実朝は歌集『金槐和歌集』の編纂で天才歌人として評価される一方、鎌倉幕府の第三代将軍としては源氏と北条氏、あるいは朝廷と幕府の板挟みになり公家文化に逃避し続けた将軍と考えられていた。
だが、近年になって実朝は積極的に政治に関わろうとしていたことがわかり、再評価され始めている。
生い立ち
源実朝の時代は、外祖父北条時政が政権を掌握した時代と、牧氏事件で時政が北条政子・義時姉弟によって伊豆国に追放された後の時代に大別される。
建久三年(1192)8月9日、浜御所と呼ばれる名越の館で実朝は生まれた。
父は源頼朝、母は北条政子。
幼名は千幡(千万)と名付けられた。
政子の妹で阿野全成の妻阿波局が乳付け役となった。
実朝の誕生を祝う儀式は3ヶ月に渡り、御家人たちが祝いの品を献上した。
だが、比企氏を背後に付けた兄頼家に対して実朝の乳母が北条氏の阿波局になったことは、比企氏と北条氏の対立を生むきっかけとなった。
12歳で将軍になる
頼家が出家したことにより、千幡が新たな鎌倉殿となった。12歳のときであった。
「実朝」という名前
10月8日、千幡は時政邸で元服し、後鳥羽から「実朝」という名前を賜った。
以後、千幡は「源実朝」を名乗るようになった。
お飾りの鎌倉殿
安芸国の地頭職をめぐって山形五郎為忠と小代八郎行平が言い争ったので、守護宗左衛門尉の注進状に基づいて実朝の御前で裁定を下すことになった。
このとき、時政と大江広元が同席した。(『吾妻鏡』元久元年〈1204〉7月26日条)
実朝にとっては初めての裁定だったが、元久二年(1206)まで幕府から発給された文書の多くは時政が判を押す下知状様式の文書だったことから、実際は時政と大江広元が幕府の政治を仕切っていたようだ。
坊門信清の娘と結婚
将軍になった翌年、同い年で13歳になる京都の貴族坊門信清の娘と結婚した。
はじめは政子たちに下野国の豪族足利義兼の娘を紹介されたが、実朝は承知しなかった。
このルートを通じて京都の文化や風俗が鎌倉にも伝わるようになった。
北条時政の時代
北条氏によって擁立された実朝は兄頼家のように有力な支持勢力を持たないため、鎌倉殿として幕府の最上位に位置していたものの、政治の主導権は北条氏によって掌握されていた。
北条氏は当主とその郎等たちとのつながりを軸とした主従的な関係の集団のまま組織を広げていったため、大きな組織を運営するために必要な官僚的な組織に脱皮できずにいた。
孤独ではなかった実朝
和田氏や大内氏のような、実朝に武家の棟梁としてふるまうことを期待する勢力も残っていたので、必ずしも政治の場から疎外された孤独な将軍というわけでもなかった。
実朝時代の幕府の在り方
「執事」から「執権」へ
鎌倉幕府の法によると北条時政・義時父子の二代を”執事”と呼び、泰時以降は”執権”と呼ばれている。
これは、時政・義時が「人」としての源実朝に仕える将軍家の執事であったのに対し、泰時以降は政治・神事の「象徴」と化した将軍家に代わって俗事を主導する執権に変わったからである。
朝廷から情報収集
元久元年(1204)1月12日、実朝は京都から侍読(将軍に学問を教える学者)として源仲章を呼んだ。
仲章は優秀な人物ではなかったのだが、読書を好み多方面の学問に通じていた。
そして、新年の読書始の儀式で『孝経』(「孝」の道を説く中国の教書)を読んだ。(『吾妻鏡』同日条)
建暦元年(1211)7月4日、実朝は帝王学の教書といわれる『貞観政要』の読み合わせを行った。(『吾妻鏡』同日条)
『貞観政要』は唐の太宗が群臣と政治について語った言葉を集録した本で、帝王学の教書として名高い。
公家文化を好んだ実朝
