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源実朝

生い立ち

坊門信清の娘と結婚

将軍になった翌年、同い年で13歳になる京都の貴族坊門信清の娘と結婚した。
はじめは政子たちに下野国の豪族足利義兼の娘を紹介されたが、実朝は承知しなかった。

このルートを通じて京都の文化や風俗が鎌倉にも伝わるようになった。

実朝の時代

源実朝の時代は、外祖父北条時政が政権を掌握した時代と、牧氏事件で時政が北条政子義時姉弟によって伊豆国に追放された後の時代に大別される。

北条時政の時代

北条氏によって擁立された実朝は兄頼家のように有力な支持勢力を持たないため、鎌倉殿として幕府の最上位に位置していたものの、政治の主導権は北条氏によって掌握されていた。
北条氏は当主とその郎等たちとのつながりを軸とした主従的な関係の集団のまま組織を広げていったため、大きな組織を運営するために必要な官僚的な組織に脱皮できずにいた。

孤独ではなかった実朝

和田氏や大内氏のような、実朝に武家の棟梁としてふるまうことを期待する勢力も残っていたので、必ずしも政治の場から疎外された孤独な将軍というわけでもなかった。

実朝時代の幕府の在り方

「執事」から「執権」へ

鎌倉幕府の法によると北条時政・義時父子の二代を”執事”と呼び、泰時以降は”執権”と呼ばれている。
これは、時政・義時が「人」としての源実朝に仕える将軍家の執事であったのに対し、泰時以降は政治・神事の「象徴」と化した将軍家に代わって俗事を主導する執権に変わったからである。

公家文化を好んだ実朝

実朝が和歌や蹴鞠のような公家文化に没頭したのは、幕府における政治の主導権は北条政子・義時や幕府の草創期からいる古くからの重臣が握っていたからだ。
しかし、実朝が成長するにつれて政子や義時ら宿老たちと微妙なすれ違いが生じるようになっていった。
実朝が幼い頃は政子の意思決定「尼御台所御計」があったが、実朝が成長すると北条氏を疎んじていた人々が実朝と直接繋がろうと動き出した。

歌鞠(和歌と蹴鞠)を愛する

武芸に励み武家の棟梁であろうとした兄頼家に対し、実朝は和歌と蹴鞠を愛し、京都の文化に強い関心を抱いていた。(蹴鞠を好んだのは頼家もそうだが)

実朝の和歌の指導に携わっていた飛鳥井雅経と大江広元は親戚だったので、歌鞠かきく(和歌と蹴鞠)の名門である飛鳥井家は鎌倉を交流を持つようになっていった。
雅経の兄難波宗長は蹴鞠の達人だったので、甥にあたる出雲守長定が実朝の御所に遊びに来ることもあった。

実朝が歌鞠のような京都の公家文化を好んだことで、実朝の周囲にも歌鞠の相手をするための側近が集められた。
建保元年2月1日には将軍家の学問・芸能の相手を交代で勤める学問所審が新設された。

やがて北条氏や大江広元・親元父子などの幕府の重臣たちも実朝の歌会に出席するようになり、実朝のも下で働くためには詩歌や蹴鞠の技術も求められることになった。

歌人として

頼家は和歌に関心を持たなかったので歌会が開かれることはなかったが、実朝は花鳥風月を楽しみ、しばしば歌会を開いた。

藤原定家ので弟子内藤知親の和歌が、定家の推薦によって『新古今和歌集』に「読人しらず」として入集した。
知親は『新古今和歌集』を書写したものを実朝のもとに送り、その後も実朝の和歌を定家に届けたり、定家の和歌を実朝に届けて二人の仲を取り持った。
定家は歌集や和歌についての文書を飛鳥井雅経や村上頼時に託し、実朝の和歌指導に力を注いでいった。

万葉調の歌人

実朝は万葉調の歌人と称され、力強い歌ばかりを詠んだと考えられがちだが、歌集『金槐和歌集』では当時の歌壇の主流である新古今調を模倣した作品が多数収録され、傑作はさほど多くない。

『金槐和歌集』の完成

実朝の和歌を編纂した『金槐和歌集』が完成した。
当時実朝が鎌倉右大臣だったことから、右大臣を意味する「金塊」の名を冠している。(「金」は鎌倉の扁、「槐」は「大臣」の中国風の呼び方)

御家人たちの不満

官位

実朝の官位昇進のスピードは藤原氏摂関家の子弟も及ばぬほどの凄まじい速さであった。

大江広元らに頼朝や頼家が低い官位に甘んじていたことを引き合いに諌めると、実朝は「源氏の正統は自分で絶える。だからせめて高官に上って家名を上げたいのだ」と言ったという。

時期 官位
建保四年(1216) 権中納言・左近中将
建保六年(1218) 権大納言兼左大将・内大臣
建保六年(1218)12月 右大臣

実朝の最期

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参考資料

  • 石井 進「日本の歴史 (7) 鎌倉幕府」中央公論新社、2004年
  • 永井 晋「鎌倉源氏三代記―一門・重臣と源家将軍 (歴史文化ライブラリー) 」吉川弘文館、2010年
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やみみん

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