幼少期
久安三年(1147)、源頼朝は河内源氏の源義朝と熱田神宮の大宮司藤原季範の娘由良御前との間に生まれた。
頼朝は嫡子として育てられ、保元三年(1158)12歳で皇后宮権少進に任ぜられると、翌年には後白河院の姉上西門院の蔵人、次いで二条天皇の六位蔵人に任ぜられ、順調に昇進していった。
平治の乱の敗北によって伊豆国へ配流される
従五位下・右兵衛権佐に任ぜられ朝廷での地位を順調に築いていった頼朝だったが、平治元年(1159)12月の平治の乱で父義朝が平清盛に敗戦したことによって状況は一変する。
この合戦は13歳の頼朝にとって初陣でもあったが、父義朝の死によって頼朝自身も命の危険に見舞われた。
池禅尼の助命によって死罪を免れる
永暦元年2月9日、頼朝は平頼盛の郎等右兵衛尉平宗清によって生け捕られた。
母の実家である熱田大宮司による助命の嘆願が後白河院と上西門院のもとに届き、その要請を受けた清盛の亡父平忠盛の後家で頼盛の母でもある池禅尼は、頼盛が連れてきた幼い頼朝を見てかわいそうに思い、「どうしてあんな小さい子の首が斬れましょう。私に免じて許していただけないでしょうか」と涙ながらに助命を嘆願した。
当時の武士の家では前当主の後家の発言力が大きかったので、清盛も継母の願いを受け入れざるを得なかった。
こうして頼朝は死罪を免れ、永暦元年(1160)3月に平重盛の家人である伊豆国の伊東氏のもとへ流されることとなった。
伊豆国は、流刑地のなかでは京都から最も近く父義朝の本拠地だった南関東に隣接していた。
配流へ
頼朝が配流された地は蛭ヶ小島だと伝えられている。
山間の渓谷から小平野に出た狩野川の流れが乱流してできた中洲のひとつで、低湿地で蛭が多かったのでこの名が付けられたという。
山木館と北条館の間に位置する田に一本の老松と大きな石碑の立っている場所がそこだといわれているが、これは江戸時代中期に伊豆地方の郷土史研究家が推定して石碑を立てたというだけなので、はっきりとした証拠があるわけではない。
流人時代
流人生活は比較的自由だった?
山木兼隆館襲撃の際、頼朝は北条館にいる。
その山木も元々は同じ流人の身であったため、当時の流人は国府の役人が預かり監視はしていたが、その行動にはかなりの自由が許されていたようだ。
幼少時代からの乳母比企尼は都から武蔵国比企郡に引っ越して、そこから食料を送り生活上の面倒を見てくれた。
尼の長女の婿で武蔵国の武士安達盛長は頼朝の側に仕えていた。
源氏方に従ったため所領を失って放浪していた佐々木四兄弟(定綱・経高・盛綱・高綱)も従者として頼朝に仕えた。
頼朝の母の出身である熱田大宮司からも援助の手が差し伸べられた。
八重姫との出会い
『曽我物語』では、頼朝は伊東祐親の娘八重姫と恋に落ちて男子が生まれるが、二人の関係を知り激怒した祐親が八重姫との間に生まれた子を川に流してしまう説話がある。
祐親は頼朝までも亡き者にしようとしたので、頼朝は走湯権現まで逃れ、なんとか一命をとりとめた。
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さまざまな人々が頼朝の邸宅に出入りする
流人生活の間に頼朝の居場所は蛭ヶ小島から北条の中心部に移っていった。
『吾妻鏡』で時政が住む北条館とは別に登場する北条御亭が頼朝の邸宅と思われるが、そこにはさまざまな人々が出入りした。
- 伊豆国・相模国の武士
- 頼朝の乳母関係者
- 浪人(亡命者)
伊豆国・相模国の武士
伊豆国の在地武士では時政のほかに工藤茂光・宇佐美祐茂・天野遠景などが頼朝のもとを訪れ、相模国の在地武士では土肥実平・岡崎義実などが訪れている。
これに関東の大豪族である千葉氏や三浦氏の一族も加わった。
なお、土肥実平は在京経験があって平氏のもとで閑院内裏の大番役などを務めたこともあり、その際に身柄を預かった興福寺土佐坊昌俊を頼朝のもとに行かせた。
