平安時代

平将門の乱―将門、朝廷の活動年表

平将門の乱

平将門の乱は、天慶二年(939)11月に起きた、平将門による反乱である。
藤原純友の乱と合わせて承平天慶の乱と呼ばれる。

基本情報

背景

将門と叔父良兼の対立

延長九年(931)、平将門は叔父平良兼と女論によって仲違いした。(『将門略記』)

将門は、良兼の娘を娶っていた。

『今昔物語集』では、将門は良兼と父良持の荘園の領有権をめぐって争い、仏法を深く信仰していた良兼は合戦を避けようとしていたが、合戦に発展したとある。(『今昔物語集』巻25第1話)

平将門が敦実親王のもとに参上した際、門を出るときに平貞盛とすれ違った。親王の御前に参上した平貞盛は、将門は天下に大乱を起こすものだと申し上げた。(『古事談』)

兵乱の兆し

承平四年(934)5月27日、激しい風が吹いて砂埃が舞い上がり、突然空が曇って暗闇に覆われた。これはどうしたことかと怪しんでいると、大地が激しく揺れて京中の民家や神社、仏閣に至るまで破損した。
水は湧き上がって天に上り、山は崩れて谷ができた。地震は巳の刻から申の刻まで止まず、人々は大地を支えている軸も折れて奈落の底に落とされると泣き叫んだ。もしかしたら逃げられるのではないかとその場から走り出したが、酔っ払ったかのように一歩も前に進めず、そのまま倒れてしまった。
日が暮れて揺れが少し収まると、人々はみな命拾いしたような心地でほっと大きく息をついた。しかし、戌の刻(午後八時頃)になるとまた揺れ始めて、前の地震の百倍の激しさであった。
空は墨を摺ったかのように真っ暗で、三十丈(約90メートル)程の蛟のような生き物が二匹現れて、雲中から火炎を吐いた。炎は天地を照らし、真っ暗だった空は白昼の如く明るくなった。そんなことが一時間程続いて、雷のように鳴り響いて東西へ飛び去った。その様子を見ていた人々は、肝を冷やした。日本が開闢されてからこの方、このようなことがあった記録はない。仏法・王法が滅び果てて魔道の国になる前兆ではないかと、人々は悲しんだ。
これは只事ではないと陰陽頭賀茂保憲を召して、吉凶を勘申させた。保憲は「今回の天変地異は、厳重に慎むことが必要だと示しております。朝敵が四夷に起こり、時が経てば合戦は避けられないでしょう」と奏聞した。これによって、諸社にあらゆる祈祷を修させた。(『前太平記』)

実際に賀茂保憲が陰陽頭として記録に登場するのは、天暦十一年(957)である。(『九暦抄』)

年表

承平五年(935)

野本合戦

承平五年(935)2月、将門は源護の息子ら(源扶・源隆・源繁)と野本において合戦となった。
源隆と源繁が討たれた。
2月4日、将門は野本・石田・大串・取木の家屋を焼き払った。石田には平国香の居館があり、大串には源護の居館があった。

源護の娘三人はそれぞれ平国香・平良兼・平良正の妻となっており、護は良正のもとへ逃げ込んだ。合戦を知って激怒した良正は将門を討つために軍勢を集めた。(『将門記』)

川曲村合戦

同年10月、将門は川曲村において平良正と合戦になった。
将門は合戦に勝利し、翌日本拠地に帰った。(『将門記』)
負けた良正は兄良兼に手紙を送り、将門を鎮めるよう頼んだ。良兼は将門を討つことに決めた。

承平六年(936)

将門が京の検非違使庁で糾問を受ける

承平六年(936)10月17日、将門は上洛して検非違使庁において合戦についての糾問を受けた。将門は罪に問われず、京に滞在することになった。(『将門記』)

承平七年(937)

将門に恩赦が認められる

承平七年(937)4月7日、将門に恩赦が出され、帰国が許された。

子飼渡合戦

同年8月6日、平良兼の軍勢は常陸国・下総国の境である子飼渡へ向かい、将門を襲撃した。陣頭には、高茂王と平良茂の霊像が飾られていた。将門の軍勢は敗退した。(『将門記』)

堀越渡合戦

同年8月17日、将門は堀越渡で良兼の軍勢を待ち構えていた。予想通り良兼の軍勢が現れたが、将門は急に体調が悪くなり撤退した。(『将門記』)

弓袋山・筑波山合戦

同年9月23日、将門は良兼を追撃した。(『将門記』)

