平安時代

以仁王の令旨

源頼政はかねてから平清盛を滅ぼそうと準備していた。
しかし、自分だけではできそうにないので、息子の仲綱を連れて後白河の第二皇子である以仁王の御所に参上し、平氏追討の意志を伝えた。

治承・寿永の乱の発端となったできごとである。

源頼政、以仁王の御所に参上

源頼政は源頼光から続く摂津源氏の後裔で、保元・平治の乱を戦い、源氏として初めて公卿の座に列した武士である。

以仁王

仁平元年(1151)〜治承四年(1180)。
後白河天皇の第二皇子。母は藤原季成の娘成子。
八条院(鳥羽天皇の娘)の猶子となり、二条天皇親政派の一員として活動した。
六条天皇崩御後は後白河院と平氏一門が推していた高倉天皇と皇位を争って敗れたことによって、高倉天皇推しの勢力から疎外された。
しかし、その後以仁王は八条院の寵臣三位局と結婚して家族ぐるみの生活をすることで、鳥羽院政派の残存勢力に守られた平穏な日々を過ごしていた。

頼政が「源頼朝をはじめとする源氏に平氏一族の追討を呼びかけ、天下を取ってほしい」と頼むと、以仁王は藤原宗信に命じて令旨を下された。
ちょうど源為義の末子陸奥義盛が在京していたので、「まず頼朝に令旨を見せ、その他の源氏にも伝えよ」と仰せられた。
義盛は八条院の蔵人に任命され、源行家と改名した。

令旨皇太子および三后(太皇太后・皇太后・皇后)の命令を伝えるために発する文書。後世では、親王・法親王・王・女院などの皇族から発行される文書も令旨と呼ばれるようになった。

以仁王の令旨が伊豆に届く

治承四年4月27日、行家が以仁王の令旨を持って伊豆国の北条館に到着した。
行家は甲斐・信濃の源氏に平氏追討を呼びかけるため、令旨を渡した後すぐに伊豆を出発した。
頼朝は水干に着替えて、男山(石清水八幡宮のある京の西南の山)の方を遥拝した後で令旨を開いて見た。

「天の与えるものを取り、時が来たら行う」という謂れのとおり、頼朝は打倒平氏のために挙兵しようと考えた。

『史記』淮陰侯伝に「天、与うるに取らざれば、反ってその咎を受く。時、至りて行わざれば、反ってその殃(わざわい)を受く。」とある。


頼朝は真っ先に北条時政を呼んで令旨を見せた。

東海東山北陸三道諸国源氏ならびに群兵等に命じる。
早く、清盛法師およびそれに従う謀反の輩を追討せよ。

以下のことは、源仲綱が命じる。
「以仁王の勅命を承った。清盛法師と平宗盛らは、権勢に任せて凶徒に国を滅ぼさせ、百官万民を悩ませ、五畿七道の国々を不当に支配し、上皇を幽閉し、廷臣を流罪に処して、財物を奪い国を領有し、官職を奪い与え、功績のない者に恩賞を与え、罪のない者を罰している。
諸寺の高僧を拘禁して学僧を獄に下し、比叡山に絹や米を入れて謀反の時の兵糧米としている。百王の継承を断ち、摂関を抑え、天皇・上皇に逆らい、仏法を滅ぼすとは前代未聞のことだ。天地はみな悲しみ、民はみな愁えている。
そこで私は、一院(後白河)の第二皇子として、天武天皇に倣って王位を奪うものを追討し、上宮太子(聖徳太子)の先例に従い、仏法を滅ぼす者を倒そうと思う。ただ人の力だけを頼りにせず、ひたすら神の助けを仰いでいる。もし三宝と神明の思し召しがあれば、すぐにでも全国の助力を得られるはずだ。そこで、源氏の者、藤原氏の者や前々より三道諸国に勇士として名高い者は、追討に協力せよ。協力しなかった場合は、清盛に従う者として死罪・流罪・追討・拘禁の刑罰を行う。特に功績のあった者は、諸国の使節に伝えてご即位の後に必ず望み通りの褒賞を与える。」
諸国は、この命令どおりに実行せよ。

治承四年四月九日 前伊豆守正五位下源朝臣(仲綱)

天武天皇が引き合いに出されているのは、彼が兄天智天皇の朝廷を継承した大友皇子を武力で打倒し、新たな皇統を開いた戦いである壬申の乱が想起されるからである。
この場合、天智天皇は高倉天皇に、大友皇子は安徳天皇にあたる。

