鎌倉時代

【現代語訳】『曽我物語』政子、山木兼隆に嫁がされる

巻第三

人王八十代高倉天皇の時代、安元2年(1176)3月半ばの頃から、兵衛佐殿は政子に浅からぬ愛情があって毎晩彼女のもとへ通っているうちに、姫君が生まれた。
これによってますます愛情深くなり、政子にとっても他に比べる者がいないほどの仲になった。

政子、山木兼隆に嫁がされる

そもそも、北条時政の子息小四郎義時が上洛を留められ、兵衛佐殿を守っているうちに佐殿が妹のところへ通っていることは詳しく知っていた。
けれども表立って言うことはなく、心の中で「同じ妹婿なのに、どうして嫌うことがあろうか。今が時代にそぐわないだけだ。
その上、氏といい器量といい家にとっても名誉なことだ」と思った。

牧の方はこの様子を見て「あのように取り計らうならば、私の産んだ姫君を佐殿に会わせてみるべきだったのに」と思って、毎日毎晩万寿御前を妬むのはこの上ない。
前世での約束だということがわからない女性の性は情けないものだ。

そこで、牧の方は都へ使者を遣わしてこのことを報告した。
時政もちょうど都から帰る途中だったので、その使者と垂井の宿で会った。
妻からの手紙を開き見て、思いがけず婿を取ったことを知って時政は大いに驚いた。

驚くのも当然だ。
伊豆国の目代山木兼隆を都で婿に取っていたのだ。
彼は平家の侍といいながらも平家の一門である上に、婿に取って国へ帰ることになったので三年間大番役だったのを他の人に替わってもらって伊豆へ同行した。
その上、都でも道中でも家子から郎等に至るまで互いに気を使って、まして国へ到着したら伊豆国の政務を任せると約束していたのだ。
時政は「どうしたものか」と思い悩んだ。

このとき、時政は両目を塞いで「よくよく昔のことを思えば、私の先祖上野守平直方は伊予守源頼義公が奥州に向かわれて北条の館にお入りになった時、婿に取り申し上げて奥州までお供し、無事に平定した。
多くの男子が生まれたので寵愛はますます深くなり、妻を大御台と呼んだ。
この御方の息子たちは八幡太郎義家賀茂次郎義綱らで、子孫はよく繁栄して、末々の者まで長く続いている。
私が家に源氏を婿に取った後、頼もしく栄える例だ」と考えを廻らせた。

「むやみに佐殿との結婚を嫌がるべきではない。
けれども、都にて目代を婿に取り親切にされて帰ってきたのだから、どうすればよいのだろうか」と考えた。

また考え直して、「よいよい。何も知らないふりをして家には帰るまい。目代とともに伊豆の国府へ行き、知らぬ顔で政子を呼んでしまえば丸く収まるだろう」驚く心を鎮め、目代とともに府庁に着いた。

けれども、時政の心は休まらなかった。
「政子は一人だが、婿は二人いる。目代は私が取った婿だ。
佐殿は政子が深く思いを寄せている婿だ。どうしたものか」と思い悩んだ。

牧の方へ「私は目代とともに府庁にいる。今は神社の参拝で忙しく、そちらに帰れない。
都にて目代を婿に取った。急いで政子を連れて来てくれ」と言った。
牧の方は大いに喜んで「政子を目代のもとへ向かわせるなら、私の娘を佐殿に嫁がせよう」と内心喜んだのは浅はかなことだった。

すぐに政子を呼び「これが北条殿からの手紙よ」と手紙を見せられると、政子はこれを見て胸が苦しくなり、泣くしかなかった。
牧の方が「どうしたのです。早く行きなさい」と急がせても、政子は「実の母ならば、こんなに非情なことはしないだろう」と思うとますます涙が流れた。
出発しようとすれば佐殿との恩愛の別れになってしまうのも悲しい。
残ろうとすれば親不孝の罪は逃れられない。

その頃、佐殿はどこかへ出かけていた。
仲睦まじく過ごしていた思い出を語り置く術もない。
「とにかく行ってみよう」と思い、不本意ながらも出発した。

泣く泣く手紙を書いて置いていこうとしたところ、佐殿が帰ってきた。
政子は涙で袖が濡れている。
佐殿がこれを見て「どうした」と聞くと、政子は涙を堪えて「父上が都で私を目代に嫁がせると約束したということで、府庁から使者が来ました。親の命に従えば、あなたと別れる苦しみに胸を焦がしていたのです。最後まで側にいようとすれば親不孝の罪は逃れられません。とにかく、どうすればよいのかわからず悲しいのです」と悲しみに打ちひしがれた倒れ沈んでいたのももっともなことだ。
佐殿もともに涙で濡れた袖を絞った。

牧の方から「どうして遅いのですか」と何度も使者が来た。
このままこうしているわけにもいかないので、「もう参ります」と言って泣くと、佐殿も涙を抑えて、
「これまで寄せてくれた行為は、私にはもったいないほどだ。この世ではむなしく離れてしまっても、来世では必ず結ばれよう」と言い終わらぬうちに、
自ずと袖を絞った。

政子は佐殿を見て、泣きながら「必ず他の方へ心変わりすることなく待っていてください。
目代のもとには一夜たりともこの身を留めません。
もし逃げられなければ、どのような淵瀬でも身を投げましょう。来世を弔ってください。
また、逃げられたならば、落ち着いた場所から急いで手紙を差し上げましょう。
使者とともに来てください。
では、お別れです、我が君」と言って、牧の方のもとへ向かった。

牧の方から佐殿へ「こちらにも姫がいますから、満たされぬ心の慰みにしてください」と申し置いて、万寿御前を連れて府庁へ急いだ。
住んでいた家を捨てて思いもよらぬ館に移り住むことはまったく考えていなかったけれども、「父に大きな迷惑を掛けまい」と思っての謀なので、
ずっと住むべき館でもなかった。

けれども、表面上は何事もないかのように振る舞っているが、ただこれまでの思い出を恋しく思っていた。
佐殿も独り粗末な家で夜空を見ると、政子と共に眺めていた月も涙で見えず、一晩中嘆き明かした。

夕暮れは 待たれしものを 今はただ 行くらん方を 思ひこそやれ
(あなたに逢えるときは夕暮れが待ち遠しかったのに、今はただあなたが去ったほうを想うだけだ)

と口ずさむのも悲しいものよ。

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