将門へ良兼ら追捕の太政官符が発せられる

同年11月5日、平良兼・源護・平貞盛らを追捕するよう太政官符が出された。

富士山が噴火する

同年11月某日、駿河国の富士山が噴火した。溶岩が湖を埋め尽くした。(『日本紀略』)

平良兼が石井営所を襲撃する

同年12月14日、良兼は将門の仮の拠点である石井営所を襲撃した。しかし、将門の雄弁によって良兼の軍勢は逃げ出した。

承平八年/天慶元年(938)

京で大地震が起こる

承平八年(938)4月15日壬辰の夜、京で大地震が起こった。洛中の家屋は尽く破損した。陰陽寮が占ったところ、東西に兵乱があるということだった。内膳司屋が顛倒し、四人が圧死した。(『日本紀略』『扶桑略記』)

承平八年(938)4月15日、再び大地震が起こった。地震は、29日の夜まで止まなかった。
年々このように大地震が相続いたので、人々はただ事ではないと怪しんだ。それだけではなく、毎晩彗星が現れて、月よりも明るく輝いていたので、天文博士を内裏に召して吉凶を占わせた。天文博士が勘申して曰く「我が朝に彗星が初めて顕れたのは皇極天皇の御代に蘇我入鹿が反乱を起こしたときですが、その時から現在に至るまで彗星が吉兆であったことは一度もありません。彗星には、五つの色があります。蒼いときは天子が兵乱に苦しみ、赤いときは凶賊が起こります。黄色のときは女色によって害をなし、白いときは将軍が謀反を起こして二年以内に大きな兵乱が起こります。黒いときは、水精によって洪水となり、五穀が実りません。今回の彗星は白でした。おそらくは、二年以内に武士が謀反を起こして大きな兵乱が起こり、国は疲弊して民は苦しむでしょう。厳重にお慎みください」と申した。
災いを消すために、承平から天慶へ改元が行われた。(『前太平記』)

承平→天慶へ改元が行われる

天慶元年(938)5月22日戊辰、地震や兵乱などを理由に承平から天慶へ改元が行われた。(『日本紀略』)

将門の弟平将武を追捕

天慶元年(938)11月3日丙午、伊豆国の解により、将門の弟平将武を追捕するため、太政官符を駿河国・伊豆国・甲斐国・相模国に下した。(『本朝世紀』)

千曲川の合戦

同年12月、将門は上洛しようとする平貞盛を追撃した。将門は貞盛を追い詰めたが、逃げられてしまった。(『将門記』)

天慶二年(939)

2月9日 太神宮に奉幣し、将門・純友追討を祈祷

天慶二年(939)2月9日、太神宮において平将門・藤原純友追討の祈祷が行われた。(『太神宮諸雑事記』)

2月12日 平将門喚問の使者について議論が行われる

天慶二年(939)2月12日、平将門を喚問する使者について議論が行われた。(『貞信公記抄』)

3月3日 源経基が上洛して興世王と将門の謀反を訴える

天慶二年(939)3月3日、源経基が上洛して武蔵権守興世王および平将門の謀反を朝廷に奏上した。(『貞信公記抄』)

3月4日 坂東の兵乱を鎮めるための祈祷が行われる/六衛府に宿衛させる

天慶二年(939)3月4日丙午、藤原忠平は祭主大中臣奥生に命じて坂東の兵乱を鎮めるための祈祷を行わせた。また、六衛府に伺候させた。(『貞信公記抄』『日本紀略』)

3月9日 十一社および延暦寺が兵乱鎮圧の祈祷を行う

天慶二年(939)3月9日、源経基の密告により、藤原忠平は十一社および延暦寺に兵乱の鎮圧を祈祷させた。(『貞信公記抄』)

5月5日 官符を坂東諸国に下す/諸社・諸寺が祈祷・読経を行う

天慶二年(939)5月5日、朝廷は坂東諸国へ官符を下し、諸国部内の兵乱が収まらないことについて責め立てた。また、諸社・諸寺による祈祷・読経が行われた。(『貞信公記抄』)

5月15日 諸社および東海・東山両道の明神へ奉幣が行われる

天慶二年(939)5月15日丙辰、東西の兵乱によって、諸社および東海・東山両道の明神へ奉幣使を派遣した。(『本朝世紀』『貞信公記抄』『日本紀略』)