以仁王の最期

以仁王の挙兵計画が露見する

治承四年(1180)5月10日、平清盛が福原から上洛し、洛中は不穏な空気に包まれた。
14日には300騎もの武士による厳重な警戒のなか後白河院が鳥羽殿から八条坊門南烏丸西の藤原季能邸に移った。

治承四年(1180)5月15日、以仁王が平家追討の令旨を下したことが知れ渡ったため、土佐国へ配流する旨の宣旨が下された。
検非違使源兼綱・光長が使庁官人を率いて三条高倉の御所を探し回ったが、以仁王を見つけることはできなかった。
『平家物語』によると、以仁王は事前に源頼政から連絡を受けていたので、女装して市女笠を被り御所から脱出していたという。

一方、平清盛は以仁王の子供を捕らえるため八条院の乳母子宰相局を妻にもつ平頼盛を八条院御所に派遣した。
頼盛は八条院を説得し、男子ののみを引き渡し、女子はそのまま留め置くことで折り合いをつけた。

同年5月15日、以仁王は密かに三井寺に入り、三井寺の衆徒が法輪院を以仁王の御所にしたという噂が京に広まった。
そこで頼政は、近衛河原の自宅に火を放ち、一族や家人を率いて以仁王のもとに向かった。

17日、朝廷は使者を派遣して以仁王の身柄を引き渡すよう命じたが、園城寺は拒否し、挙兵する立場を示した。
同時に諸国の武者や南都北嶺の寺院へ助力を求める文書を作成し各地に使者を遣わした。

平氏が園城寺を攻める

5月21日、平氏は園城寺を攻撃することに決め、朝廷は平宗盛・平頼盛・平教盛・平経盛・平知盛・平維盛・平資盛・平清経・平重衡・源頼政の10名が大将に任じられた。(『玉葉』治承四年〈1180〉5月21日条)

特定の大将軍のもとに兵を集めるのではなく一門総出の攻撃であり、平氏は園城寺攻撃に大きな危機感を抱いていたことがわかる。

追討使の中に源頼政の名前があったのは、平氏が以仁王挙兵の全貌を把握しきれていなかったこと、この段階ではまだ頼政に身の危険が及んでいなかったことを示している。

頼政、園城寺を攻める

5月22日早朝、頼政は自ら館に火を放ち、30余騎の軍勢を率いて園城寺に入った。
このとき、平氏はまだ頼政が以仁王に加担していることを知らなかったため、大きな衝撃となった。(『玉葉』治承四年〈1180〉5月22日条)

24日、天台座主明雲は自ら比叡山に登り、延暦寺の衆徒へ以仁王の挙兵に加担しないように説得した。
その結果、園城寺・延暦寺・興福寺の三寺連合から延暦寺が離脱することになった。
延暦寺が平氏政権を支持する立場を明確にしたことで以仁王と頼政は園城寺に留まるのは危険だと考え、25日の夜中に園城寺を脱出し、南都の衆徒に合流すべく50余騎とともに南下を決意した。

平氏が以仁王・頼政らを討ち取る

3人の指揮官

5月26日寅の刻、以仁王と頼政の動向を知った朝廷は平氏家人の検非違使平景高・藤原忠綱ら200余騎を派遣した。
これは、相手方の軍勢も50騎程度ということで精鋭の家人のみ遣わしたのであった。
家人のみで決着が付かなければ、公的に動員された官兵が派遣される予定だった。

なお、三浦義澄と千葉胤頼はこの合戦のために官兵として京都に留められていたので、頼朝のもとへ参上するのが遅れた。(『吾妻鏡』治承四年〈1180〉6月27日条)
平景高・藤原忠綱・源重清の3人が指揮官となってそれぞれ軍勢を率いた。

平景高は平景家の子で、平宗盛の乳母子でもあった。

藤原忠綱は平氏の侍大将平忠清の子で、伊勢国古市を拠点とする一族の出身である。

また、源重清は多田満仲の弟満政の子孫で、美濃付近を拠点として代々検非違使を務めていた。

宇治川の戦い

追討軍は平等院で休息していた以仁王・頼政らに追いつき、宇治川を挟んで交戦が始まった。
景高の父藤原景家の軍勢は橋桁をつたって攻撃を仕掛け、忠綱の父伊藤忠清の軍勢は馬に乗って浅瀬を進んだ。
追討軍が宇治川を渡ると平等院の前で激しい死闘が繰り広げられたが、頼政の子兼綱の奮戦ぶりは八幡太郎(源義家)のようだったという。(『玉葉』治承四年〈1180〉5月26日条)