佐々木定綱は矢を作ることが得意だったので、頼朝は辺りに人影がないのを見計らって定綱に「お前の作ってくれる矢を、いつになったら射られるかな。この矢でもって、憎き平家を滅ぼし、日本国の主人となられる日は」と語ったという。
頼朝の乳母関係者
頼朝の配流とともに夫の掃部允と伴って京都から武蔵国へ移り、頼朝を援助し続けた比企尼は安達盛長・河越重頼・伊東祐清に頼朝を支えるよう命じた。
安達盛長の年上の甥である足立遠元は京都で働き娘を後白河院近臣の藤原光能の妻にしていたが、盛長自身も大和判官代藤原邦通を頼朝に右筆(書紀役)として推挙している。
このため、頼朝は流人の身でありながら京都の事情にも通じていたと思われる。
浪人(亡命者)
近江国の佐々木秀義は平治の乱後に本拠地の近江国佐々木荘を没収されたので、奥州藤原氏を頼ろうとしたが渋谷重国に引き止められ20年に渡り渋谷の地に滞在した。
滞在期間中は子息の定綱・盛綱を頼朝のもとへ向かわせて惜しみない援助を行ったという。
伊勢国の加藤景員は同じ平氏家人の伊藤氏と揉めて伊勢国を出て、子息を連れて伊豆国の工藤茂光のもとに身を寄せた。
景員も長期間伊豆に滞在し、子息の光員・景廉を頼朝のもとに向かわせた。
文覚の荒行
『平家物語』では頼朝が挙兵を決断したのは文覚上人の説得によるものとしている。
文覚上人は頼朝のもとへ参上してこう言った。
平家一門では平重盛公が剛毅で智謀にも長けていましたが、平家の運も尽きたのか去年の八月に亡くなられました。
今は源氏と平氏の中であなたほど将軍にふさわしい方はおりません。はやく謀反を起こして、日本国を手中にお収めください。
思いもよらないことを言われるお方だ。
私は亡き池の尼御前に生きていても仕方ない身を助けていただいたのだから、尼御前の後世を弔うために毎日法華経の一部を転読するほかには何も考えていない。
天が与えるものを受け取らなければ、かえってその咎を受けることになります。
こう申しますとあなたの心を試そうとしているのだとお思いでしょうか。私があなたに深く心を寄せている証拠として、これをご覧ください。
これこそあなたの父、故左馬頭殿(義朝)の頭蓋骨です。
平治の乱の後、牢屋の前の苔に埋もれたままで弔う人もいなかったのを、私が牢番から貰い受け、十余年の間首にかけて山々寺々を回って弔ったので、今はあの世で苦しみから解放されたでしょう。
久しぶりに父の名を聞いた頼朝は思わず涙を流し、平家に反旗を翻すにはどうしたらいいか文覚に尋ねた。
すると、文覚は京都に上って光能に「頼朝は勅勘を解かれ院宣をくださるならば、関東の武士たちを召集して平家を滅ぼし、天下を鎮めようと言っている」と伝え、後白河法皇は院宣を下した。
文覚は院宣を首にかけ、伊豆国へ戻った。
また、『愚管抄』では光能が後白河の意向を察して、高雄の神護寺の再興のために力を入れすぎて伊豆に流された文覚に命じて、頼朝に宣旨を見せたという説に触れている。
だが、慈円によればこれは事実ではなく、文覚は弟子とともに流され4年間頼朝と親交を深めていたのであり、その文覚が法皇や平家の心中を探って差し出がましいことを言っただけなのだという。
頼朝と文覚が出会ったのは承安三年(1173)〜治承二年(1178)の間だが、これを頼朝挙兵の治承四年(1180)の出来事としたり、幽閉同様の状況に置かれていた法皇から院宣を受けるなど、虚構の上に成り立っていると考えられる。
北条館で保護される
頼朝挙兵
頼朝挙兵の知らせが都に届いたのは9月の初めのことだった。
後に頼朝と縁を結ぶことになる九条兼実は、この知らせを聞いて日記に「謀反の賊義朝の子で長年伊豆国に流罪とされていた者が、最近は悪事を働き知行国主の使者を攻撃した上、伊豆・駿河両国を横領してしまった。昔の平将門のように謀反しようというのであろう」と残している。
最初はほかの源氏たちと大差なかった