5月16日 東国介以下を任命する

天慶二年(939)5月16日丁巳、朝廷では臨時の除目が行われ、東国介以下が任ぜられた。(『本朝世紀』)

5月17日 百済王貞運を武蔵守に任命する

天慶二年(939)5月17日、前上総介従五位下百済王貞運が武蔵守に任ぜられた。(『類聚符宣抄』)

5月19日 仁王経の読経を行わせることにする

天慶二年(939)5月19日庚申、諸卿が陣に参上し、坂東の兵乱を鎮めるため、来たる25日から三日間に渡って十五大寺ならびに諸社において仁王経の読経を行うことを定めた。(『本朝世紀』)

6月1日 法琳寺において太元帥法が行われる

天慶二年(939)6月1日、法琳寺において太元帥法が修された。(『貞信公記抄』)

6月9日 源経基を左衛門府に禁錮し、小野諸興・橘最茂らを押領使に任命する

天慶二年(939)6月9日、源経基を左衛門府に禁錮した。また、小野諸興・橘最茂らを押領使に任じた。(『貞信公記抄』)

7月5日 義海が東国の兵乱を鎮めるための修法を始める

天慶二年(939)7月5日、義海は東国の兵乱を鎮めるための修法を始めた。(『貞信公記抄』)

8月17日 藤原忠平が陸奥守平惟扶の送別会を開く

天慶二年(939)、太政大臣藤原忠平は白川家に行き、陸奥守平惟扶の送別会を開き、管弦を催した。演奏者は禄を賜った。(『貞信公記抄』)

11月21日 平将門の軍勢が常陸国を占拠する

天慶二年(939)11月21日、平将門が反乱を起こし、千余人の軍勢を率いて常陸国を占拠した。将門らは舎宅をことごとく燃やした。(『扶桑略記』)

常陸国の藤原玄明は常陸国介藤原維幾からの納税の要請に従わず、さらに官物の強奪によって追捕令が出されていたので、維幾は玄明を討つことにした。
玄明は将門を頼って下総国へ亡命した。藤原維幾は下総国に玄明の引き渡しを求めたが、将門は玄明を匿って応じなかった。
同年11月21日、将門は常陸国の国司らと話し合うために常陸国へ向かったが、国司側はこれを拒否し合戦となった。将門軍は常陸国庁を包囲し、維幾は降伏した。
すると、将門軍の兵士たちは分け与えられた絹を奪い合い、300余りの家屋を一日で燃やし尽くし、財宝も奪った。翌日、維幾は印璽を差し出した。(『将門記』)
常陸国国司維幾の子為憲を破り、印璽を奪ったことによって将門は朝廷へ反旗を翻すかたちとなった。
将門は興世王に相談し、関東諸国を手中に収めることにした。

12月2日 常陸国が平将門、興世王らによって官私の雑物が損害を被ったことを言上する

天慶三年(939)12月2日戊戌、常陸国は平将門、興世王によって官私の雑物が損害を被ったことを言上した。(『日本紀略』)


12月11日、将門は下野国庁を攻めて藤原弘雅から印璽を奪う。さらに、12月15日には上野国庁を攻め藤原尚範から印璽を奪う。
関東諸国を制圧した将門は除目を行い、関東八ヵ国の国司を任命した。

12月29日 信濃国が平将門・興世王らの東国制圧について奏上する

天慶三年(939)12月29日、信濃国は平将門・興世王らが上総介藤原尚範・下野守藤原弘雅から印璽を奪い取り、東国を制圧したことを奏上した。
朝廷は信濃国へ城内の警固に務めるよう命じた。(『本朝世紀』)

下野守平将頼
上野守多治経明
常陸介藤原玄茂
上総介興世王
安房守文屋好立
相模守平将文
伊豆守平将武
下総守平将為

関東八ヶ国を占領した将門は正倉の鍵を強奪、新たな政府の大臣以下すべての役職を決めた。だが、暦博士だけは任命できなかった。
また、将門は太政大臣藤原忠平のもとに書状を送った。

私は常陸国を滅ぼし、ついに坂東諸国を支配しました。私は桓武天皇の子孫なのですから、日本の半分を領有しても決して分不相応ではないでしょう。これまで、武勇によって天下を取った者はみな史書に名が残されております。しかしながら、朝廷は私に褒賞を下さらないどころか我が身を辱められます。私は若い頃からあなた様(忠平)に忠誠を誓いお仕えしてきましたが、このようなことになってしまい嘆いております。国家に謀反を企てても、あなた様のことは忘れておりません。どうか事情をご理解ください。(『古事談』)

