いろいろな物忌
天皇の物忌
一条天皇
- 寛弘六年(1009)8月6日戊子、一条天皇の物忌のため、釋奠祭の内論議は行われなかった。(『御堂関白記』)
- 同年8月10日壬辰、藤原道長は内裏にて一条天皇の物忌を行った。(『御堂関白記』)
- 同年10月21日壬寅、一条天皇の物忌のため、藤原道長は参内しなかった。(『御堂関白記』)
- 寛弘七年(1010)3月6日乙酉、一条天皇は物忌のため、左近衛次将(源経房・藤原教通)が代わりに紫宸殿に伺候した。(『御堂関白記』)
- 同年7月26日癸卯、一条天皇の物忌のため、藤原道長は候宿した。(『御堂関白記』)
- 同年11月20日乙未、一条天皇の物忌のため、賀茂臨時祭の舞人と陪従、公卿3~4人が候宿した。(『御堂関白記』)
- 同年12月26日庚午、一条天皇の物忌のため、藤原道長は内裏に候宿した。(『御堂関白記』)
- 寛弘八年(1011)4月1日甲辰、一条天皇の物忌のため、藤原道長は御前に参らなかった。(『御堂関白記』)
- 同年4月5日戊申、一条天皇の物忌のため、藤原道長は御前に参らなかった。(『御堂関白記』)
三条天皇
- 寛弘八年(1011)12月11日庚戌、翌日は三条天皇の物忌が重いため、この日に故冷泉院の御念仏が結願した。(『御堂関白記』)
- 寛弘九年(1012)7月21日丁亥、三条天皇の物忌だったが、前日に天皇が病を患ったと聞いていた藤原道長は、参内して病状を尋ねた。(『御堂関白記』)
- 同年8月27日壬戌、三条天皇の物忌のため、藤原道長は御前に参らなかった。(『御堂関白記』)
- 同年閏10月6日庚午の朝、三条天皇の物忌であった。(『御堂関白記』)
- 長和二年(1013)1月14日丙午、三条天皇の物忌だったので、藤原道長は直盧に伺候した。また、15日丁未まで内裏に候宿した。(『御堂関白記』)
- 同年6月2日壬戌、三条天皇の物忌だったので、藤原道長は御前に参らなかった。(『御堂関白記』)
平安貴族の物忌
藤原道長
出典は『御堂関白記』による。
- 寛弘六年(1009)11月9~10日は物忌期間だったが、梅宮祭奉幣のため鴨川に出た。
- 寛弘七年(1010)3月21日庚子、藤原道長は物忌のため、内裏で行われる最勝講始に参列しなかった。23日から参列した。
- 同年8月8日、犬の死穢に触れたので物忌札を立てた。
- 同年10月5日、道長ともに2~3人の公卿が籠居した。
- 同年11月5日、土御門第に犯土の禁忌があったので、道長は源頼光の邸宅で籠居した。
- 寛弘九年(1012)10月16日、源道方が訪ねてきた。
- 同年10月24日、物忌だったが、故冷泉院周忌正日にあたるため、道長は東三条第南院に参った。
- 同年10月26日、道長は橘為義を召して禁色宣言を下した。
- 同年10月27日、訪問者があった。
- 同年10月29日癸亥、道長は天皇から翌日服用するための紅雪を献上するように命じられた。道長は、翌日は物忌のため参ることはできないが、紅雪は献上すると奏上した。
- 同年閏10月14日、訪問者があった。
- 同年閏10月22日、大江清通が預かっていた平張を持ってきた。
- 同年11月7日、藤原公任が来て管弦の宴があった。
- 長和二年(1013)1月12日、藤原道長が物忌の軽重について覆推させたところ、翌日の物忌は軽いということだった。
- 同年3月23日甲寅、物忌だったが、三条天皇から兼ねてより参内するように言われていたので、道長は参内することにした。
物忌の重さ
軽い物忌
- 寛弘七年(1010)3月2日辛巳、藤原道長は物忌が軽かったので、鴨川に出て解除を行った。その後、参内した。(『御堂関白記』)
- 同年10月27日壬申、藤原道長は物忌が軽かったので、土御門第を訪れる人がいた。(『御堂関白記』)
- 長和二年(1013)2月19日辛巳、藤原道長は物忌が軽かったので、皇太后宮と中宮に参った。(『御堂関白記』)
- 同年3月7日、物忌が藤原道長は物忌が軽かったので、訪問者があった。(『御堂関白記』)
重い/固い物忌
「固い」と表現されることもある。
- 寛弘八年(1011)5月13日丙戌、藤原道長は物忌が固かったので、代わりとして源俊賢に内裏の一切経供養の日の僧名を定めさせた。(『御堂関白記』)
- 寛弘九年(1012)10月6日庚子、藤原道長は物忌が重かったが、祈祷をして妙覚院で行われる故冷泉院周忌御斎会に参列した。(『御堂関白記』)