頼朝は最初から源氏の棟梁だったわけではなく、むしろ挙兵当時は従兄弟の木曽義仲、甲斐源氏や摂津源氏と大差なかった。
頼朝はなぜ鎌倉を選んだのか
11日、頼朝は石橋山の戦い以来離れ離れになっていた政子との再会を果たし、15日には修造された鎌倉の邸宅に入り東国の政権の基盤とした。
当初、頼朝は父義朝の邸宅跡に御所を構えるつもりでいたが、そこには父の菩提を弔う寺院が建てられていた上に御所としては狭かったので、大倉郷に御所を構えている。
大倉郷
大倉郷は陰陽道で言うところの四神相応(東に流水、西に大道、南に沼、北に山があり、それぞれ青龍・白虎・朱雀・玄武という神が守護する縁起のいい土地)だったこと、鎌倉の外港とも言うべき六浦に続き、古くから重要な道路として用いられた六浦道に面していたこと等が挙げられる。
源氏と鎌倉のつながり
平忠常の乱
長元元年(1028)、上総国の平忠常が安房守惟忠を殺害する事件があった。
所領経営などの問題をめぐって上総・下総の武士団と国司の対立は続いているなかで起こった出来事であった。
忠常が増長して上総国衙を占領したので、朝廷は平直方・中原成通を追討使に任命して反乱の鎮圧に乗り出した。
二人はともに桓武平氏の一族だったが、直方と成通は不仲だったため追討はうまく行かず、長元二年(1029)朝廷は成通を追討使から解任し、翌長元三年(1030)7月直方に京都への召還を命じた。
こうして9月に源頼信が新たな追討使に任命された。
忠常は以前から頼信に臣従していたので、頼信が東国に下向してくるや忠常は降伏した。
桓武平氏の平直方が追討に失敗し、清和源氏の源頼信の武名が高まったことで、東国における武士団統率の担い手は平氏から源氏の手に渡った。
直方は頼信の武芸に感服し、自分の娘と頼信の子頼義を結婚させて「鎌倉の楯」(「楯」は「館」の当て字と思われる)と呼ばれる自分の館を頼信に譲る。
父源義朝が鎌倉を継承
『保元物語』で源為義が「義朝こそ、坂東育ちのものにて」と述べており、文書史料において義朝が「上総御曹司源義朝」と記述されていることから、源義朝は東国出身と考えられている。
『吾妻鏡』によると、義朝は「鎌倉の楯」を受け継いだが、その場所は鎌倉の亀谷にあったという。
また、義朝の嫡男で頼朝の兄でもある義平は、「鎌倉悪源太」(鎌倉で生まれた源氏の長男で、激しい気性を持つ)と呼ばれていた。
だが、頼朝の時代には義朝の旧宅は荒れ果てて何ひとつ残っていなかった。
千葉常胤のすすめ
安房国に上陸したばかりの頼朝に対し、千葉常胤は「今おられるところは要害の地でもなく、先祖からの由緒があるわけでもない。早く相模の鎌倉に行きましょう」と熱心に勧めたという。
頼朝、鎌倉に家を建てる
御家人制度の確立
関東の有力な在庁官人層の武士の多くは、平氏全盛の時代に平氏の家人となっていた。
だが、その中には清和源氏との古くからの結びつきを持つ武士団もあり、さらなる勢力の拡大を目指す武士の中には、平氏に見切りをつけ、武士団を統率する新たな権威として頼朝に従う者たちが出てきた。
頼朝はまず自分に従った武士たちへの本領安堵(本拠地の支配権を認める)と新恩給与(敵方の支配地を没収して功績を挙げた武士たちに褒美として与える)に着手した。
そして、土地を通じて武士たちと主従関係を結び、主人である「鎌倉殿」とその従者となった「御家人」という関係を組織していった。
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治承→養和の年号問題
治承五年(1181)7月、朝廷は年号を治承から養和に改め、さらにその翌年には寿永元年と改めた。
だが、頼朝はこれらの年号を用いず、治承の年号を使用している。
頼朝が寿永の年号を用いるようになったのは寿永二年、頼朝が後白河との交渉に応じ、東国政権の地位が認められるようになった後のことである。
