『道賢上人冥途記』は道賢上人が修行中に倒れ、日本への復讐を企む菅原道真や地獄で罰を受ける醍醐天皇に遭遇し、再び現世に戻ってくる説話。『扶桑略記』にも同様の記述がある。
『扶桑略記』の記述は『道賢上人冥途記』からの引用だが、一部省略されている部分がある。
『道賢上人冥途記』の元になった本として、『日蔵夢記』がある。
いずれにおいても、菅原道真の報復対象は藤原時平ではなく醍醐天皇とされている。
基本情報
概要
天慶三年(940)、道賢上人は世の中の災難を救うために金峯山の奥深くに入り、無言で断食をしたまま修行を行ったが、喉の渇きによって絶命した。
道賢の霊魂が身体から離れてさまよっていると、執金剛神が現れて水を飲ませてくれた。さらに、蔵王菩薩が現れて道賢に『日徳』と記した短札を渡した。
そこへ太政威徳天がやってきて、道賢を自分の居城へ連れて行った。太政天は生前菅原道真であったこと、日本への報復を考えていることを語り、短札に書かれた文字について説明し、道賢に『日蔵』と改名させた。それから日蔵は地獄で責め苦を受ける醍醐天皇とその廷臣に遭遇した。醍醐天皇は生前犯した数々の大罪によって、鉄窟苦所で苦しんでいるのであった。そして、日蔵は満徳天(宇多法皇)に会い、道真が怨心によって日本にさまざまな災害を起こしてきたこと、その苦しみを醍醐天皇が一人で受けていることを語られる。そうして日蔵は蔵王菩薩のもとへ戻り、現世に蘇生した。
内容
道賢上人が修行中に息絶える
本編は、道賢自身が体験したことを語る形式である。
私は、去る延喜十六年(916)春二月、十二歳のときに初めて金峯山に入り、発心門椿山寺で剃髪しました。出家してからは、塩や穀物を口に入れるのをやめました。そうして、六年間山に籠もって修行しました。
六年目のとき、私の母が頻りに病に苦しんでおり、泣き続けていると伝え聞きました。そこで、私は延喜二十一年(921)春三月に山を降りて都に入りました。その後は、飽きることなく年中修行を続けました。母の亡くなった年(延長三年〈925〉)の春から今年(天慶三年〈940〉)の秋に至るまで、この山で修行すること十六年となりました。
ここ数年、世の中で起こっている災難は一つには収まらず、見聞きするたびに私自身も死んでしまうような思いでした。加えて、私の夢に物の怪が現れてうるさく暴れるので、心が休まりませんでした。
天文・陰陽の博士も頻りに不吉な兆しがあると奏上していました。
そこで、私は仏の霊験による救済を求めて、すべてを投げうってこの山に登り、山奥のさらに奥深くに入って修行することに決めました。
これは、まず第一に天下を護ること、次に我が身の安全を祈願するためでした。そうして言葉を発さず断食して、一心に念仏を唱え続けました。
天慶四年(941)八月一日午時頃、私は壇で作法を行っている間、突然熱気が起こり、ひどく喉が渇きました。喉も舌もからからに乾いて息ができなくなりました。その時、私は「ここまで無言と断食を貫いてきたのだから、今さら助けを呼んだり喉を潤すことはできまい」と思いました。そう思っている間に、私は息絶えてしまいました。
蔵王菩薩に出逢い『日蔵』に改名する
こうして私は命を落とし、霊魂だけの姿となって洞窟の外に立っていました。
その姿は、かつて私が仏と経を背負って山に入ったときと同じでした。
四方を見回して進むべき方向を見定めていると、洞窟の内から一人の僧が出てきました。僧は水の入った金の瓶を私に手渡して、飲ませてくれました。骨の髄に染み入るかのようにとても甘くて、美味しい水でした。
僧は「私は、執金剛神である。常にこの洞窟に住んでいて、釈迦如来の遺した法を守護している。私は、上人の長年の読経や念仏に感心していた。そこで、上人が喉の渇きによって落命したとき、急いで雪山に行きこの水を汲んできたのだ」などと言いました。
また、背が数十丈もある童子がさまざまな食物を大きな蓮の葉に盛り付けて捧げ持ち、控えて立っていました。
執金剛神が私に「この童子たちは、所謂二十八部衆である」と教えてくれました。
しばらくして、西の岩の上から一人の落ち着いた僧が下りてきました。
僧は左手を差し出して私に掴ませると、まっすぐな道から岩の上に引き上げました。
見上げると雪の高さが数千丈にもなっていたのに、あっという間に頂上に着きました。見ると、すべての世界が下にありました。
この山から見える景色は、極めて美しいものでした。
山頂は平らで、黄金に光り輝いていました。
北の方に、金の山が一つ見えました。
山の門の内側には七宝の高座があり、一人の高僧がそこへ腰掛けました。