実朝が和歌や蹴鞠のような公家文化に没頭したのは、幕府における政治の主導権は北条政子・義時や幕府の草創期からいる古くからの重臣が握っていたからだ。
しかし、実朝が成長するにつれて政子や義時ら宿老たちと微妙なすれ違いが生じるようになっていった。
実朝が幼い頃は政子の意思決定「尼御台所御計」があったが、実朝が成長すると北条氏を疎んじていた人々が実朝と直接繋がろうと動き出した。
歌鞠(和歌と蹴鞠)を愛する
武芸に励み武家の棟梁であろうとした兄頼家に対し、実朝は和歌と蹴鞠を愛し、京都の文化に強い関心を抱いていた。(蹴鞠を好んだのは頼家もそうだが)
実朝の和歌の指導に携わっていた飛鳥井雅経と大江広元は親戚だったので、歌鞠(和歌と蹴鞠)の名門である飛鳥井家は鎌倉を交流を持つようになっていった。
雅経の兄難波宗長は蹴鞠の達人だったので、甥にあたる出雲守長定が実朝の御所に遊びに来ることもあった。
実朝が歌鞠のような京都の公家文化を好んだことで、実朝の周囲にも歌鞠の相手をするための側近が集められた。
建保元年2月1日には将軍家の学問・芸能の相手を交代で勤める学問所審が新設された。
やがて北条氏や大江広元・親元父子などの幕府の重臣たちも実朝の歌会に出席するようになり、実朝のも下で働くためには詩歌や蹴鞠の技術も求められることになった。
天才歌人
頼家は和歌に関心を持たなかったので歌会が開かれることはなかったが、実朝は花鳥風月を楽しみ、しばしば歌会を開いた。
なかでも、『金槐和歌集』の編纂は大きな功績とされている。
藤原定家ので弟子内藤知親の和歌が、定家の推薦によって『新古今和歌集』に「読人しらず」として入集した。
元久二年(1205)9月2日、実朝は父頼朝の歌も入集している『新古今和歌集』を書写したものを知親から受け取った。
承元二年(1208)5月29日、実朝は妻に仕えていた兵衛尉清綱から『古今和歌集』を献上された。
承元三年(1209)7月5日、実朝は三十首の和歌を作り、定家に添削を求めた。
定家は返事として『詠歌口伝一巻』を送り、二人の交流が始まった。
定家は歌集や和歌についての文書を飛鳥井雅経や村上頼時に託し、実朝の和歌指導に力を注いでいった。
万葉調の歌人
実朝は万葉調の歌人と称され、力強い歌ばかりを詠んだと考えられがちだが、歌集『金槐和歌集』では当時の歌壇の主流である新古今調を模倣した作品が多数収録され、傑作はさほど多くない。
『金槐和歌集』の完成
実朝の和歌を編纂した『金槐和歌集』が完成した。
当時実朝が鎌倉右大臣だったことから、右大臣を意味する「金塊」の名を冠している。(「金」は鎌倉の扁、「槐」は「大臣」の中国風の呼び方)
この歌集は全八部(春・夏・秋・冬・賀・恋・旅・雑)六百六十三首で構成されている。
御家人たちの不満
官位
実朝の官位昇進のスピードは藤原氏摂関家の子弟も及ばぬほどの凄まじい速さであった。
大江広元らに頼朝や頼家が低い官位に甘んじていたことを引き合いに諌めると、実朝は「源氏の正統は自分で絶える。だからせめて高官に上って家名を上げたいのだ」と言ったという。
時期 | 官位 |
建保四年(1216) | 権中納言・左近中将 |
建保六年(1218) | 権大納言兼左大将・内大臣 |
建保六年(1218)12月 | 右大臣 |
実朝の最期
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参考資料
- 石井 進「日本の歴史 (7) 鎌倉幕府」中央公論新社、2004年
- 永井 晋「鎌倉源氏三代記―一門・重臣と源家将軍 (歴史文化ライブラリー) 」吉川弘文館、2010年
- 平 雅行 (編)「公武権力の変容と仏教界 (中世の人物 京・鎌倉の時代編 第三巻)」清文堂出版、2014年