背景
承久三年(1221)5月15日午の刻(正午頃)、伊賀光季が誅殺され、藤原光親に勅して北条義時追討の宣旨が五畿七道に下された。
さらに5月16日寅の刻(午前4時頃)、義時追討の宣旨を託された押松(藤原秀康の所従)が京都を出発した。
※所従……家来・従者のこと。
また、三浦胤義の私文書が駿河義村のもとに到着。
書状には、『勅命に応じて義時を誅殺せよ。勲功の恩賞は望み通りに与える』とあった。
義村は返事を書かずに押松を追い返し、義時に忠節を尽くすことを誓った。
そして、御家人達が政子の邸宅に集まった……。
政子の大演説
承久三年(1221)5月19日、陰陽師安倍親職・安倍泰貞・安倍宣賢・安倍晴吉らを招き、卜筮を行わせたところ、関東は泰平であるとの結果が出た。
北条時房・北条義時・大江広元・足利義氏らが集まった。
政子は御家人らを御簾の側に招き、安達景盛を介してこう言った。
故右大将軍(源頼朝)が朝敵を征伐し、関東を草創してから、官位といい、俸禄といい、その恩はすでに山よりも高く、海よりも深い。その恩に報いる思いが浅いはずはなかろう。
そこに今、逆臣の讒言によって道理に背いた綸旨が下された。
名を惜しむ者は、速やかに藤原秀康・三浦胤義らを討ち取り、三代にわたる将軍の遺跡を守るように。
ただし院(後鳥羽)に参りたければ、今すぐに申し出よ。
『慈光寺本』では、政子は長女の大姫、夫の頼朝、長男頼家、次男実朝に先立たれ、弟の義時も失えば、五度目の悲しみを失うと嘆いている。
そして、実朝が朝廷と交渉して京都で働く御家人たちの負担が軽くなったことを訴え、頼朝・実朝の墓を馬の蹄で蹴らせるのは、ご恩を蒙った者のすることではない。朝廷側に付いて鎌倉を攻めるか、鎌倉に味方して京都を攻めるか選択せよと迫った。
御家人らの反応
御家人らは涙に暮れて十分に答えることもできず、ただひたすら命を捨てて恩に報いようと思った。吾
上洛を決める
当初は足柄・箱根の関所を固めて追討軍を迎撃する予定だった。
しかし大江広元が「東国武士が心をひとつにしなければ、関所を守って時の流れに身を任せるのはかえって敗北を招きます。速やかに兵を京都に派遣するべきです」と進言したので、義時が政子に伝えたところ上洛することに決まった。
こうして遠江・駿河・伊豆・甲斐・相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野・陸奥・出羽などの国々に義時の奉書を伝え、家々の長に一族を率いて出陣するよう命じた。
京都より坂東を襲撃するとの噂があったので、相模守(時房)・武蔵守(泰時)が軍勢を率いて出陣する。式部丞(北条朝時)は北国に向かわせる。この事を速やかに一家の人々に伝えて出陣せよ。