その間頼朝が出した文書の年号は治承五年・治承六年と書かれていて、養和元年・寿永元年とは書かれていない。
「ある支配者の定めた年号を使用する」ということは、その支配者を正当と認め、それに服従する意志を示すことになる。
頼朝が養和・寿永の年号を用いなかったのは、彼が朝廷を正当な支配者と認めていなかったと考えられる。
政治家・頼朝
河内源氏の棟梁と自認していた源頼朝は、以仁王の令旨を受け取っただけの立場を抜け出したいと考えていた。
そして、後白河との交渉が始まった。
後白河との政治交渉開始
治承四年(1180)12月、頼朝と後白河が水面下で交渉を始めたとの噂が京都でささやかれていた。
さらに12月6日、中原親能は源義朝の家人波多野氏に育てられたという縁から頼朝と繋がったのではないかという疑いをかけられ、平時忠に捕らえられそうになった。
その後、後白河と頼朝を結びつける存在として平親宗の名前が挙がった。
上総広常のもとに預けられていた甥の時家と親宗は後白河の寵姫建春門院の院司としてともに仕事をしていたので、時家・広常を通じて頼朝と連絡を取れるのではないかと疑われたのである。
後白河への密奏
養和元年(1181)8月、頼朝は後の五摂家の一つとなる九条家の兼実を通じて後白河へ秘密裏に上奏し、早くも朝廷との政治交渉に乗り出した。
以後、頼朝にとって兼実は朝廷との交渉を取り次ぐ重要な人物となる。
頼朝は、挙兵したのは朝廷に対する謀反ではなく後白河のために逆臣を追討しようとしたものだと主張した。
さらに、後白河が平氏一門を滅ぼすことを求めないのであれば、以前のように源氏と平氏がともに相並ぶ状態に戻し、平氏が西国の治安を守り、源氏が東国の治安を守るのがよいと伝えた。
この提案は平氏一門を滅ぼすというものではなく、後白河に従う意思を見せたものだったが、後白河に意見を求められた平宗盛は「頼朝の眼前に骸を晒すな」という清盛の遺言に反するとして頼朝の提案を拒んだ。
十月宣旨
上洛を促す後白河の使者を鎌倉に迎え入れた源頼朝は、北方の王者として陸奥に君臨していた藤原秀衡の驚異と畿内の飢饉を理由として上洛の無期限延期を要請し、「東海・東山・北陸三道の国衙領・荘園は元のように国司・本所に返還せよ」との勅令発布を要請した。
治承・寿永の乱が始まってからというもの諸国の国衙領・荘園の郡司・郷司・荘官たちはある者は反乱に参加して年貢を納めず、ある者は倉庫を襲撃して食糧を奪った。
凶作・飢饉の打撃も大きく、中央の貴族たちは大いに苦しんでいた。
こうした京都の状況を見て頼朝が打ち出した案が、中央貴族の迎え入れであった。
義仲の株が下落するのとは対照的に、頼朝の評判はますます高くなっていった。
挙兵当時は頼朝の名前すら知らず「謀反の賊」「凶賊」と呼んでいた兼実も、「頼朝の体たらく、威勢厳粛、其性強烈、成敗分明、理非断決」と賞賛している。
頼朝の提案はさっそく受け入れられ、義仲の支配下にある北陸道を一時的に除外した上で要請通りの勅令が宣旨として公布された。
これと合わせて頼朝は勅勘を解かれ、配流の際に解任された従五位下に復帰し、「朝敵」の名を逃れることとなった。
『百錬抄』には頼朝の東海道・東山道の寺社王臣領主園を本来の領主に戻すことを命じる宣旨が頼朝の申請によって発せられたという趣旨のことが記されていた。
東海・東山諸国の年貢、神社仏寺ならびに王臣家領の荘園を本来の領主に戻すようにとの宣旨が下った。頼朝の申請によるものだった。
『百錬抄』寿永二年十月十四日条
さらに、『玉葉』閏十月二十日条・二十三日条の記事では「この宣旨の内容に不服なものがいたら、頼朝に追討させる」と記されている。
幕府の支配拡大
寿永三年(1183)1月26日、頼朝は義仲に代わって平氏追討の宣旨を与えられ、さらに29日には義仲方追討の宣旨も得た。
