、陰陽師である。
陰陽師は物忌の要否を卜占によって判断していた。
物忌のときは、門を閉ざし、簾や格子を下ろす。
「物忌」と書かれた札を用いて、物忌を行う空間を仕切ることもあった。
物忌をする人は、冠や烏帽子にも一寸程の長さの忍草を付けた。(『富家語』)
陰陽師が物忌の重要性を「低い」と判断した場合
物忌と門
通常、物忌を行う際は家の門を閉ざすが、陰陽師が物忌の重要性を低いと判断した場合において平安貴族は閉門の原則を遵守しなかった。
また、このような「軽い物忌」の時は訪問者や手紙が受け入れられていた。
一条天皇の場合
永延元年(987)1月7日、一条天皇は物忌を行うことになっていたが、重要性の低い物忌であったため行わず、白馬節会という年中行事で臣下の前に姿を現した。
この事は『小右記』において「今日は御物忌なり。しかるに陰陽家の覆推して云ふやう、『軽し』てへり」とあり、陰陽師が物忌の重要性を低いと判断したことがわかる。
藤原実資の場合
長和二年(1023)9月1日から翌日にかけて物忌を行うことになっていた藤原実資は、賀茂光栄が物忌の重要性を低いと判断したため、禊祓を行うために賀茂川の河原に出かけた。
この事もまた『小右記』において「軽重を覆推せしむるに、光栄朝臣の占ひて云ふやう、『軽し』てへり」とあり、賀茂光栄が物忌の重要性を低いと判断したことがわかる。
このように、陰陽師が卜占の結果「軽し(重要性が低い)」と判断された物忌は行われなかった。
陰陽師が物忌の重要性を「高い」と判断した場合
陰陽師が物忌の重要性を「重い(重要性が高い)」と判断した場合、平安貴族は物忌の原則を忠実に遵守した。
藤原実資の場合
治安三年(1023)閏9月17日、実資は自宅の門戸をすべて閉ざして訪問者を受け入れず、手紙も受け取らなかった。
『小右記』には「今明は物忌なり。覆推の云ふやう、『重し』てへり。全て門を閉ず」とあることから、陰陽師が物忌の重要性を高いと判断したことがわかる。
しかし全ての物忌が厳格に行われていたわけではなく、例えば万寿元年(1024)10月24日の物忌で実資は物忌が「重し」と判断されていたにも関わらず、閉門を行っていない。
これは、当時の実資が朝廷の仏事の責任者を務めていて自宅に仏事の準備に関わる人や手紙の出入りが頻繁に行われていたため、門を閉ざすことができなかったからだといわれている。
参考資料
- 「陰陽道の本―日本史の闇を貫く秘儀・占術の系譜」 (NEW SIGHT MOOK Books Esoterica 6) 学研プラス、1993年
- 繁田信一「陰陽師 安倍晴明と蘆屋道満 」中公新書、2006年
- 藤巻一保 「安倍晴明『簠簋内伝』現代語訳総解説」戎光祥出版、2017年