角色 資料室 鎌倉時代

源頼家

生い立ち

寿永元年(1182)8月12日、頼家は源頼朝と北条政子の長男として生まれた。
政子の妊娠中、頼朝は出産祈願のために鶴岡八幡宮に若宮大路を整備させ、頼家が生まれた後は小山朝政・上総広常・千葉常胤などの東国武士と北条時政によって三夜から九夜の儀が行われ、盛大な祝福を受けた。

頼家の乳母父

父頼朝が頼家に付けた乳母父めのとは、比企能員ひきよしかず平賀義信梶原景時と移り変わっていった。
「乳母父」とは元々「乳母の夫」という意味だったが、後に主人の子を自分の家に預かって育てる後見人の男性を指すようになった。
預かられた主人の子は養君やしないぎみと呼ばれ、乳母夫は一家で面倒を見る責任を負った。

平賀義信の後任が源家一門の人間であれば北条氏に付け入れられる隙はなかっただろう。
しかし、頼朝が抜擢した源家一門の多くは政変・陰謀などで没落したので、義信の後任に梶原景時を選ばなければならないほど人選に苦しんでいた。

比企能員

寿永元年(1182)に頼家が生まれたとき、頼朝は自分が最も信頼を寄せていた乳母比企尼の甥で武蔵国比企郡司の一族である比企能員を乳母父にした。

平賀義信

頼家が頼朝の嫡子として鎌倉殿を継承する道を歩み始めると、頼朝は頼家の乳母父を平賀義信に交代した。
義信は平治の乱をともに戦った頼朝の盟友で、比企尼の娘婿でもあった。

頼家が二代目将軍となったときには、義信の嫡子朝雅が北条時政の娘婿となっている。

梶原景時

正治元年(1199)頼家が新しい鎌倉殿の座に就くと、梶原景時が乳母父になった。
景時は頼朝の腹心として幕府の草創で大きな役割を果たしたのは誰の目から見ても明らかだが、平氏追討軍の軍奉行や侍所別当として御家人同士の摩擦を調整するため憎まれ役を演じることもあった。
有能だが冷徹な人物だったので、彼を慕う者は少なかった。

源頼家 VS 北条氏

源頼家政権では、頼家を支持する梶原氏・比企氏と頼家の弟実朝を擁して対抗しようとする北条氏の図式であった。
頼家の時代は、頼朝亡き後の政治的主導権をめぐって争う権力闘争の時期だった。

反頼家派の人々

頼家が外戚である比企氏に擁立されて政権を発足させたことは、彼の政権に入れなかった人々を千幡(実朝)擁する政子のもとに集まらせることになった。

頼家最大の支持勢力・比企氏

源頼家の最大の支持勢力は、乳母比企尼の婚家である比企氏一族とその縁者だった。
比企氏は武蔵国比企郡の郡司を務めた地方豪族で、比企尼は伊豆国に流された頼朝のもとに仕送りを続けた。

寿永元年(1182)8月12日頼家が誕生すると、比企能員が乳母夫となった。

頼朝挙兵の頃の比企氏の棟梁は比企朝宗である。
元暦元年(1184)、頼朝は朝宗を勧農使として義仲が支配していた北陸道へ派遣し、北陸道10ヵ国の安定化という重要な仕事を命じた。
また、頼朝は朝宗の娘を北条義時に嫁がせ、比企氏と北条氏の結びつきを強めようとした。

比企氏の娘と結婚

頼家は比企能員の娘若狭局を妻に迎えて嫡子一幡が生まれた。
『吾妻鏡』において若狭局は”しょう”と記されているが、家を管理する女主人を表す”しつ”とは異なり、家庭において社会的地位を示す地位を持たない。
一方、公暁の母となる辻殿には”室”の待遇を受けた。

二代目の鎌倉殿

源頼朝が亡くなると、鎌倉殿主導の専制政治を継承しようとする頼家と、北条氏を外戚とした政権運営を行いたいと考える政子との権力抗争が始まった。

鎌倉殿継承の儀式

正治元年(1199)4月6日、父頼朝が朝廷から授かった諸々の守護職の継承を承認する使者が京都からやってきた。
幕府は吉書始を行い、頼家の鎌倉殿継承の儀式が執り行われた。
この日の参列者の構成は北条時政を筆頭に、頼朝が諸大夫の待遇を与えた源家一門がいないことだった。
将軍家を囲む宿老や重臣の筆頭が時政で、それに大江広元・三善康信・梶原景時などの政所・問註所・侍所の長官、三浦義澄・八田知家・比企能員などの源家ゆかりの宿老が続いている。

三左衛門事件

一条家に仕えた中原政経・後藤基清・小野養成が後鳥羽親政の重臣源通親みなもとのみちちかの暗殺を企んだ事件で、三人がいずれも左衛門尉であったことから三左衛門事件と呼ばれた。
正治元年(1199)3月5日、頼家は後藤基清の讃岐国守護職を解任し、近藤国平を新たに補任した。

十三人の合議制

正治元年(1199)4月12日、幕府に持ち込まれた訴訟に対して頼家が十三人の合議制が新設された。
将軍である頼家への直訴を禁止し、北条時政をはじめとした13人の家臣たちによる会議で成敗することを定めたものである。

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十三人の合議制

源頼朝の没後、長男・源頼家は左中将となる。建久十年(1199)1月26日には「前征夷大将軍朝臣(頼朝)の遺跡を相続し、その家人・郎従らに命じて、以前と同じく諸国の守護を奉公せよ」との宣旨が下った。 し ...