これ以降、平氏との戦いの主役は義仲から頼朝の命令に忠実な軍事指揮官(=鎌倉殿御使)として源範頼・源義経へ移り、義仲が自ら得たものはすべて頼朝の手中に帰することとなった。
鎌倉殿勧農使の派遣
頼朝が留意したのは、義仲のように配下の武士たちの横暴な振る舞いによって貴族たちや西国の人々から反発を買うことの回避だった。
そこで、諸国の武士の違法を取り締まる権限を行使し、在地からの強引な兵糧米の調達や他人の家に泊まった際の乱暴狼藉などの非法行為を禁じ、違反するものを厳しく罰することにした。
この政策を実行するために、側近の中原久経・近藤七国平が畿内近国における武士の非法行為を停止する任務を帯びて上洛する。
さらに、鎌倉殿御使として梶原景時・土肥実平が派遣され、播磨・美作・備前・備中・備後の各国の国衙行政権を実質的に掌握した。
さらに北陸道は元々農業生産力の高い地域であったが、長い間の戦乱で荒らされてしまったので、「勧農」という種子の下げ渡しや耕作地の割り当てなどによって農業生産を支援する鎌倉殿勧農使として比企朝宗が任命された。
関東知行国
鎌倉幕府の長の知行国は関東知行国と呼ばれ、関東御領とならぶ鎌倉幕府の財政基盤となった。
天下の草創
12月6日、九条兼実に書状を送った頼朝は「天下の草創」を謳って、朝廷政治を思い切って刷新することを意図しており、ほかにも後白河法皇に奏上する折紙を二通、藤原経房に送っている。
料紙を横長に折って用いる様式で、正式の文書ではなく略式のメモ書きという体裁である。
だが、この時代は重要事項ほどあえてメモ書きの様式で伝えられていた。
頼朝上洛
建久元年(1190)9月15日より上洛のための本格的な準備を始め、10月3日、和田義盛の随兵が先陣を務め、梶原景時の随兵が後陣を務めて頼朝の大軍は鎌倉を出発した。
後白河をはじめ朝廷への贈答品として、奥州の特産品である金が用意された。
11月9日、頼朝はついに後白河と対面した。
『愚管抄』によると、頼朝は自分がいかに朝廷(あるいは後白河)に忠実であるかを語っていたという。
私は朝廷・皇室のためを思い、天皇に何かあれば少しの私心もなく我が身に代えてもと存じておりますが、それは私が上総広常を討ち取ったことから見ても明らかです。
広常は東国きっての有力者で、私が挙兵して朝敵を退けようと合戦に勝つことができたのは、最初に広常を呼び出して味方にしたからこそできたことでした。
広常は私にとっては功労者でしたが、しばらくすると「一体、頼朝はなぜ朝廷や皇室のことばかり気にするのだ。ただ我々が関東でやりたいようにやっていこうというのを、誰が従えられるというのか」などと言って謀反の心を持っていたので、こんな者を従えていては私まで神仏の加護を失うことになると思い、広常を討ったのです。
広常誅殺後頼朝は程なく後悔したという『吾妻鏡』の記事と比較すると不可解な話だが、上洛時の頼朝が後白河の忠臣であることを知らしめた話となっている。
その後、頼朝はまだ幼い後鳥羽天皇にも拝謁し、九条兼実とも会っている。
11月9日、朝廷は頼朝をいきなり権大納言に任命し、24日には右近衛大将の地位も与えた。
だが、平氏一族が朝廷の要職を独占して貴族たちの反発を買ったことを顧みたのか、その直後の12月4日、頼朝は両職を辞退する。
辞退したと言っても「前権大納言」と「前右近衛大将」の称号は確保されており、栄誉ある地位を得た事実は変わらない。
御家人の成功(じょうごう)
12月11日、頼朝と共に上洛した千葉常秀・梶原景時・小山朝茂・三浦義村・葛西清茂・比企能員などの東国の御家人が頼朝の推薦のもと兵衛尉・衛門尉の地位を与えられている。
建久新制
建久新制は形式的には後鳥羽天皇の意志によるものだが、実際は院政を執り行う後白河上皇の意思により発せられたものである。
新制とは天皇の意思で発布される朝廷の臨時法令のことで、6日後に出されたもうひとつの新制と区別して3月22日に発布された方を建久Ⅰ令、28日に発布されたほうを建久Ⅱ令と呼んでいる。