26日、以仁王は三井寺の衆徒だけでは軍勢が足りないので、興福寺の衆徒を頼ろうと思い奈良に向けて出発した。
頼政の一族と三井寺の衆徒がお供として同行した。
平知盛平維盛らは二万騎の官兵を率いて一行の後を追い、宇治の辺りで合戦になった。

だが、彼らは頼政らを討ち取った景高らに遭遇して帰洛したため、官兵は合戦に参加せずに終わった。(『玉葉』治承四年〈1180〉5月26日条)

頼政とその息子仲綱・兼綱・仲家・足利義房らが討ち取られ、さらし首となった。
しかし、頼政のものとされた首は、実は頼政ではなかったという噂が立った。

以仁王もまた、山城国相楽郡光明山寺の鳥居の前で最期を遂げた。享年30歳であった。
また、頼政の基盤である渡辺党の人々、八条院蔵人で木曽義仲の兄でもある源仲家らも討ち取られた。(『山槐記』治承四年〈1180〉5月26日条)

宇治川での戦いにおける頼政の軍勢に渡辺党の武士や下総国の安房太郎がいることは、当時の京都の武力組織に東国武士が組み込まれていたことを示している。

平氏政権の戦後処理

以仁王に加勢した園城寺・興福寺の処分

興福寺は鎮護国家の祈祷を担う権門寺院で、藤原氏の氏寺だった。
平清盛の娘盛子は近衛基通の養母であり、平氏一門は基通を身内として支持していたが、藤原長者としての基通は氏寺興福寺を守り抜かねばならない立場にあったので、平氏政権と摂関家との交渉は泥沼に陥った。

5月27日の公卿詮議で、平氏の意向を受けた源通親みちちか・藤原隆季たかすえ・藤原実宗さねむねは、園城寺とともに藤原長者の制止を聞き入れなかった興福寺も追討すべきだと主張した。
朝廷は平重衡を派遣して謀反人の引き渡しを求めたが、園城寺がこれを拒んだので、重衡は園城寺を焼き討ちにした。
その後、朝廷は園城寺の僧へ厳正な処分をした。

だが、興福寺については近衛基通をはじめとした藤原氏の人々が強硬手段を取れないよう主張を譲らなかったので、興福寺の処遇は以仁王の安否を確認してから決定することとなった。

挙兵の首謀者は誰か

以仁王

一般に、挙兵の首謀者は以仁王と考えられている。

彼は母が大納言藤原季成の娘であったにもかかわらず、平氏の圧力で親王宣下を受けることができなかった。
さらに、挙兵前年に起こった治承三年の政変では父後白河を幽閉され、自身の所領も奪われた。

八条院の影響力

以仁王の挙兵には八条院の蔵人、家政機関の職員、八条院領の武士などが加担していることから、八条院の影響力が強く関わっていることがわかる。

源頼政

挙兵の首謀者について『平家物語』や『吾妻鏡』では源頼政としており、『吾妻鏡』では”宿意”を遂げるために以仁王に挙兵を勧めたと記されている。(『吾妻鏡』治承四年〈1180〉4月9日条)

しかし、このとき頼政はすでに77歳の高齢であり、挙兵の2年前には平清盛の推挙によって従三位に昇進し武門源氏初の公卿となっていた。
そんな頼政に平氏打倒の意志があったとは考えにくい。

頼政は長年八条院に仕えており、彼女の依頼を受けて以仁王の挙兵に参戦したと考えられている。

挙兵を武士主導のものとするために首謀者とされる

頼政が首謀者とされたのは、承久の乱後に記された『平家物語』や『吾妻鏡』が治承・寿永の乱を武士主導のものとするためである。

参考資料

  • 上杉 和彦「源頼朝と鎌倉幕府」新日本出版社、2003年
  • 川合 康「源平の内乱と公武政権 (日本中世の歴史) 」吉川弘文館、2009年
  • 永井 晋「鎌倉源氏三代記―一門・重臣と源家将軍 (歴史文化ライブラリー) 」吉川弘文館、2010年
  • 元木 泰雄「治承・寿永の内乱と平氏 (敗者の日本史) 」吉川弘文館、2013年
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やみみん

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