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とはいえ、13人全員が合議に参加した実例はなく、13人のうち数名による評議を行い、その結果を頼家に報告した上で、頼家が最終的な判断を下していた。
十三人の合議制は、頼家の権力を補完する政治体制であった。

頼家の反発

だが、頼家が黙ってこの処置を受け入れるはずもなく、早速お気に入りの側近5人を指名し、彼らに歯向かってはならないとの命令を下した。

御家人からの反発

頼家は同じ源氏一族でも、北条氏の者でも呼び捨てにしていたことで政子にひどく叱られた。

頼家の暴走

御家人から『恩賞』を没収する

頼家は古くからの家臣や有力御家人の勢力を削ろうとして、恩賞地の面積が五百町を越えるものは没収し、自分の側近たちに分け与えようとした。
日本全国の土地台帳的なものである大田文を取り寄せ、算術の名人を呼び寄せて計算に取り掛かったが、大江広元らの猛反対を受けてこの政策は延期となった。

そもそも、御家人たちの最大の願いは彼らの生活源である所領支配権の保護であるにもかかわらず、頼家はそれを踏みにじろうとした。
御家人たちの間に不満が生まれるのも当然だろう。

安達景盛の妾を寝取る

正治元年(1199)7月、頼家は安達景盛の妾を見初め、景盛の留守中に彼の愛妾を寝取る事件を起こした。
鎌倉に戻り事件を知った景盛は激怒し、頼家もまた怒りを露わにする景盛を謀反の罪で処刑すると息巻いたので、両者は一触即発状態となった。

8月19日、頼家の側近たちが安達景盛の甘縄亭を襲撃しようとした。
騒ぎに驚いた御家人たちは御所に駆けつけたが、政子は甘縄亭に入って騒ぎを鎮めようとした。
政子は安達一族に何の咎があるのか問いただし、安達氏を討つのであれば自分を先に討てと言い放った。

公家と武家の結婚感

当時は公家・武家ともに「家」と「家」の公的な関係として結ばれる妻を正室と称した。
中世前期まで夫婦の社会的地位はお互いの家柄で判断され、夫の家が妻の家よりも身分が上であり、妻の家が夫の社会的地位を示す指標とならない格差で結婚する場合、そのつまは妾と呼ばれた。

公家の場合、京都やその周辺部に事務所として家を構えて家政機関を置いていたので、引っ越しは容易であった。
だが、武家の婚姻は家の経営と所領の経営が一体化していたので、夫と妻の結びつきは公家よりも強いものでだった。

頼朝最後の弟の失脚

正治二年(1200)5月28日、頼家は畠山重忠と新熊野社の僧との境相論を一筆の沙汰として強引に裁定した。
また、正治二年(1200)8月2日、洛中を騒がせた罪で佐々木経高の淡路・阿波・土佐三ヵ国の守護職を解任した。

蹴鞠大好き頼家

年表

1月29日、この日もまた蹴鞠に出かけようとしたが、ついに政子に止められた。

北条政子

故仁田入道上西(新田義重)は源氏の遺老であり、武家にとってなくてはならない存在でした。
去る十四日に亡くなってからまだ二十日にも満たないのに興遊されるのでは、きっと人の誹りを招くでしょう。
よろしくありません。

頼家は問題ないと反発したが、結局蹴鞠は中止となった。

2月27日、頼家の内々の命令によって鶴岡八幡宮の別当阿闍梨が蹴鞠の名手らを招待して遊んだ。
夕方になって尊暁が蹴鞠を見たいと言ったので、懸けの木の下で300回蹴った後、それぞれ帰った。

頼家の功績

頼家政権は幕府内の内乱ばかり強調されるが、頼家自身は幕府の権力基盤の強化に務めていた。

宋の栄西を招聘

栄西は幕府の大倉御所で不動尊供養の導師を務めたのを皮切りに、頼朝の一周忌でも導師を務めている。

さらに栄西は寿福寺の開山となり、建仁二年(1202)6月には頼家が京都に建立した建仁寺の開山にもなり、真言宗・天台宗・禅宗の三宗兼学の道場として建仁寺を発展させた。
その後実朝とも親交を深め、病気加持の際に茶とともに『喫茶養生記』を進呈した。

御家人の所領の分配

正治二年(1200)12月、諸国から土地台帳を召し出して500町以上の御家人所領は余剰分を削って所領の少ない御家人に分給する政策を提案した。
しかし、この政策は幕府の宿老たちの反対にあって実現しなかった。