建久Ⅰ令
建久二年(1191)3月22日に発せられた新制の中で、国家軍事警察制度上の頼朝の職権が明記された。
全17ヵ条から成る新制の中で16番目の「京畿・諸国の所部の官司をして、海陸の盗賊ならびに放火を搦め進むべき事」という見出しの条文で、京・諸国の担当部局(検非違使など)とともに「前右近衛大将朝臣(頼朝)」に対して海賊・陸賊・放火人の追捕が命じられている。
個別の謀反人ではなく国家の秩序を犯す行為の取り締まりを名指しで命じられたことは、頼朝とその御家人たちを国家的軍事警察の権限を公的に保持した唯一の武士集団として認定したことを意味した。
これは後に御成敗式目の中で明確化される守護の大犯三ヵ条の前提となるものであり、幕府の国制上の存在理由が明らかにされたことを意味する。
袖半下文から政所下文へ
この頃から、頼朝の意思で発せられる幕府の命令文書は文書右の余白(袖と呼ばれる)に頼朝の花押を記した袖半下文から公式に開設を宣言された家政機関政所の発給する政所下文に切り替えられている。
征夷大将軍へ
建久三年(1192)3月13日、後白河上皇が亡くなった。享年66歳であった。
このことは源頼朝が新たな栄誉である征夷大将軍の称号を得るきっかけとなった。
頼朝にとって東国こそが権力の基盤であり、朝廷の意向を無視してまで奥州藤原氏を攻め滅ぼしたことも会った。
頼朝は朝敵追討のために天皇の国土支配権を一部委任され、東国を軍事的に支配することを認められた征夷大将軍こそ、幕府の主の称号としてもっともふさわしいと考えた。
だが、他の多くの事柄では頼朝の要請を受け入れた後白河も、征夷大将軍の補任だけは頑なに拒んでいた。
かつて保元の乱で日本全国の支配者であることを宣言した後白河にとって、東国支配を頼朝に委ねる役職を与えることは許せなかったのだろう。
西国の支配強化
建久三年(1192)6月、頼朝は後白河の分国だった美濃国において御家人らに下文を発し、”御家人判定”を行った。
併せて、丹波国・若狭国・但馬国・和泉国などの西国諸国で御家人の交名注進が行われたが、このうち丹波国もまた後白河の分国だった。
さらに建久七年(1196)、後白河の要求で地頭が停止されていた備後国大田荘に再び地頭を設置し、それまで守護が置かれていなかった若狭国に若狭忠季を任命した。
薩摩・大隅の御家人交名注進、日向・薩摩・大隅・肥後・肥前・筑後・筑前・豊前・豊後の図田帳作成もこの年以降に行われた。
冷酷な支配者として
この世に人は我一人
自分に並び立つ者が源氏一門に存在することを許さない頼朝は、源氏に優劣はないと豪語した甲斐源氏も許さなかった。
上総広常の誅殺
寿永二年(1183)、謀反の罪で上総広常が嫡子能常とともに誅殺された。
頼朝は朝廷に対する協調姿勢を示していたが、広常は朝廷から独立した東国政権樹立の路線に固執し続けたので、政治的に厄介な存在となっていた。
一条忠頼の誅殺
6月16日、武田信義の子で甲斐源氏の嫡流の立場にあり、内乱当初より武功を挙げてきた一条忠頼が将軍御所で頼朝の命を受けた小山田有重・天野遠景に誅殺された。
『源平盛衰記』で甲斐源氏の一族である武田信光が「(源氏)一門さらに優劣なし」と言い放った話があるように、甲斐源氏は源氏一門のなかでも特に頼朝への強い対抗意識を持っていた。
だが、そのような姿勢を頼朝は断じて許さなかった。
上総広常を赦免
だが、元暦元年(1184)頼朝の武運を祈願して上総国一宮(玉前神社)に納められていた広常願文を見て、広常に対する処断が誤解によるものだったことを知った頼朝は深く後悔した。
頼朝最大の失敗
鎌倉幕府の基盤が固まり、頼朝の心には娘大姫を天皇の后妃にして外戚の地位を得られるかもしれないという希望が芽生え、その実現には多くの犠牲も厭わなかった。
大姫の入内