天慶三年(940)

1月1日 元日節会の中止/東海・東山・山陽道などの追捕使の任命

天慶三年(940)1月1日丁卯、東国の兵乱によって元日節会はなく、音楽もなかった。
また、東海・東山・山陽道などの追捕使以下十五人を任命した。東海道使は従四位藤原忠舒、東山道使は従五位小野維幹、山陽道使は正五位下小野好古となった。(『日本紀略』)

新年を迎えたが、東西で一度に兵乱が起こって急報が暇なく続いていたので、元日の朝拝は行われず、節会も行われなかった。今まで怠りなくやってきた朝廷の公事が尽く途絶えて悲しい。(『前太平記』)

1月3日 延暦寺四王院において四天王法が行われる

天慶三年(940)1月3日、東西の兵乱を鎮めるために、阿闍梨明達が延暦寺四王院において四天王法を修した。(『貞信公記抄』『阿婆縛抄』)

1月6日 伊勢大神宮へ奉幣し、五畿七道の諸神へ一階を授ける

天慶三年(940)1月6日、五畿七道の諸神に東西の兵乱の鎮圧を祈願し、一階を授けた。
また、中納言藤原師輔は左衛門の陣の外で伊勢大神宮への奉幣について定めた。これは、内裏に穢気があったことによる。(『貞信公記抄』『師守記』)

1月7日 伊勢大神宮へ奉幣使を派遣

天慶三年(940)1月7日癸酉、宴会が行われたが、東国の兵乱を考慮して音楽の演奏はなく、天皇もお出ましにならなかった。
また、東国の兵乱を鎮めるために伊勢大神宮へ奉幣使が派遣された。宮中で触穢があったので、幣は奉らなかった。(『日本紀略』『貞信公記抄』)

1月9日 源経基に従五位下を授ける/源俊・高階良臣・阿蘇広遠らを解官

天慶三年(940)1月9日乙亥、源経基は東国の凶賊平将門の謀反を密告した功績によって従五位に叙せられた。また、右衛門権佐源俊・左衛門尉高階良臣・勘解由主典阿蘇広遠らは東国使に任ぜられたにもかかわらず一向に新発しないため官職を解かれた。(『日本紀略』)

1月11日 平将門の軍勢を討てば褒美を与える官符を下す

天慶三年(940)1月11日、朝廷は東海・東山両道に官符を下し、平将門らを討てば不次の賞を与えるとした。(『日本紀略』)

1月13日 諸社に奉幣し、東西の兵乱の鎮圧を祈願する

天慶三年(940)1月13日、諸社に奉幣し、東西の兵乱が鎮まるよう祈願した。ただ、八省御斎会を修していることによって伊勢大神宮には奉幣しなかった。(『貞信公記抄』『北山抄』)

1月14日 追捕凶賊使および東国掾八人を任命する

天慶三年(940)1月14日庚辰、追捕凶賊使および東国掾八人を任じた。(『日本紀略』『貞信公記抄』)

1月19日 東西の兵乱によって五ヵ所に山陵使を派遣する

天慶三年(940)1月19日乙酉、東西の兵乱によって山階・柏原・深草・後田邑・後山階の五ヵ所に山陵使を派遣した。(『師守記』)

1月21日 諸社・諸寺が仁王経を転読する/伊勢大神宮に奉幣使を派遣する

天慶三年(940)1月21日、諸社・諸寺が仁王経を転読した。また、伊勢大神宮へ奉幣使を派遣した。(『貞信公記抄』)

1月22日 浄蔵が平将門調伏を祈願して大威徳修法を行う

天慶三年1月22日、三善清行の子浄蔵は将門の降伏を祈願するために、延暦寺首楞厳院しゅりょうごんいんにおいて大威徳法を修した。
宮中でも、国家鎮護を祈る仁王会が行われた。(『扶桑略記』)
また、泰舜・泰幽は太元帥法、明達は四天王法、静因は六足法、定玄は不動法を行った。(『貞信公記抄』)

法会の最中、藤原忠平の声が聞こえたものの姿は見えなかったので、隠形の法を会得しているのではないかと思われたほどだった。(『愚管抄』巻三)

1月24日 尊意が内御修法を行い、明達が四天王法を行う/山陵使を派遣

天慶三年(940)1月24日庚寅、平将門調伏のため、天台座主尊意が内御修法を行い、明達が美濃中山南神宮寺において四天王法を行った。七大寺の僧たちも集まり、将門調伏の祈祷を行った。(『扶桑略記』『貞信公記抄』)