頼家の最期

源頼家は元久元年(1204)7月、23歳の生涯を終えたとされているが、『吾妻鏡』ではそのいきさつについては語られていない。
『愚管抄』によると、比企氏の乱を知った頼家は激怒し、病み上がりの体で太刀をとって立ち上がろうとしたが、政子に押さえつけられ、ついには修善寺に押し込められてしまった。
11月になると一幡も捕らえられ、北条氏の郎等に誅殺されたという。
北条氏の郎等は入浴中を狙ったが、頼家が必死に抵抗したのでついに急所を掴んだりしてやっと討ち取ったのだという。

京都のとある貴族の日記によると、9月7日朝、幕府の使者が京都に到着して「さる1日に頼家は病没し、実朝が後継者となった」と報告し実朝の征夷大将軍任命を要請している。
いくら重病とはいえ頼家はまだ生きているにも関わらず幕府はこのような驚くべき報告をした。

突然の危篤

建仁三年(1203)7月20日、頼家の体調が急に悪くなった。
23日には祈祷が行われ、卜筮によると霊神の祟りだという。(『吾妻鏡』同日条)

地頭職の継承

同年7月27日、頼家は未だ危険な状態だったので、譲与が行われた。

関西38ヵ国の地頭職が弟の千幡(後の実朝)に譲られ、関東28ヵ国の地頭ならびに惣守護職が頼家の長男一幡に譲られた。

一幡の外祖父である比企能員は千幡への譲与を不服に思い、千幡とその外戚らを滅ぼすことを考えた。(『吾妻鏡』同日条)

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比企氏の乱

建仁三年(1203)3月、源頼家は病に倒れ、7月には危篤に陥ってしまう。幕府内では早くも頼家の後継者問題が浮上し、北条政子たちは複数の源頼朝の血縁者に幕府の支配権を分割相続させることで源氏将軍の統治を ...

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時政追討を命じる

同年9月5日、比企能員が謀反の末に滅亡したことを知った頼家は怒りを抑えきれず、和田義盛と仁田忠常に時政を誅殺するよう命じた。
ところが、義盛は思うところがあって使者の堀親家が持っていた御書を時政に渡した。
時政は親家を捕えて工藤行光に誅殺させた。

6日、仁田忠常は時政から比企能員追討の恩賞を行うため名越殿に呼ばれた。
しかし夕方になっても忠常が出てこなかったので、怪しんだ舎人が弟の五郎と六郎に報告した。
時政追討の件が時政に漏れ伝わってしまったので、すでに誅殺されてしまったのではないかと思った弟たちは、仇討ちのため義時のもとへ押しかけようとした。
結局義時の返り討ちにあい、五郎は波多野忠綱に討ち取られ、六郎は台所に火を放って自害した。
名越殿から帰る途中でこの騒ぎを聞いた忠常は「命を捨てる」と言って御所に参上し、加藤景廉に誅殺された。

頼家の出家

7日、病気と度重なる不祥事によって頼家は出家させられた。政子の取り計らいによるものだった。

21日、時政と広元が話し合った結果、頼家は鎌倉にいてはならないということになった。
こうして29日、頼家は伊豆国修善寺に追放された。

山奥での生活は退屈でたまらないものだった。
同年11月6日、頼家は「山奥での隠居生活は退屈で堪えられないので、日頃召し使っていた近習きんじゅうを呼んでほしい」という手紙を書いて政子と実朝に送った。
しかし、「頼家の望みを叶えることはできないし、手紙も今後は送らないでほしい」という返事が戻ってくるだけだった。

元久元年(1204)7月18日、頼家は修善寺で没した。享年23歳。
翌日伊豆国から飛脚が鎌倉に来て知らせたという。(『吾妻鏡』同年7月19日条)

源頼家の墓

『吾妻鏡』との矛盾

側近・中野能成

頼家の側近5人の中の一人であった中野能成は、頼家の死後厳重に処罰され、遠方へ配流された。

だが、今日まで伝わっている北条時政安堵状によると、建仁三年(1203)9月4日比企氏が滅ぼされた直後に時政から所領の安堵を受けている。
しかも、そこには丁寧に「比企能員の非法のせいで所領を濫妨されたそうだが、特に特別待遇を与える」という意味のことが書かれていた。

官歴

正三位

建仁二年(1202)2月2日、京からの使者が1月23日に頼家が正三位に叙されたことを伝えた。

参考資料

  • 石井 進「日本の歴史 (7) 鎌倉幕府」中央公論新社、2004年
  • 永井 晋「鎌倉源氏三代記―一門・重臣と源家将軍 (歴史文化ライブラリー) 」吉川弘文館、2010年
  • 野口 実 (編)「治承~文治の内乱と鎌倉幕府の成立 (中世の人物 京・鎌倉の時代編 第二巻)」清文堂出版、2014年

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