当の大姫は病に倒れ、建久八年(1197)7月14日生涯を終えた。
頼朝が落ち着かないうちに、源通親は先手を打って後鳥羽天皇を退位させ、通親の養女の子である土御門天皇を即位させた。
土御門天皇の即位によって通親は天皇の外祖父ならび上皇の院司となり、”源博陸”(源氏の関白)と呼ばれるほどの権勢を振るうようになっていく。
頼朝の最期
源頼朝は相模川の橋供養の帰りに落馬したときの傷が原因で亡くなったと伝えられているが、詳細は不明である。(『吾妻鏡』正治元年〈1199〉1月13日条)
一方、摂関家近衛家実の日記『猪隈関白記』では飲水(糖尿病)で亡くなったと記されている。(『猪熊関白記』建久十年〈1199〉11月18日条)
頼朝は九条兼実に「今年こそは静かに上洛して世の中のことを処置しようと思っていたのに、すべては思い通りにいかなくなってしまった」という手紙を送っていたが、成すべき多くのことを仕上げることなく世を去ってしまった。
朝廷への影響
頼朝の急逝は鎌倉幕府内部だけでなく朝廷にとっても一大事件となった。
源通親は何も知らない素振りで小除目を行い、摂政藤原基通の内覧を省略して自らの右大将兼任と源頼家の左中将昇進を強行した。
そして、幕府が申請していないにもかかわらず「頼朝の御家人は頼家に従い、諸国守護を奉仕せよ」との宣旨が発給された。(『百錬抄』建久十年〈1199〉1月25日条)
頼朝の死因
頼朝に滅ぼされた者たちの怨霊による呪い説
平氏一門や源義経らの怨霊に祟られたという説だが、確証はない。
官位
年 | 官位 | 備考 |
平治元年(1159)12月14日 | 従五位下 | 平治の乱敗戦により14日後に官位を剥奪される |
寿永二年(1183)10月9日 | 従五位下(復) | 後鳥羽により復権される |
寿永三年(1184)3月27日 | 正四位下 | 木曽義仲追討の功績 |
元暦二年(1185)4月27日 | 従二位 | 平宗盛捕縛の功績 |
文治五年(1189)1月5日 | 正二位 |
しかし、現任の公卿は洛中に入るのが原則であったが、頼朝は相模国にいたので、官職は無官のままであった。
ところが、奥州合戦が終結して頼朝の覇権が全国に及ぶことが証明された翌年の建久元年(1190)、30年ぶりに頼朝が上洛した。
これによって朝廷は頼朝を権大納言・右大将に任じたが、頼朝は右大将の拝賀を行った後両官を辞退し鎌倉に帰ってしまう。
朝廷の外に権力を維持しようとした頼朝に対し、朝廷は頼朝の権力を自らの内に取り込もうとした。
翌年3月2日に海陸盗賊ならびに放火の輩を捕らえて進上するよう前右近衛大将源朝臣ならびに京機内諸国所部官司等に命じていることから、朝廷は頼朝を治安維持体制の一角に組み込もうとしたのだ。
頼朝が影響を与えた後世の偉人たち
豊臣秀吉
天正十八年(1590)、ついに天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は鶴岡八幡宮に参詣し、源頼朝像を拝観した。
諸大名が左右に並ぶ前で秀吉は像の側に歩み寄り、「卑賤の身で天下を取ったのは貴公と私だけだが、貴公は流人とはいいながら昔からの源家の家臣たちの助力を受けている。真にひとりだけの力で天下を取ったという点では、どうも私の方が上のようだ。それにしても私と貴公は天下の友だ」と言いながら、像の背中をポンポン叩いたという。
像は当初鶴岡八幡宮にあったが、現在は東京国立博物館が所蔵している。

源頼朝ゆかりの地
源頼朝像(源氏山公園)

参考資料
- 上杉 和彦「源頼朝と鎌倉幕府」新日本出版社、2003年
- 石井 進「日本の歴史 (7) 鎌倉幕府」中央公論新社、2004年
- 川合 康「源平の内乱と公武政権 (日本中世の歴史) 」吉川弘文館、2009年
- 坂井 孝一「源氏将軍断絶 なぜ頼朝の血は三代で途絶えたか」PHP研究所、2020年