問注所は、元暦元年(1184)10月に裁判を行うため幕府に設置された訴訟機構である。
10月20日、訴訟については藤原俊兼と平盛時を率いて訴人(原告)と論人(被告)に直接対決させ、それぞれの発言を記録して源頼朝が裁決を下すことになった。
頼朝は三善康信にこのことを命じて、御所の東側の廂二ヶ間を対決の場と定め"問注所"と名付けた。(『吾妻鏡』元暦元年〈1184〉10月20日条)
鎌倉殿の裁判権
頼朝の裁判権は地頭や御家人だけでなく、東国の一般市民にまで及んでいた。
奥州合戦後に開かれた雑人裁判では、陸奥留守職に対して「民庶の愁訴を聞き、申し達すべし」と命じている。
頼朝の親裁が前提
元々幕府の裁判は、頼朝の前で訴論人がそれぞれ言い分を主張し、頼朝が裁決を行うものだった。
しかし、裁判制度が整備されていく過程で奉行人が取り次ぐ方式や対決方式が導入されていった。
例① 神主清包 VS 土屋宗遠
建久二年(1191)4月27日、相模国生沢社の神主清包が地頭土屋宗遠のために神社内の桑の木を刈り取られたとの訴えがあったので、二人の訴訟対決が行われた。
当初、宗遠は反論していたが、頼朝から止めるよう命じられた。
二階堂行政が奉行を務めた。
通常、御前での対決は容易に行われないのだが、神社のことなので頼朝の御前で行われたという。(『吾妻鏡』建久二年〈1191〉4月27日条)
例② 熊谷直実 VS 久下直光
建久三年(1192)11月25日の早朝、熊谷直実と久下直光による境界争いの御前対決が行われた。
直光は直実の母の姉妹の夫だった。
前年、その縁で直実が直光の代官として京都大番役を務めた際、武蔵国の同輩たちも同じ役を務めていた。
しかし、彼らは直実を他人の代官という理由で無礼な態度をとったので、直実はその鬱憤を晴らすため平知盛の家人となって長い年月を過ごした。
石橋山の合戦では平家の味方として参戦したものの、その後は再び源家に仕えた。
ところが直光を捨てて知盛の家人となってことが原因で、今回の紛争に及んだのだ。
直実は合戦では一騎当千の名声を馳せていたが、弁論は不得手だったので頼朝に何度も尋問された。
直実は「今回の件は梶原景時が直光をひいきしているので、前もって直光の主張が正しいと言われているのでしょう。
それで今わたしが何度も尋問されているのです。
おそらく、裁決は直光の勝訴となるでしょう。そうであれば道理にかなっている私の文書も無意味です。どうしようもありません」と言って、
対決が終わっていないにもかかわらず、準備してきたはずの文書を坪庭に投げ捨てて退出した。
それでもなお怒りが収まらなかった直実は、自ら髻を切って「殿(頼朝)の御侍まで上がることができた」と吐き捨てるように言い、南門を飛び出して逐電した。
頼朝はたいそう驚いた。
一説によると、直実は西に向かったというので、頼朝は雑色を相模国・伊豆国や箱根・走湯山などに派遣し、御家人と衆徒らには直実の遁世を止めるよう命じたという。(『吾妻鏡』建久三年〈1192〉11月25日条)
ところが、直実が建久2年3月1日付に「地頭僧蓮生」名義で作成した譲状が直実直筆の実物であるとする研究発表がされたことで、建久3年当時に直実は既に出家していたことが確実になり、この訴訟に関する『吾妻鏡』の記述には少なくとも何らかの脚色があることが明らかになった。
問注所の移転に繋がる
以前から問注所を御所内の一ヶ所に定めて訴訟対決を行うのは野次馬が集まって騒動となり、狼藉のもとになるので他所で対決を行うべきではないか、と内々に評議があった。
そんな時にこの対決で直実が逐電したので、長らく御所での対決は停止され、執事官を務めていた三浦康信の家で裁判が行われていた。
なお、正治元年(1199)4月1日に新しい問注所が御所の郭外に建てられたという。(『吾妻鏡』正治元年〈1199〉4月1日条)
行政・裁判上の命令を出すことも
建久六年(1195)7月2日、二度目の上洛の帰途で頼朝は遠江国橋下駅で在庁官人や守護沙汰人を集め、安田義定がいなくなってからの国務及び検断などについて指示を行った。(『吾妻鏡』建久六年〈1195〉7月2日条)
親裁の停止
十三人の合議制
源頼家が新たな鎌倉殿になると、訴訟について頼家が直々に裁決を下すことが停止された。
今後は北条時政・義時ならびに大江広元・三善康信・中原親能・三浦義澄・八田知家・和田義盛・比企能員・安達盛長・足立遠元・梶原景時・二階堂行政らが話し合って処置し、その他の者が理由もなく訴訟を頼家に取り次いではならないと定められた。
参考十三人の合議制
源頼朝の没後、長男・源頼家は左中将となる。建久十年(1199)1月26日には「前征夷大将軍朝臣(頼朝)の遺跡を相続し、その家人・郎従らに命じて、以前と同じく諸国の守護を奉公せよ」との宣旨が下った。 し ...
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問注所の組織
執事官(長官)
初代執事官(長官)には、京都で訴論の問注にあたる太政官の史も務めていた経験のある三善康信が任ぜられた。
康信は頼朝の乳母の妹の子ということで、以前から頼朝に京都の情勢を知らせるために連絡を取り合っていたところを、鎌倉幕府の機構整備に伴い鎌倉に戻ってきた。
訴訟のための機関で、執事(長官)以下の職員を置いたが、当初幕府における裁判は基本的に将軍による親裁だったので、その役割はあくまで訴訟の準備あるいは事務手続きに限られていた。
参考資料
- 五味 文彦「鎌倉と京 武家政権と庶民世界」講談社、2014年
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