高僧は「私は釈迦牟尼の化身、蔵王菩薩である。この地は金峯山浄土なのだ。そなたは余命いくばくもない。命の尽きる速さと競うように善行を積みなさい。人間に生まれることは得難いものだ。誤って邪道に走るな」と言いました。
私は「自分はつまらないものですから、命は惜しくありません。ただ、道場を建立して志半ばで寿命が尽きることだけが気がかりです。どうか、私は後どのくらい生きられるのか教えていただけないでしょうか。また、どのような仏に帰依し、どのような法を修すれば寿命を延ばせるのでしょう」と尋ねました。
蔵王菩薩は短札を取って八字を記し、私に渡しました。短札には「日蔵九々、年月王護」とありました。
菩薩は「そなたの命は山にぶつかって散らばっていく浮雲のようなものである。空に浮いているものは容易く千切れる。そなたの命も同じようなものなのだ。山で修行をすれば寿命を延ばすことはできる。里に住んで修行を怠れば短い。『日蔵』とは、そなたの尋ねた本尊と法である。この本尊と法に帰依し、直ちに『日蔵』と名を改めよ。『九々』とはそなたの残りの命の長さを示したものであり、『年月』とはそなたの行いによって寿命が長くもなり、短くもなることを表している。『王護』とは蔵王菩薩たる私がそなたを護るということである。そなたは護法菩薩を師として、重ねて戒めを受けよ」と言いました。
日本太政威徳天(菅原道真)が現れ、日本を滅ぼす計画を告げる
その時、自ら明るい光を発して輝くものが見えました。その光は、五色に輝いていました。
菩薩は「日本太政威徳天が来た」と言いました。
すると、西の山の空から十万人の集団が来ました。その光景は、まるで天皇の即位行幸の儀式のようでした。太政威徳天の侍従あるいは眷属は異形のもので、数えきれないほど多くいました。金剛力士、雷神、鬼王、夜叉など、とても恐ろしいものたちでした。それぞれ弓箭、桙、矟、数え切れないほどの鎌杖を手にしていました。
太政天は退出しようとしたとき、私を見てこう言いました。
「この仏弟子殿に我が居城である大威徳城を見せ、またここに帰そうと思うが、如何でしょう」
菩薩は、お許しになりました。
私は白馬に乗って太政天の輿の近くを進みました。
数百里行くと、大きな池がありました。池の中には一つの大きな島が浮かんでいて、広さは百里ほどありました。島の中には八つの丘があり、四角い壇の中に蓮の花が咲いています。その花の上には宝塔があり、塔の内部には法華経が安置されていました。東西には両部曼荼羅が掛けられており、荘厳さは言葉では言い表せませんでした。
また、北の方を見ると大きな城がありました。その城壁が明るく照り輝いているのを見て、これがまさしく太政天の居城なのだろうと思いました。
無数の眷属たちが皆この城に入っていきます。
太政天は言いました。
「生前、私は上人の本国の菅丞相であった。忉利天の三十三天は私を日本太政威徳天と呼んでいる。その昔、私は愛する者と別れる苦の悲しみを味わった。私は生前の怨みを忘れられず、生前のことを語られる度に思い出す。ゆえに、私は現世の廷臣を悩ませ、人民を傷つけ、日本を滅ぼすことに決めた。私はあらゆる病気や災難を引き起こせるのだ。
当初、私は『生前に流した涙によって必ずや日本を水没させ、遂には海にしてしまい、八十四年後にはそこに新たな国土を造り、我が居城としよう』と考えていた。だが、日本では普賢菩薩や龍猛菩薩が盛んに密教を広めている。私は以前からこの教えを重んじていたので、昔日の怨みの十分の一は安まった。さらに、化身の菩薩たちが悲願力によって日本の神の姿をとっている。ある菩薩は山の上や林の中、ある菩薩は海辺や海岸や谷に住んで智力を尽くし私をなだめている。それゆえ、まだ大きな害にはなっていない。しかし、我が眷属である十六万八千の悪神たちが至る所で破壊行為をしていることは、私自身でも止められないのだ。他の神であればなおさらである」
私は太政天に尋ねました。
「私の本国では皆あなたを火雷天神と申し上げ、釈尊のように尊重しております。どうしてそのようにお恨みになるのですか」
太政天は答えました。
「あの国において、私は大怨賊とされている。誰が尊重などしていようか。その火雷火気毒王とは、私の第三の使者の名である。私が成仏しない限り、この恨みを忘れることはない。もし、在世のときに私の官位に就く者がいたら、私は必ずその者を害するだろう。ただ、今日私の話を聞いてくれた上人のために一つの誓いを立てよう。もし上人の言葉を信じる人がいたならば、私が『私の像を造り、私の名を唱えて真摯に祈る者がいたならば、必ず天下を救いたいと願う上人の心に応えよう』と申していることを伝えよ。ただ、上人には短命の相がある。慎んで精進し、修行を怠らないように」