また、柏原・鳥戸・多武峰・宇治などに山陵使を派遣した。(『師守記』)

1月30日 石清水・賀茂・住吉の三社に奉幣し、祈祷する

天慶三年(940)1月30日、石清水・賀茂・住吉の三社に奉幣し、東西の兵乱の鎮圧を祈祷した。(『貞信公記抄』)

2月8日 特命大使が東国へ派遣される

天慶三年(940)2月8日、朱雀天皇は征夷大将軍右衛門督藤原忠文に節刀を賜り、大将軍として東国へ派遣した。
副将軍として藤原忠舒・藤原国幹・平清基・源就国・源経基らが同行した。(『扶桑略記』)

2月13日 藤原秀郷・平貞盛らが下総国に到着

天慶三年(940)2月13日、藤原秀郷・平貞盛らが下総国に到着し、平将門を攻めようとした。しかし、将門は兵を率いて嶋広山に身を隠した。(『扶桑略記』)

『将門記』では、将門は幸嶋の広江に隠れている。

2月14日 藤原秀郷・平貞盛が平将門を討ち取る

天慶三年(940)2月14日の未の刻(午前3時)頃、秀郷・貞盛らが平将門を攻めた。将門が貞盛の矢に当たって落馬したところへ秀郷が走ってきて、将門を討ち取った。

2月29日 遠江・駿河・甲斐が平将門を討ち取ったと奏上する

天慶三年(940)2月29日、遠江国・駿河国・甲斐国等が平将門が討ち取られたことを奏上した。(『貞信公記抄』)

3月7日 甲斐国が平将門の弟将武を討ち取ったと奏上する

天慶三年(940)3月7日、甲斐国から解文が届き、将門の弟将武らを討ち取ったということだった。(『貞信公記抄』)

3月9日 平将門討伐の論功行賞が行われる

天慶三年(940)3月9日乙亥、藤原秀郷は従四位下に叙され、不輸租の功田を賜った。平貞盛は従五位上に叙され、右馬助に任命された。源経基は従五位下に叙され、大宰小弐を兼任した。(『扶桑略記』)

藤原忠文の論功行賞のとき、右大臣藤原師輔は功績が疑わしいものであっても許容するように述べたが、左大臣藤原実頼が「疑わしいものについては与えるべきではない」と述べたので、忠文は恩賞を賜ることができなかった。

3月18日 藤原忠文が興世王を討ち取ったと奏上する

天慶三年(940)3月18日甲申、征夷大将軍藤原忠文が上総国で興世王を討ち取ったと奏上した。(『貞信公記抄』『日本紀略』)

3月25日 藤原滋茂が印鎰を奪われたことで上総介を解かれる

天慶三年(940)3月25日辛卯、上総介藤原滋茂は平将門の乱において印鎰を奪われたことによって、職を解かれた。(『日本紀略』)

4月12日 常陸国が平将門の弟将種・陸奥権介伴有梁らの謀反を奏上する

天慶三年(940)4月12日、常陸国の飛駅が参上して故平将門の弟将種・陸奥権介伴有梁らが謀反を起こしたと奏上した。(『師守記』)

4月25日 藤原秀郷が平将門の首を進上し、梟首する

天慶三年(940)4月25日庚申、下野押領使藤原秀郷が平将門の首を進上し、東市に梟首した。(『貞信公記抄』)

生き残った将門の関係者たち

平将門とその従類は一人残らず滅亡しした。将門の妻子・眷属はかなたこなたに逃げさまよい、不本意ながらも出家する者、所縁を求めて降人となり、貧しい衣服を着て金持ちや身分の高い者に取り入る者もいた。
中には山林に逃げ隠れた者もいたが、少しの食糧もなかったので餓死し、死体を片付ける人もいないので狼に屍を食われた。(『前太平記』)

将門の御霊伝説

将門塚

天慶の乱の後、平将門の首級は京に送られたが、三日後に白い光を放ちながら東方へ飛び去り、武蔵国豊島郡芝崎に落ちた。
その時、地震が起こり太陽も光を失って空は暗闇に覆われた。人々は恐れおののいて塚を築き、埋葬した。
その後も、将門の怨霊が祟りをなすことが度々あったので、徳治二年(1307)に真教上人が将門を供養して霊を祀った。将門の霊魂は鎮まり、この地の守護神となった。

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