平安時代

【源平合戦】文覚の荒行

『平家物語』では、文覚は伊豆国で頼朝と出会い、平氏追討を促したとされる。
俗名は遠藤盛遠といって、高雄神護寺の僧。

文覚はとある事情で出家したが、俗世を離れてもなお心には悪が根ざしていた。
法住寺殿で狼藉をはたらいた文覚は、伊豆国へ配流されることになった。

『愚管抄』によると、文覚は弟子の上覚・千覚とともに伊豆国へ配流され、頼朝とは四年間親しくしていたとという。
また、藤原光能が文覚を通じて頼朝に挙兵を促したという噂もあったが、事実ではないとしている。

『平家物語』

義朝の髑髏

伊豆国に着いた文覚は頼朝のもとを訪れ、「平家一門の平重盛は剛毅な心を持ち、智謀にも優れておりましたが、平家の運命も末なのでしょうか、去年の8月にお亡くなりになりました。今、源平の中であなたほど将軍にふさわしい方はおりません。早く謀反を起こして天下を手中にお収めください」と言った。

だが、頼朝は「今は尼御前を弔うために、毎日法華経の一部を転読することしか考えていない」と答えた。

文覚は、「『天が与えるものを受け取らなければ、かえってその咎を受ける。好機が訪れているにもかかわらず行動を起こさなければ、かえって災いを受ける』という、古くから伝わる言葉があります。こう申せばあなたを試そうとしていると思われるでしょうか。私があなたに深く心を寄せている証拠をご覧ください」
と言って、懐から白い布で包んだ髑髏を取り出した。

『史記』淮陰侯わいいんこう列伝に「天の与うるを取らざればかえってその咎を受く、時至って行わざればかえってそのわざわいを受く」という記述がある。
また、『吾妻鏡』治承四年(1180)4月27日に以仁王の令旨が伊豆の北条館に届き、頼朝が平氏追討の挙兵を考えた際にも同様のことわざが用いられている。

頼朝が「それは何だ」と尋ねると、文覚は
「この髑髏こそ、あなたの父故左馬頭殿(源義朝)の頭骨です。
平治の乱の後、牢獄の前の苔の下に埋もれたまま弔う人もいなかったのを、私は思うところがあって牢番に頼んで貰い受けました。
この十余年の間、私はこれを首にかけて山々寺々を拝んで回り弔い申し上げたので、今ではあの世での長い苦しみから解き放たれたことでしょう。
こうして、私は左馬頭殿のためにも奉公を尽くした者でございます」

頼朝は文覚の話が本当かどうか信じられなかったが、父の名を聞いて懐かしく思い、思わず涙がこぼれた。
その後、二人は打ち解けて話し合った。

『平家物語』では後の「紺掻之沙汰」にて髑髏の真相が語られている。文覚が持ってきた髑髏は、頼朝に謀反を起こさせるためにどこの誰のものかもわからないものを白い布に包んで差し出したものだった。しかし、頼朝は無事に謀反を起こして天下を平定したので、文覚は新たに義朝の首を探し出して鎌倉に下った。

頼朝が「勅勘を解かれなければ平家に謀反を起こすこともままならないだろう」と言うと文覚は「自分が都に上って赦免を願い出る」と出て行った。

伊豆を出発してから3日後、文覚は福原の新都に到着した。
文覚は藤原光能のもとを訪れ、「頼朝の勅勘を赦して院宣を下してくれたら、彼は東国の家人らとともに平家を滅ぼし天下を平定するだろう」と願い出た。
光能は「今は私も3つの官職を解かれて大変なのだ。法皇も幽閉されているからどうだろうか。一応、お伺いしてみよう」と言って密かに奏上した。
すると後白河法皇はただちに院宣を下したので、文覚はこれを首にかけて3日後には伊豆国に戻った。

光能が解かれたのは参議・皇太后宮権大夫・右兵衛督の三官である。

平氏追討の院宣

頼朝は「あの聖の御房がつまらぬことを言い出したせいで、私はどのような憂き目に遭うのだろう」と心配していたところに、文覚が平氏追討の院宣を携えて戻ってきた。

頼朝は院宣を錦の袋に入れて、かの石橋山の合戦でも首にかけていたという。

『吾妻鏡』との相違点

『吾妻鏡』治承四年(1180)8月23日条によると、頼朝は石橋山に陣を構えた際、平氏追討の令旨を旗の横上に付けていたという

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