私は言いました。
「蔵王菩薩からこの短札を賜りました。しかし、私は未だにその意味がわかりません」
太政天はその札に記された文字の意味について解説してくれました。
「『日』は大日の日で、『蔵』は胎蔵の蔵、『九々』は八十一、『年』は八十一年、『月』は八十一月である。『王』は蔵王の王、『護』は守護の護である。『大日如来に帰依し、胎蔵大法を修すれば、八十一年の天寿を全うすることができる』ということだ。仏の教えに従って修行をすれば寿命は八十一年になり、懺悔することなく修行を怠れば、八十一月の短命に終わるだろう。このように、蔵王菩薩がそなたを護っている。そなたは今日から『日蔵』と名を改め、修行を怠ることなく精進しなければならない」
私は太政天の教えを承り、金峯山に戻りました。そして、蔵王菩薩に太政天の言葉を伝えました。
菩薩は言いました。
「私はそなたに世間の災難の根源が何であるか知らせたかった。そのために太政天のもとに遣ったのだ」
地獄で苦しむ醍醐天皇に遭遇する
また、菩薩と私が地獄を見に行ったとき、鉄窟苦所に至りました。一つの茅屋があり、中には四人いて、その姿は灰のようでした。一番身分の高そうな人は衣で背中を覆っており、他の三人は裸で赤灰の上にうずくまっています。
獄領は私に「衣を着ているのは上人の本国の延喜王(醍醐天皇)で、他の裸の三人はその廷臣です。君臣ともに責め苦を受けているのです」と説明しました。
延喜王は私に気づいて、お招きになりました。
「私は日本金剛学大王の子だが、こうして鉄窟苦所に堕ちてしまった。かの太政天は怨心のために仏法を焼滅させ、衆生に危害を加えようとしている。その悪行の報いが、太政天の怨心の根元である私に来ているのだ。生前、私は五つの大罪を犯した。一つ目は、我が父(宇多法皇)を険しい道を歩かせたように身も心も苦しめたこと。二つ目は、私は高座にいながら聖なる父を土の上に座らせて落涙させたこと。三つ目は、罪なき賢臣を流罪に処してしまったこと。四つ目は、長く皇位に居座ることで恨まれ、仏法に背かせたこと。五つ目は、私に恨みを抱く者に私以外の人々を害させたこと。これらが主な罪で、あとの小罪は数え切れないほどだ。それで、休みなく責め苦を受けているのだ。苦しいかな、悲しいかな……。そなたは、私の言葉を帝に奏上してくれ。我が身の苦しみを早く救済してほしいと。また、摂政大臣にはこう伝えてほしい。『私の苦しみを取り除くために、一万の卒塔婆を建ててほしい』と」
満徳法主天(宇多法皇)から道真の怨心について語られる
続いて、蔵王菩薩は私を満徳法主天(宇多法皇)のもとに連れていきました。
満徳天は言いました。
「かの日本太政天とは、菅公のことである。毒龍・悪鬼・毒害・邪神などの十六万八千の眷属で国土を満たし、大災害を引き起こそうとしている。去る延長八年(930)夏、清涼殿に落雷があって藤原清貫、平希世朝臣らが犠牲になった。この天火は、太政天の第三使者・火雷天気毒王の仕業である。その毒気は、我が子である延喜王の身体に入り込み五臓六腑を尽く爛れさせた。そうして、とうとう我が子は亡くなった。また、崇福寺・法隆寺・東大寺・延暦寺・檀林寺などの諸大寺が焼亡した。これらも、太政天の使者によるものである。このように悪神たちが仏法を害して人々を殺めた罪を、我が子がたった一人で負わされているのだ。あらゆる川の水が大海に呑まれるように……。また、その他の眷属も火雷王に加勢して、山を揺らして崩したり、街を破壊し、暴風を吹かせて豪雨を降らせる。人も物も傷ついている。ある者は疾病を蔓延させ、ある者は謀反の心を起こさせる。それでも、金峯菩薩や八幡菩薩、そしてこの満徳天である私が堅く押さえつけて自由にさせなかった」
日蔵が蘇生する
満徳天の言葉を聞き終えた私は、元の蔵穴に入って現世に戻ってきました。
時は、天慶四年(941)八月十三日寅時となっていました。
あの世への門をくぐってからすでに十三日が過ぎていたのです。
菅原道真の祟り
清涼殿落雷事件
延長八年(930)6月26日に宮中で起こった清涼殿落雷事件は、菅原道真の怨霊による祟りだと考えられた。
参考清涼殿落雷事件―菅原道真の怨霊による落雷の祟り
菅公の祟り 清涼殿落雷事件 清涼殿落雷事件は、延長八年(930)6月26日に平安京内裏の清涼殿南西の第一柱に雷が落ちた事件である。この日は清涼殿において干ばつによる雨乞いの実施について会議が予定されて ...
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